握手会
「葛木さんは何故アイドルを目指されたのですか?」
雑誌記者はノートパソコンのキーボードに手を乗せ、質問をした。今日の仕事は午前中に郊外でのグラビア撮影、そしてこの喫茶店の個室での雑誌インタビューの後、都内ではかなりの規模を持つCDショップにて握手会だ。葛木沙羅は営業用の笑顔でマネージャーの渡部が準備したとおりの受け答えをする。
「小さい頃からの夢だったんです。煌めくステージの上でみんなの期待を背負って歌い、踊る。そして笑顔の輪を広げることが」
いつからか嘘が上手くなった。嘘を嘘だと感じさせなくなった。職業アイドルとしての風格がついてきたということなのだろうか。
「なるほど……、葛木さんの代名詞といえば度々話題になる握手会ですよね。多くのアイドル達がやっている普通の活動のはずが、葛木さんのそれは他と異なっている。なんというかやる気に満ちあふれているというか、全身全霊を持って行っているというか。正直、手を触れあう握手会を嫌う子達って多いでしょ?最近は物騒なご時世ですし。嫌々やっているのを隠そうともしない子も少なくありません。しかし葛木さんは違う。SNSでも握手会で大ファンになったとおっしゃられる方も多く見受けられます。あるネット界隈では握手会の姫と呼ばれているとか。それもまた今おっしゃった昔からの夢のためなんでしょうか?」
カタカタというキーボードを打つ音をBGMに、コーヒーの香ばしい香りを
「そうですね……いまいち自分で意識したことはなかったんですがそうなのかもしれません。私はファンのみんなに寄り添うことができる、いつでも隣にいると感じられてもらえるようなアイドルが理想だと思っていて、だから何よりも身近に感じられる握手会を大切にしています」
「深いですねえ」
記者はほお、と感心したように指を動かした。沙羅が視線を下げるとほとんど飲んでいないオレンジジュースは氷がすでに完全に溶けきりひどく薄まってうすらぼんやりとした色になっていた。インタビューが開始してそれなりの時間が経っていたようだ。渡部が「そろそろ次のスケジュールが……」と記者に告げた。
「あ、そろそろお時間のようですね。今回のインタビュー記事が雑誌に載るのは一月後になるかと思います。発売前に一度おくらせていただきますね。今日は貴重なお時間をいただきありがとうございました」
「いえ、こちらこそお話楽しかったです!最後に握手してもらえませんか・」
記者と共に沙羅も席を立ち、手を差し出した。
「はは、流石は握手会の姫ですね。むしろこちらが頼みたかったぐらいです。役得役得」
記者はひまわりのような天真爛漫さと、白百合のような貞節をもった沙羅の笑顔に少し照れたように手を握る。
「なんで沙羅はそんなに握手にこだわるの?ライブでも可能なら予定に入って無くてもしようとするわよね?」
次の仕事場であるCDショップに向かう車の中で、渡部は運転しながら沙羅にそう聞いた。沙羅が握手会にこだわる理由はもう五年も二人三脚で行ってきた渡部も知らなかった。正直もうかなりの有名アイドルとなった沙羅には必要ないのではないかと減らしたく思っているのだが、沙羅は普段の柔らかな態度からは考えられないほどの頑固さを見せて固執する。
「秘密、です」
沙羅は窓の外を流れる木々の影を眺めながら短く答えた。短く切りそろえられた髪が空調に煽られて揺れる。普段はましゅまろのような柔らかな雰囲気を身に纏っている沙羅だったが、渡部の前では普段は常に持ち上げられている口角も角度を失い、目もどこか冷めたようになる。口数も少なく、無口であった。決して渡部を信頼していないわけでも嫌っているわけでもなかった。この顔知っているのは数少なく、アイドル人生の最初から共に苦労を重ねてきた渡部以外には家族にしか見せていないだろう今をときめくアイドル葛木沙羅の素顔である。自分の知っている限りでは他に誰も知らないどこか憂いを持った沙羅を渡部はちらりと横目で覗く。つんと上を向いた鼻。キレのある輪郭。憂いのある目尻。きゅっとしまった唇。まるで月の女神アルテミスのような妖気を持った横顔には同性の渡部であってもどきりとしてしまう。歳を重ね今の路線が厳しくなったとしても女優や他の路線に乗り換えることが十分可能だろう。まだ沙羅は十九歳でありそういったことを考えるのは早いかもしれないが。
