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今日も今日とて、魔王メイストの生贄は、自分を閉じ込める城の掃除に励んでいた。
「ほあああ!」
箒を一振りすれば、ボタボタと息絶えた虫が振ってくる。これまでは一振りで二匹までだったが、最近では二十匹もざらだった。倒した害虫をそのまま箒で拾い集めた。
「ほんっとによく虫のいる城だこと。おらの前の家だって、この城よりはなんぼかマシだったべ」
どこを掃除しても、何をひっくり返しても、虫やネズミの類が出てこないほうが珍しかった。確かに古く、大きい城ではあるが、これではどちらが住人かわからない。
ティティの頭巾の中には、モニクがいた。隠れるくらいなら来なければいいのに、いつもティティの側にいる。城内で虫やネズミが出たときに、真っ先に退治に動いてくれるのがティティぐらいしかいないからだろう。
「魔王様の城だもん。寄り付きやすいのよ。魔王様のエネルギーに引かれるの。人に忌み嫌われるものって、大体は魔族に近いし」
「そういうもんなのか。あ、おもしれえ形のムカデだな。ほいさ」
ティティは親指でぶちりとムカデを潰した。
「ぎゃーっ!す、素手でっ……おえっ」
「すまねえなあ。堪忍してけれよ」
謝っているのは、ムカデにだった。頭巾の中で、モニクが震えていた。
「……お、危ねえな」
棚から、古びた宝箱が飛び出していた。掃除をして夢中で埃を落としているあいだに、ずれてきてしまったのだろう。手を伸ばすには高すぎて、踏み台になりそうなものもない。
仕方なく、箒の柄で棚に押し戻すことにした。柄の先で、側面や角を押す。
「何してんの?」
「あ、あの宝箱が落ちそうで……よっ」
あと少しというところで、手が滑って底面を突き上げてしまった。
「あ」
二人は、落ちてくる宝箱をぽかんと見上げた。……途中までは。
モニクはひらりとティティの頭上から飛び立ち、難を逃れた。ティティだけが宝箱の中身をまともに被った。
宝箱から飛び出してきたのは、袋だった。さらにその中身が、何かの粉末だった。
「――げっほ!ごっほ!」
「ふぅ~危ないところだった!」
「モニクだけ……ごほっ!ずりぃぞ!ごっほ!」
「あんな大きなの、あたしじゃ受け止めきれないわよ。だからって二人で被ることもないでしょ」
「そりゃ、そうだけども……ごほっ。あーあ……散らかっちまって」
せっかく片付けたのに、余計な仕事を増やしてしまった。床には白い粉末が散らばっている。
まずは着替えなくてはだめだ。こんな粉だらけで掃除をしても、更に粉を撒き散らして意味がない。
「これ、何の粉だべ?魔王様の大事なもんだったら……」
「大事なものを、こんなところに埃被らせておかないでしょ」
「ふおっ!?」
突然、体にかかった粉が輝き始めた。指先から始まり、野焼きの火が広がっていくように、全体に輝きが広がる。その後は、粉は消えてしまったようだ。
「……な、なんだべ。今の」
「……ヤバイ薬だったりして」
「でえっ!」
「ま、見た目には何ともないし、平気よ!……たぶん」
「えええ~」
「信用しなさいよ!あたし、妖精族よ?〈眼〉が使えるんだから」
「め?おらも目はいいど?」
「そうじゃなくて!〈眼〉っていうのは……」
モニクがティティの瞳を覗き込もうとしたところで、二人はそれに気づいた。
「……誰か来てねが?」
玄関から、人を呼ぶ声が聞こえてきたのだ。
急いで玄関に向かったティティが見たのは、マントに身を包んだ男性だ。風に揺らめくマントの下には、甲冑が除いて見える。
時折魔族がメイストの城を訪ねることはあったが、彼は明らかに人間だった。無精ひげをたくわえて、明るめの茶髪を刈り上げている。ティティの父ぐらいの年齢に見えたが、快活そうな瞳は少年のように輝いていた。
「ん?アンタが今の生贄か?」
「い、今の?おらは確かに生贄だども……」
「安心しろ。今助けてやるからな」
「助ける……って、一体なんのことだ?」
戸惑っていると、彼は断りもなく広間に進んだ。大またで歩く彼の後ろに、ティティは慌てて着いていく。
「あ、あの!勝手に入られては困りますだ!どちらさまだんべ?」
「俺か?俺は勇者だ」
「ゆっ、勇者様!?」
