BGB 第一話 「落ちるタイヨウ」
この世に神はいるだろうか。
おそらくそれなりに教育を受けたのなら、あるいは受けずとも、そしてなんらかの宗教に接していれば、あるいは接していなくとも誰しもが一度は抱く疑問だろう。
それに答えを用意するのは哲学か、科学か。
それとも絶対の自然か。
ありとあらゆる場において時に冗談まじりに、時に真剣に語られたこの問いについて人々は口にしただろう。
大抵は議論の続行かあるいは打ち切りという形で答えが用意されることはない。
あるとしても思い込みという枠組みを逸脱しない程度のものである。
その難題に。
答えを持つ者は実はこの世に多数いる。
「ない」ということを証明することの壁の高さはよく知られていることではあるが、はやい話がその存在を確認できればいい。
視さえすればいい。
その術を用意し、行使することのできる人間。
神にふれうるその存在を。
その術を持つ人間を、彼らは“術者”と、誇りを持って自称した。
その“術者”の一人が今、都内某所の部屋にいた。
その男は髪が長く、そろそろ冬の足音が聞こえてくるだろうかというこの季節において、室内といえどTシャツとジーンズだけという薄い格好をしていた。
ソファにゆったりと腰掛けながら言う。
「仕事だ、タイヨウ」
その男の正面、ちょうど中学を卒業したくらいであろうか。
まだ子供のあどけなさを幾分か残した少年がいた。
その名をアシベ・タイヨウと言う。
「またっすか……いい加減まともな修行つけてくださいよ師匠」
その瞳を半眼にして師匠と呼ぶ男を視る。
懐疑とめんどくささとそして諦めがないまぜになった視線。
「その言い方は止めろっつってんだろタイヨウ」
この男はタイヨウを弟子として認めた覚えはない。
少年の言うとおり仕事と称してタチの悪い事案を少年に斡旋しているだけだ。
報酬は折半。
何度訂正したところで“師匠”呼びはあまりに治らないがゆえに根折れという形であきらめてはいるのだが。
「俺のダチがちと前に死んじまってな。そいつの遺品……まぁ形見か。それが俺の手元にあるんだが、そいつを娘にとどけてやってくれ」
「……要は宅配便っすね」
冗談まじりにまぜっかえす。
友達と呼べる人間がいたのかと突っ込もうかと思ったが返ってくるものは恐らくを想像して辞めた。
「まぁその通りだ。簡単だろ?」
少し挑戦するかのように師匠は言う。
その言葉に、発言に、タイヨウは直感した。
これはタチが悪いと。
師匠が簡単だろと言う時は往々にしてめんどくさい背景かややこしい事情が潜んでいる。
今回ならば。
「“何”を“誰”に届けりゃいいんすか」
おそらく爆弾よりも危険でテロリストよりも扱いづらいことは間違いないだろう。
にやり、と。
師匠は笑った。
罠にかかった獲物を見るような愉悦の笑み。
「それはお前が直に見るまでお楽しみだ」
嫌な笑みが続く。
「それとな、一つ忘れてることがあるぞタイヨウ」
近くのテーブルにあったたばこに火をつけ、ふかす。
「忘れてること……?」
「お前、符は今何枚ある?」
その視線がタイヨウの腰にぶら下がっているケースを捉える。
男の言った符が収められている、いわばタイヨウにとっての鞘だ。
術を使うならば、タイヨウにとって不可欠なものである。
「今は……多分各二百枚はあると思います」
以前に回された仕事でかなりばらまいた後、補充につぐ補充をした。
その都合上、というよりタイヨウの体質上、彼は人より多くの符を使う。
符は要するに彼の術者としての生命線なのである。
「それだけありゃとりあえず十分だな」
男は立ち上がりその指に持ったタバコで宙に術式を描く。
灯された炎は力を帯に、まず円を表彰させた。
そしてその内側。
縦に浮かび上がる一つのライン。
そこに火を突っ込む。
さながら鍵穴に鍵をさしこむような動作。
カチッ、と音がする。
何かがはまって動いたような音。
同時、タイヨウの後ろに扉が出現した。
「食料と当面の生活ができるような物資は用意してある。まぁ存分に働いてこい」
扉が開く。
その扉は向こう側からすれば宙にあるようでそこから見えるのははるか下に横たわる大陸。
いや島だろうか。
ただタイヨウが認識できたのは唯一その扉が空中にあるということだけだった。
「え、ちょ、ここからいくんすか?!」
「ご名答」
そう言いながら扉の方に身体を向けていたタイヨウの背を男は蹴った。
当然、タイヨウは扉の中に落ちる。
文字通りの、落下だ。
「ちょっとぉぉぉぉぉぉ!!!!!」
「行ってこい、タイヨウ。そこは神のいる異界だ。大いに楽しめ!」
遠ざかっていく師匠の顔を視る余裕はタイヨウにはなかった。
風が音をたてる。
身体が空を切る。
地上までどれほどの距離があるかわかったものではないが、タイヨウはとりあえずこんな落下を人生ではじめて経験していた。
