8-2
次にアキが目を覚ますと、部屋の中はさっきよりもかなり暗かった。ゆっくりと起き上がり、自力でそれができることに気が付く。四肢の中の鉛は消え、不思議に体が軽く頭がすっきりと冴えていた。
毛布をどけ、ベッドから立ち上がる。着た覚えのない簡素なシャツとズボンを身に付けていることに気が付いた。どれほど眠っていたのだろうか。
ひんやりとした薄闇の中に裸足で踏み出す。あの燃えるような熱を感じた悪夢の後では、少々の肌寒さが心地よかった。ここはどこなのだろうか。恐らく町の診療所ではない。さっきの女性のことも気になった。
ちょっと歩いたところで、ぐらりとふらついた。慌てて壁に手をついてもたれかかる。さっきは腕を上げることにさえ苦労したことを考えれば、不自然なほど体力が回復しているが、それでも全快したというわけではないようだ。
アキはやはり大人しく寝ていた方がいいかと思い、ベッドに座ろうと後ずさりした。
「アキ」
その時だしぬけに名前を呼ばれ、アキは驚いて辺りを見回した。当然のことながら、誰もいない。まさか幻聴だろうかと思ったその途端、また名を呼ばれた。
「アキ」
低くも高くもなく、男とも女とも、子供とも老人ともとれないその声は、まるで人のものではないような無機質さがあった。どこからともなく聞こえてくることも相まって、ひどく不気味に感じられる。アキは肌に感じる涼しさが、突然悪寒に変わったような気がした。
「アキ」
またしても姿なき声。アキはどうすべきかと逡巡した挙句、誰もいない空間に向かって恐る恐る尋ねた。
「誰?」
アキ一人しかいない部屋の中に問いがぽつりと浮き、一瞬馬鹿馬鹿しいことをしている気分になったが、少し間があって声が返って来た。
「外へ」
アキの名前を呼ぶのはやめたものの、何者なのかという質問に答える気はないらしい。
「外?」アキはオウム返しに言った。
「この部屋から出ろって?」
「外へ」
声はただ同じことを繰り返す。
アキはどうするべきか考えた。ベッドに戻って毛布をかぶってしまうか、誰かが来ると信じて人を呼ぶか、それともこの幻聴の言うとおりに部屋を出るか。
あるいは、これは全部夢なのかもしれない。もう一度眠って目が覚めれば、雑貨屋の自室のベッドの上にいるのかもしれない。それとも、巨人の祖母も人工惑星も科学施設もあの手紙も全部夢で、本当は、アキは故郷の家のベッドで寝ているだけなのかもしれない。町を訪れてからの奇妙な一連の出来事が、不意にアキにそんな投げやりな考えを抱かせていた。
混乱した思考に割り込むように、正体不明の声がアキを急かした。
「外へ」
アキは心を決めた。何も分からないなら、答えを探すしかない。これが夢であるかどうかでさえ、このどことも知れない部屋に立っていては分からないのだ。アキはドアノブに手をかけた。ドアは音もなく開き、アキは部屋を出た。
部屋を出ると幅の広い廊下だった。天井には丸い灯りが点いており、木の床と白い壁を照らしていた。照明はアキがよく知っている火の明かりではない。それと似た灯をアキは他の場所で見たことがあるような気がした。
「外へ」
四度目にそう言う声は、今までと明らかに違った。アキはぱっと声のした方を向いた――声ははっきりと、部屋を出て廊下を右に行った方向からしたのである。ドアが並んだ廊下の突き当たりには、両開きの大きな扉があった。
アキはそろそろと扉に近づいた。廊下の右側に並んだドアにちらりと目をやると、木のドアには「1」「2」と数字が彫ってあるのに気が付いた。何を意味しているのだろうか。静寂の中、両引き戸になっている扉の片方を引く。少し重い手ごたえとともに、扉が開いた。
扉の向こうは大きな四角い部屋になっており、灯りはついておらず薄暗かった。壁の窓には厚いカーテンがかかっていたが、勾配のある天井には天窓が幾つか設けられており、淡い光が差し込んでいる。
アキが天窓を見上げると、そこから薄紫に染まった空が見えた。ひんやりとした空気と合わせて、これで何となく今の時間に見当がついた。どうやら早朝のようだ。
部屋の中には青い長椅子が幾つか並んでいる。傍を通り過ぎる時に背もたれにそっと触ってみると、クッションになっているのが分かった。脚は金属のパイプでできているようだ。椅子と言えば木製なのが当たり前であるアキには見慣れないものだった。
もう一つ、見たことのない物が壁についている。黒く四角い板のようなもので、縁取りが付いている様はまるで真っ黒に塗りつぶした額縁のようだった。
アキが寝ていた部屋や廊下と同じく床は木製で、磨き上げた金属のように光沢があって清潔だ。
何となく、椅子が並んだこの光景と見た感じが似ている部屋をアキはふと思い出した。診療所の待合室だ。




