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老婆の家を出て店に戻った時には、すでに日はすっかり暮れていた。店の戸口は閉まっており、老婆とアキは母屋の裏口へ回った。
「普段はこっちから入るといいよ」老婆が言った。
「もうわかってると思うけど、店の方とつながってるからね。あとは……そうだ、いつもは私は家か、そうじゃなかったら町のどこかにいるよ。それから、家に来るときはあまり道の真ん中は通らないでおくれ。前に通行人に気付かないで、踏んづけそうになったことがあるんでね」
「その人、大丈夫だったんですか?」アキはぞっとした。大人一人分はある大きさの足だ。まともに踏まれればぺしゃんこになってしまう。
「ああ、向こうが避けてくれたんで大事無かったけどね。本当なら私が道を歩かなきゃいいんだけど、いつの間にか町の人らの方が道を避けてくれるようになっちゃてね……まあ、そんなわけだから気をつけておくれよ」
「はい……」
話し声が聞こえたのか、裏口の戸が開くとリンゴが顔を出した。腕には大きな紙を丸めて抱えている。
「や、店長とお孫さん」
「リンゴ、今日もご苦労だったね」
「なんですか、改まって。ははあ、お孫さんの手前だから――」リンゴはニヤニヤした。
「リンゴ」
「冗談ですよ。で、お孫さんは結局こっちで?」
「もちろんだよ。私の家にいちゃ、いつつぶしてしまうかわからないよ」
「ごもっとも。今日の売り上げをまとめておきましたよ」リンゴは大きな紙を丸めて老婆に差し出した。キャンバスほどの大きさがある紙なのに、老婆からすれば指先に乗ってしまうほどしかなかった。
「ああ、助かるよ。それでねリンゴ、店員が一人増えることになったよ」老婆は逆の手でアキを指した。
リンゴが目を丸くした。
「本当ですか。人手が足りないってわけでもないですけど」
「まあ、手伝いだね。店番くらいなら任されてくれるから。構わないだろう?」
「そういうことでしたら歓迎ですよ。私の時間も増えますし」そう言ってからリンゴはハッとしたように大げさに目を見開いた。
「まさか、それで私の給料下がるのでは?」
「なるほど、それもいいね」老婆がこともなげに言った。
「うちもそう繁盛してるわけでもないしね……」
「い、いやいや、それはちょっと」
「冗談だよ。給料なんか減らさないよ」老婆は笑った。
「でもアキ、本当にいいかね?ソテツが勝手に言ったことだし、まともに取り合う必要なんかないと思うがね」
「いえ、迷惑でなければやります。やらなくても暇になるだけだと思いますし」
「そうかい。まあ、こっちとしても助かるか」
「どのみち暇だろうしね」リンゴはつぶやくように言ったが、老婆が耳ざとく聞きつけた。
「おいリンゴ、そりゃどういう意味だい」
「冗談ですよ」
「やっぱり給料は減らそうかね」
「いや、冗談ですって……すいません」
*
老婆はリンゴと少し話すと、アキを頼んだよ、と言って家に戻っていった。
「お疲れ様でした」
「おやすみなさい」
リンゴとアキは夜に消えていく巨大な背中に声をかけると、母屋へ入った。
「ああやってね、毎日店の終わりごろに顔を出すんだよ」廊下を通って台所へ向かいながらリンゴが言った。
「でも収支の管理以外はほとんど私に投げっぱなしなんだよね」
「信用されてるんですね」
「前向きに考えれば、そういうことかな」リンゴは笑った。
「もう長いことやってるからね」
リンゴは台所に入ると、アキに座るように言って自分は奥の料理台に向かった。まな板の上には何かの野菜が刻まれている途中で置いてある。
「お腹空いた?ちょうど飯作ってるところでさ」
「何か手伝いますよ」
「いいよいいよ、今日は着いたばっかりなんだし疲れたでしょ。座ってなよ」リンゴは無造作に手を振った。
「あ、でもやっぱり食器を出してくれると助かる」
「わかりました」
アキはガラス窓がはまった小さな食器棚を開けて皿とスプーンを取り出した。戸を閉める時、棚の上に木彫りの置物が乗っているのに気が付いた。
紡錘形のそれは何なのかよくわからなかったが、魚のような尾びれと、目と大きく開いた口らしきものがあるのでおそらく生き物なのだろう、とアキは眺めながら思った。ただ、その目玉のように見えるものは顔(と思われる部分)の両側に五個づついていたので、本当に目なのか――そもそもこの置物自体生き物を表しているのか――は怪しい。滑らかな曲線を描く葉巻型をくねらせたそれは、まるで泳いでいるように見えた。