「渡部さん。青。ちゃんと前見てください」
沙羅の今後の展開について考えに耽っていた渡部は信号が変わっていることに気付かなかったようだ。そもそもいつ交差点で止まったのか。危ないところだったと渡部は少し冷や汗をかいた。
「渡部さんは運命について考えたことがある?」
沙羅はぽつりとそう呟いた。今まであまり仕事以外のことを話したがらない沙羅であったが、今日は少し違ったようだ。渡部はですます口調ではない普段とは違う沙羅に驚き、きっと何か深い意味があるのだろうと慎重に口を開いた。
「私は沙羅に出会って、こうして一緒に頑張っていられることを運命だと思っているわ。そういうこと?」
沙羅はバックミラー越しに冷たい視線を渡部に送ったが口を開こうとしない。照れているわけではないことはこれまでの付き合いからすぐにわかる。渡部は返答に間違ったかと焦り、再度口を開こうとしたがその前に沙羅はその涼しげな唇を動かした。
「人は一生の間に三万人と間接的に関わり、三千人と職場や学校などで机を並べ、三百人と近しい関係を築き、三十人と友人関係になり、三人と親友になるらしいわ。もちろん多少の個人差はあるのでしょうけれど、普通に暮らしている限りではその数に収束するとか」
「私はその三人の内に入っているのかしら?」
渡部は先ほどの失点を無くそうとそう軽口を叩いてみるが、沙羅は全く気にしたそぶりを見せずに話を続けた。先ほどまで緑に溢れていた窓の外の風景が、じょじょに灰色を増やしていた。
「今の世界の人口は七十四億人。つまりなんらかの接点をある特定の個人と結ぶ可能性は七十四億分の三万、つまりだいたい二十五万分の一、日本国内だけに限ったとしても四千分の一だわ」
「運命の王子様が見つからない訳ね」
今日はもうだめだ!と渡部は今口に出した言葉を盆に返すことが出来ないだろうかと酷く後悔した。普段では考えられないぐらい饒舌になっている沙羅にとってこの会話はきっと深い意味があるのだろう、と渡部は桃色のゼリーをフル回転させる。
だが渡部の苦悩とは裏腹に沙羅は表情の温度を三度ほど上昇させ、口角も頭をもたげる。
「ええ、そのとおりよ。それがさっきの答えよ」
そう言うと沙羅はまた目線を窓の外へと向けた。しかし先ほどとは違いその横顔には熱を帯びていた。どことなくディヲニュソスの面影がそこにはあった。『さっきの答え』?渡部はそれがいったい何なのか。どうして沙羅が上機嫌なのかについて考えをめぐらせようとしたが、車はすでに次のCDショップまでもう少しの地点にいた。急いで頭を仕事用に切り換える。今日は先月だした新しいシングルの宣伝と握手会だ。何曲か店先の小さいステージで歌うサプライズも用意している。熱狂は間違いなしだろう。
沙羅もまた雰囲気を外向けのものへと変貌していた。慣れている渡部でもその変わりようにはたまに驚かされる。
「お疲れ様でーす!」
沙羅は満面の、だが腹にもたれない素朴さも持った笑みで挨拶をしながらCDショップの事務所へと入っていった。扉の近くで荷材の整理をしていた男性ショップ店員も思わず手を止め見惚れてしまっている。
数曲だけのミニライブをそつなく終えた沙羅は簡単にニューシングルの宣伝をした後、とても嬉しそうな表情ですでに準備されている握手会用のテーブルへといそいそと向かう。その足取りは好きな子が待っているかのような軽やかで可憐なものであった。
整理券を持ったファン達が列をなしていく。
「シングル聞きました!最高でした!」
「ありがとう!これからも応援してくださいね」