勇者が魔王の城にやってきた。
それはつまり――魔王を退治しに来たということだ。
「ちょ、ちょっと待ってけれ!」ティティは彼の前に立ちはだかった。「ここの魔王様は、そこらの魔王様とは違うんだ!」
「……何の騒ぎだ」
最悪のタイミングで、モニクがメイストを連れてやってきた。
勇者は、メイストを見つけると目を見開く。そして、片手に握っていた大きな剣を構えた。魔王を前にしても、彼はまったく怯まない。
その自信に満ち溢れた横顔は、彼が勇者であるとティティに知らしめた。初めてメイストを目にした時と同様に、彼からは勇者としての強い気持ちが滲み出ていた。
これが……勇者なのだ。
「魔王メイスト!今日がお前の最後の日だ!」
彼は剣を構えて、床を蹴った。階段の踊り場にいるメイストを目指し、剣を振りかぶる。
「魔王さ――」
目にも止まらぬ速さで魔王に飛び掛った彼は、同じだけの勢いで玄関に吹っ飛ばされた。
「べええっ!?」
彼はティティの眼前を、床と平行に飛んでいった。あっという間に、玄関に逆戻りだった。外の土に頭から着地し、胴体が一回転したところで、ようやく止まった。仰向けのまま、ぴくりとも動かない。
「だ、大丈夫かあ勇者様ー!」
あまりの呆気なさに、ティティは思わず勇者の元へと駆け寄ったのだった……。
「いてて……」
「こんなもんだべか……大丈夫か?」
切り傷に薬草を塗り、包帯を巻く。
「ああ、ありがとうな!こんな可愛いお嬢さんに手当てしてもらったせいか、傷の痛みも取れてきたよ!」
「あ、あの、全然取れてねえです。すごく包帯に血が滲んでますだ」
「こいつは困ったな。おい、メイスト。回復魔法かけてくれよ」
「魔王にかけさせてどうすんだよ……人間がやるのとは違うんだ、お前が死ぬんだけだぞ」
「じゃあほら、モニクの羽……」
「絶対にいや!」
モニクは羽を後ろから引っ張って、ぎゅっと抱きしめた。
「ドラゴンの鱗、一枚もらっちゃダメ?」
「もう……しょうがないなぁ」
「へへっ、ありがとな」
勇者はドラゴンの背中から、鱗を一枚剥ぐ。それを砂糖菓子でもかじるように、ぽりぽりと口に入れていった。異形の魔族がお茶を運んで来ても、気にするそぶりもなくカップを手に取った。
この勇者だという男は、城の者たちと親しげだった。異種族に囲まれても、自分の家のようにくつろいでいる。
「……こいつはロニー。一応、勇者だ」
不思議に思うティティに気づいたのか、メイストが教えてくれた。
「一応って何だよ。俺は勇者だぞ。ど田舎の教会でだけど、ちゃんと神託を受けてるんだからな」
「と言って、三十年ぐらい俺を倒そうとしてる。結果はまあ……見ての通りだ」
「さ、三十年……」
「そうかあ。もうそんなになるかあ……」
ロニーは髭を撫でながら、しみじみと呟く……。
三十年前。
久方ぶりに城まで辿りつき、メイストを呼びつけたのは、まだ少年といって差し支えない年頃の勇者だった。
「……ずいぶん若え勇者だな」
「俺は勇者ロニー!お前が魔王だな!成敗してやる!」
体と同じぐらいのサイズの剣を軽々と振り回す。それを見たメイストは、感心した。まだ筋肉の薄い細い体の割りには、見所のある少年だ。
「覚悟おおおお!」
メイストは眼前に杖を掲げると、その先で人差し指を丸めて、親指で押さえた。飛び上がった少年目掛けて、人差し指を弾く。
その瞬間、少年が後方に吹き飛んでいった。重力などものともせず、斜め四十五度の角度で見えなくなるまで飛んでいった。驚いたのはメイストのほうだ。
「やべえ。死んだかも」
殺すつもりはなかったのだ。今の一撃は、挨拶代わりだった。子供とはいえ、勇者を名乗っておいて、こんなに弱いとは予想もできなかった。
慌てて遣いの魔族に探しに生かせたが、ロニーは自力で下山し村に帰っていた。その打たれ強さだけは、勇者として認めざるを得なかった。
それから半年後、ロニーは再び城を訪れた。
「どうだ!新しい甲冑だぞ!」
彼は誇らしげに胸を張ったが、サイズが合っておらず、首や脇といった急所がまったく守れていなかった。
「ブカブカじゃねーか」
「母ちゃんが、どうせすぐに背が伸びるんだから、大きめのを買っておけってうるさくてな」
「あっそう……」
「お前が魔王!成敗してやる!覚悟おおお!」
