6
大学にかなり余裕たっぷりに着くと既に教室内には友人の魚沼がいた。まだ授業開始時刻になってないので人も疎らである。これならどっかで軽く昼食をとってから来ても良かったかもしれない。
「…おはよ」
「おはよう。テンション低いけど大丈夫か?」
魚谷はあまりコミュニケーション能力がない俺の数少ない友人だ。社交的でさりとてベタベタしてこないため、適度な距離感を保ってくれる。この授業はちょっとマイナーなジャンルのせいか魚谷の他の友人は取っていないから珍しく二人きりでじっくりと話せる。
「…新人研修が忙しくて」
「あんまり無理するなよ?せっかく就職先決まったのにこんなこと言うのもあれだが、あんまりブラック企業だったら早めに転職とかも考えた方がいいぞ」
魚谷がとっておいてくれた席に座ったところで魚谷とは逆側に一つ間隔を空けて座っていた学生が何やら爆笑し始めた。どうやら友人との会話が弾んでいるらしい。と、その時、その学生が空いている座席に置き去りにされていた缶に手をぶつけた。
「…」
「あっ、すいません!」
飲みかけだったらしく中身が腕にかかる。しかもジュースのようだ。学生は慌てていたが、よく考えれば彼の缶ではないのだから必要以上に文句をつけるのもなんか違う気がする。
「…別に」
俺は懐からハンカチを取り出すがよく考えればまだ時間はある。ただ拭っただけでは砂糖たっぷりなジュースが乾いた時にべとつくだろうからちゃんと洗った方がいいだろう。とりあえずあの腕時計をつけている方じゃなくて良かった。シエロ曰くプールに沈められても大丈夫な防水仕様らしいが本来ならこの世界では使えなくなっている魔法とかを使えるように調整する装置である以上一応もっと繊細なもののような気がする。そんなことを無言で考えていると魚谷が俺を見た。
「大丈夫か、犬星」
「…手、洗ってくる」
俺は立ち上がって、トイレに向かった。休み時間というのもあり最寄りのトイレは混んでいた。個室に入りたいわけではない俺は列を無視して洗面台に向かい、手を洗う。そして丁寧に泡を流している時だった。
「―――魔法青年シリウスって正直言ってうちの学部の犬星光だよな」
近くから聞こえてきた話に思わず手が止まる。聞き間違えではない。確かに俺の名前、更にあの姿の時に名乗っている名前が呼ばれた。
「犬星光って…あの名前が犬ってついてるくせに無愛想で黒猫みたいって噂のやつ?」
「そう、あいつ。シリウスの時は何か髪の色、青白くなってるけど、まぁ顔はそのまんまだしなぁ」
列で待っている間の雑談だから声が大きいわけではないが、何故かはっきりとそれは聞こえた。だから俺は水が流れっ放しになっていることすら気付かない。
「あいつ、シリウスの時、キャラ違いすぎてウケるよな。今二十代女子にとって理想の騎士系男子とか。あれ流行語になりそうだよな。それと、えーと、何だっけ、この前、テレビであいつが歌ってたあの曲」
「あれか!あれ、俺ヘビロテしてる。ってかやっぱり皆知ってんだな。俺だけだと思ってた」
これ以上聞きたくない。俺は濡れたままの手で乱暴にハンカチをつかむと、何もかもを拒むように目をきつく閉じたまま廊下に出た。
「本当にあいつ頑張ってるよな」
「俺、あいつのこと魔法少女より応援してるんだけど」
皆、知ってて、俺を、馬鹿に、笑いものにしていた?
脳内を駆け巡るのはそれだけだった。当然もう授業を受けられるような気分じゃなかった。
気が付けば俺は荷物さえ持たずに大学を出ていた。
「あ…」
大学から事務所に行くにはバスが必要だ。ミコト、いやあのゴミ虫野郎でもいいから誰かに今の何とも言い難い気持ちを聞いてほしい。そんな気分だった。なのに俺は一体何をやっているんだ。
そんな時、突然後ろから声をかけられた。
「―――おや、光くん、どうしたんだい?顔色悪いじゃないか」