沙羅の握手会は他のアイドルと違い触れ合っていられる時間が長く、そして軽く触れるような、ファンの側から握っているような握手ではなく、むしろ沙羅の側から積極的にぎゅぎゅっと、そしてまさぐるようにされる。これで墜ちない男がいるだろうか。いやいない。どんな相手だろうと決して嫌がらず、むしろ嬉しそうに。そしてそこから演技感が全くしない沙羅の様子に、搾取会はピンク色の雰囲気をもった異様な空気になっていた。いつものことではあるが。
無事握手会が終わり、沙羅がファンに向かって手を振り退場する。その表情は握手会中の喜色満面とした笑顔とは違い、どことなく影が差したような、大人びたものであった。ファンの間ではこの表情をアダルティ沙羅ちゃんと呼び、日々その真意をめぐって討論が行われている。あるファンはやはり握手会が負担なのではないだろうかと心配し、あるファンはいや握手会が終わってしまったことを悲しんでいるのだと主張し、あるファンは腱鞘炎なのではないかと沙羅の体調を気遣う。そんなことはともかくあの沙羅ちゃんいいよね……という意見には全員が同意するのであるが。
沙羅を家へと送るための車内で渡部はこの後の予定について話す。外はすでに日が落ちていて、家路につく人もまばらになってるほどの時刻であった。
「今日はもう仕事がないからフリーよ。でも明日も朝早くから仕事があるからハメを外しすぎないようにね?」
「わかってます」
沙羅の表情は向かうまでのそれとは違いどこか失意のブルーを含んだ冷めたものになっていた。握手会の後はいつもこうである。前後で様相を一変させる。その真意には渡部でさえも未だにつかめていない。疲れからきたものだけではないということだけはわかるのだが。
自宅であるセキュリティのしっかりとしたマンションの前で沙羅を下ろす。今年高校を卒業し、大学生となった沙羅はすぐに実家を出て、一人暮らしを始めた。大学が実家からそう遠くないところにあるにもかかわらずだ、沙羅は家庭の事情について事務所にも全く話しておらず、ひとまずは要注意という喚起が事務所内でされている。最も近い渡部も何かあればすぐに対処を、と気を張っていた。
「じゃあおやすみなさい」
「おやすみなさい」
沙羅がきちんとマンション内に入っていくのを確認した後、渡部は事務所へと車を走らせる。マネージャーの仕事はまだまだ残っているのだ。姫を無事送り届けても騎士に休息は与えられない。
沙羅はレトルトと栄養剤という味気のない夕食を終えた後、シャワーで汗を流し、化粧水各種で美を整える。日々の積み重ねが明日の美しさを産むのである。
一人暮らしには少し大きい部屋の中にはアイドル活動に必要な細々とした物以外にはパソコン、机、ソファーぐらいしか存在せず、年頃の娘さんらしい小物類は置かれていなかった。それどころか段ボールが何箱も積まれていた。
手帳で明日の予定を確認した沙羅は部屋の片隅に積んである段ボールの中からミネラルウォーターを取り出し軽く口に含むとソファーに座り込んだ。寝るまでにはまだ少し時間があった。
沙羅は自分の手を目の前に掲げる。小さな白い綺麗な手だ。
「今日も見つからなかった……」
沙羅は手を探していた。運命の、というような素敵な言葉に飾られる手ではない。むしろ因縁や執念といった言葉の方が似合う手を探しているのだ。アイドルになった理由。握手会を嬉々として行う理由。それこそがこの探し求めている手なのである。
アイドルになってもう五年。握手会の回数はもう優に二百は越えているだろう。しかしその手は未だ現れない。
沙羅の記憶の中に存在する太陽のような暖かみをもった手。
沙羅は決して諦めない。石にかじりついてでも探し求める。
もうそろそろ寝よう、と沙羅は電気を消し、ソファーに横になった。
「次の握手会は一週間後か…」
次こそは出会えると良いな……。閉じられた沙羅のまぶたの端には月の雫が零れていた。