「だぁもうクソッ!!」
とりあえずこのまま落ちていれば多分死ぬ。
地上までの時間はすぐ終わるということはないだろう。
空中で術式を展開ぢて地上に着陸する以外ない。
体勢を整えて、一度落ち着く。
一番簡単かつ安全な方法で地上におりるにはどうしたらいいか。
「よし」
考えること数秒。
タイヨウは腰から符を取り出す。
通常ならただの紙は空気抵抗がゆえに相対的に上へ行ってしまうだろうが、そこは符である。
魔的な効力を持つ符は、常識の埒外にあった。
タイヨウと共に落ちていく符は二十枚。
少年が基盤とする体系の五つの“方位”。
それを四枚ずつ。
「その心に“央”、廻し照らすは天の陽、地の陰。呑まれることなく輝き昏きまわれまわれまわれまわれ。ここにもんを開く。ここに我が知る、契約の詞に従い、我は其と等しきものなり。我は其の月。我は其の太陽。来たれ」
タイヨウを中心として上下に四枚枚、円状に十六枚が並ぶ。
その一枚、一枚が連なりやがて
「竜!!」
伝説の生物が顕現した。
「今度は空かよ。竜使いが荒いぞ、タイヨウ」
開口一番、召喚された竜は文句を垂れた。
その姿は一般に想像される東洋の竜とほとんど同じものだ。
長い胴体、するどい爪を持つ手足と長大な角。
強いて言うなら、その体色が白銀であることが、想像とは少し違うだろうか。
「るせぇよ。空だったらお前の住処だろうが」
「一緒にするなよタイヨウ、この空とオレの故郷はだいぶ違う」
見た目に反してその声はだいぶ若々しい。
ゆえにタイヨウも自然と砕けた口調になるのだが。
「そうなのか。いやそれはそうとして」
何が違うかは気になる部分であるのだろう。
しかし、少年にやらねばならない急務がまずある。
「とりあえずのっけてくれ」
感覚としては馬にのっているのとそう大差ないだろうか。
多分にその竜が召喚者を気遣っていることもあるにはあるだろう。
「で、どこにおろしゃいい?」
白銀の竜は背に載せたタイヨウに問いかける。
「とりあえず真下で頼む」
「あいよ」
そこからは風切り音のしない快適なものだった。
「さっき言ってた話、オマエの故郷とここはどうちがうんだ?」
「んー……言葉にすんの難しいけど……なんかこう、居づらい」
「居づらい?ただっぴろいこの空がか?人の家とかならまだわかるけど」
「まさにその人の家なんだよ、ここ」
「……どういうことだ?」
何もないように見える空が人の家。
同じような“伝説”がこの空にすんでいるということだろうか。
「タイヨウ、オレを呼ぶのに世界召喚したろ?」
「そりゃまぁ、ここ異界だからな……」
落とされる前の師匠の言葉を思い出す。
神の居る異界。
「やっぱり。それだぜタイヨウ」
「なにが?」
「居づらさだよ。ここ要するに誰かしらの“界”だろ?てことは空もそいつのもんだ」
空の持ち主。
師匠の言っていた神のことだろうか。
「空に持ち主ねぇ……」
「というか支配者だな。現実世界じゃあまりわかんない感覚だろうけど」
「空じゃなくて土地だと考えりゃわからんでもないかな……」
「まー、感覚的なもんだよ」
そういった会話をしている内。
はるか下方に見えていた地上がようやく近くにあると思えるところまで来ていた。
「ありゃなんだ……?」
その地上の見渡すかぎり山と林だけだと思っていたその一点に、家とそれなりに広大な畑があった。
この世界にいる住人だとすればそれは神以外ありえないはずなのだが、それにしては質素すぎる。
というよりも。
「レンガ造りの家に神が住むわけねぇよなぁ……」
その家はレンガでできていた。
あまりにも、神の住居とかけ離れていた。
「とりあえず近くにおろしてくれ」
よくよく見れば上空から畑に見えたそれは一部は確かに畑として機能していたのだが、実際その大部分は祭場だった。
簡単にいえば術式を行使するために整えられた場だ。
特に何かが行われた跡があるというわけではないが、ここだけ“位相”が異なる。
土地の力を利用して術式を組むタイヨウにはよく見えていた。
「よし、それじゃオマエは帰っていいぞ」
地におりたったタイヨウは呼び出した竜の首を優しく撫でながらそう言った。
「えー、オレ残るよ?」
「は?」
全く想定していなかった残留宣言に思わず戸惑いを口にした。
「ここがどこかわかってるよな?」
「うん、異界だろ、多分神の」
「わかってんなら帰れ。安全の保証はしかねる」
事実、タイヨウはその住まう神について全く情報がない。
どういった存在なのか。
おそらく荒ぶっているということは扉から突き落とされて今までを思うにないのだろうが。
「全くもってそのとおりです」
と。
竜と向かい合っていたタイヨウのその首。
鉄の冷たい感触が、タイヨウの首元につきつけられていた。