8-3
リンゴが熱を出した時、アキは町の診療所へ薬を買いに訪れていた。リンゴは診察料がもったいないと言って医者には掛からなかったが、事情を知ったキジが薬だけでも飲んでおきなさいと、お金を出してくれたのだ。それを聞いたリンゴは、あの店長がこんなに優しいとは、こりゃ明日は豪雪だね、と冗談を飛ばしつつも感激した様子だったが、薬代は来月の給料から天引きされるそうです、とアキが続けて伝えた途端に蒼白な真顔になっていた。
目の前の部屋は、見慣れないものこそあるものの、数日前に見た診療所の待合室を彷彿とさせていた。恐らくここは医療施設なのだろう。あの時、雑貨屋の母屋で倒れた後の記憶ははっきりしないが、ここへ運ばれてきたらしい。
目を上げると、部屋の入ってきた扉とは反対の壁の角にガラス製のドアがあるのに気が付いた。近づいて押すと、これもあっさりと開いた。
そこは玄関のような小さな部屋で、壁の棚には全て同じ緑色のスリッパがずらりと入っている。その向かいの白い扉には縦長のすりガラスの窓が付けられており、向こう側は見えなかったが、空気の匂いが明らかに変わり、肌に感じる涼しさがわずかに増すのが分かった。どうやらこの扉の向こうが屋外らしい。アキはスリッパを一足手に取って、裸足に履いた。
「外へ」
アキが扉の取っ手に手を掛けた時、五回目の催促が聞こえた。アキは少しためらった後、扉を押した。
*
外に出ると、そこは見知らぬ町の中だった。アキが今出てきた建物は黒い道に面している。道の両脇には灰色や茶色の民家が幾つか建っていた。
アキが振り向くと、それまでいた建物が見上げられ、それは周囲の民家よりもかなり大きいのが分かった。白い壁のその建物はやはり外見からしても医療施設のように見える。
アキは扉の前の小さな階段を下り、黒い道へ出た。細かい砂利が隙間なく敷き詰められているようにも見えるその道は、石畳とも異なるようだ。
町はひっそりと静まり返り、人の姿は見えない。アキは道の端をおもむろに歩いて行った。
一分も歩かないうちに、道の右手から立ち並んだ民家が無くなり、その先の開けた光景が見えた。
そこは小高い丘陵であるらしく、道の向こうは落ち込んだ斜面になっている。ずっと遠くの低い平地には白い町並みが広がっているのが見えた。その町並みの向こうには小さな山と、その上空を覆う薄紫の雲。
不意に背後から光が射し、アキは振り向いた。民家の屋根から眩しい日光が顔を覗かせる。夜明けだ。前に向き直ると、自分が立っている丘が下方の町に覆いかぶさるような影を落としていた。
主の見えない声は建物を出た時から沈黙している。アキはなぜか眼前の景色から目を離せずにいた。ぼんやりとしている時に、何となく視線を空中に漂わせるあの感じによく似ている。ただそれとは違って、朝日に照らされていくこの町並みには目を引きつけてやまない何かの力を感じた。
その時、突然冷えた静けさを裂くように高い音が響き渡った。大きくはなくとも鋭いその音は、まるで風鳴りをうんと高くしたようだ。
ほぼ同時にアキの視線が町並みの向こうの山の稜線に動く影を捉えた。朝焼けに赤く染まった薄雲の中に、とてつもなく巨大な姿が、山の向こうから現れる。
それは紡錘形の身体をゆっくりとくねらせ、空を泳ぐようにこちらへ移動してくる。接近するにつれ、それが本当に、途方もない大きさであるのが分かった。もう十分近づいたと思ったら、まだ遠くにいる。とうとうアキの真上にさしかかった時には、その体躯は視界を丸ごと占領するほどになっていた。雲の合間にチラチラと日光を反射して輝く白い身体を見え隠れさせながら、それは東へ、朝日に向かって泳いで行く。時折風が唸るような音が空から響くのは、それが上げる鳴き声なのだろうか。壮大という言葉ではとても足りない光景の前に、アキはぽかんと口を開け、ただ突っ立ってそれを見上げていた。
それが遅くともまっすぐに地平線を目指して移動してゆくのを見送っていると、日光が急速に弱まるのに気が付いた。東の空から大きな灰色の雲の塊が現れて、見る見るうちに頭上を覆っていく。ひゅるひゅると湿った風も吹き始めた。さっきまで清々しい朝日に包まれていた光景は、今や雨が降り出す前の重い薄闇に支配されている。
今にも一雨来そうな空模様になったが、それでもアキは東へ進む大きな影に視線を釘づけにされたままだった。
それは暗灰色の雲海に向かって速度を変えずに進んで行き、一際大きな鳴き声が空をつんざいたかと思うと雲の影に姿を消した。
風が強くなる。ぽつり、と額に触れた冷たい感触にアキは我に返った。雨だ。ぱらぱらと小雨が降り始めた。
「アキさん!」
だしぬけに至近距離で名前を呼ばれ、アキは飛び上がった。傘が頭上に差し出され、アキが着ているシャツの上にタオルが被せられる。
アキが横を向くと女性が一人、肩で息をついていた。すぐにさっき起きた時に水を飲むのを助けてくれた人だと気が付いた。