結果は、同じであった。
「お前魔王!成敗!覚悟おおお!」
何度戦っても、何度挑んできても。
「魔王成敗覚悟おおお!」
ロニーはメイストに一太刀も浴びせることができなかった。
いつからか、戦いのあとに、メイストが彼にお茶を出すようになった。それがいつしか食事になり、ロニーが大人になると、酒となった。ロニーは世界を巡り、修行をし、返ってくるとメイストに戦いを挑んだ。そして、旅先の土産を渡した。
「つまり……魔王様とロニーさんは、お友達ってことだべな?」
話を聞き終えたティティは、二人の関係性に納得がいった。
「まあ、そんな感じだな!」ロニーはけらけらと笑う。
「友達じゃない。俺、魔王。支配する立場。友達のいる魔王っておかしいだろ」
「こういうときばっかり、自分は魔王だ~って持ち出すなよぉ」
ロニーに肩を組まれ、メイストは迷惑そうに眉を寄せた。
メイストのこんな表情を見るのは初めてだった。それはロニーを嫌がっているわけではなく、彼が気の置けない仲間であることの何よりの証明だった。
「子供の頃から剣の達人と言われて騒がれて、調子に乗って教会で神託をもらって若干十二で勇者になった。村の期待を背負って魔王に挑んだはいいが、これがてーんでダメだった!以来、こいつを倒すことが俺の目標になったわけだ」
「今回の旅はどうだった?俺を倒せるくらいレベル上げてきたか?」
「んん。結構上がったはずだ。カラクル地方のオーゾ山まで行って、麓でザコ狩りだ」
「あそこは、中腹の魔族がいい経験値持ってるのに」
「無茶言うな!オーゾ山には回復の泉が無いんだぞ。凍っちゃってて」
「けいけんち?れべる?」
話の内容が、まったくわからない。
「経験値っていうのは、レベルアップに必要なもの!魔族を倒したり、ダンジョンを攻略したり、新しい技を身につけるとたまっていくの」
ロニーが買ってきたオーゾ村銘菓の焼き菓子を食べながら、モニクが言った。
「れべるってなんだ?」
「強さや能力の度合いを示す数値だ」メイストが教えてくれる。
「レベルを知らないか!まあ、勇者か魔導士か、もしくは戦いに関係した職業につくやつしか、縁のない話だもんなぁ」
「そして、このモニクちゃんは〈眼〉を使ってレベルを見ることができるのよ。ま、レベルだけじゃなくて、相手の状態を見れるってワケ」
「うへえ!そりゃあおったまげたなぁ」
「ふふん」
モニクは得意げに鼻を鳴らす。
「人間だと、魔導士に頼むか、教会の道具を使わないと見れないんだよな。それに、金取られるし。その点モニクはタダだ」
「おっ、おらのレベルも見れるだか?モニク!」
「ああ。アンタのは見たことあるわよ」
「ふあっ?いつ見たのだ?」
「城に来たときよ!生贄を装って勇者が入り込んでくることもあるしね。覗き見したの。一瞬でも視線が合えば、〈眼〉は使えるからね」
「で、なんとだった?」
「無かったわ。レベルが」モニクが肩をすくめる。
「お、おう!それは……どの程度なんだ!」
「お前、俺と一緒に森で魔族見たろ。豚面の」
「へえ」
「あいつに足を踏まれたら即死するレベル」
「弱え!」
モニクが高笑いする。「つまり、モブってことね!その他大勢。通行人その一。脇役なの。戦闘に耐えられるような体じゃないのよ」
「おら、運動は得意だったんだどもなあ……飢饉も生き延びたし、体の丈夫さには自信があったんだども」
「レベルが高いってのは、戦いの強さだ。確かに、運動能力が高いやつはレベルがついてることが多いけど、戦えるかどうかっていうとまた別の話だ。ま、気にしないほうがいいぞ。ははは!」
「んだっすか……」
「それに、レベルがないっていうのは、一見不幸に思えるがそうでもないんだ。レベルが99を越えると、誰にも見えなくなる。これを伝説の領域〈リミットオーバー〉っていうんだけど……今のところ、それを越えられるのは魔王だけだが……人間でも、〈真の勇者〉と〈天恵の姫〉は、それが可能だとされているんだ」
「まことのゆうしゃ?てんけいのひめ?」
どこかで聞いた単語だなと、首を傾げる。それで、ティティは学校で習った“伝説の詩”に登場してくる言葉であることを思い出した。
「ティティがそんな大層なモノのわけないでしょ。〈真の勇者〉も〈天恵の姫〉も、魔王の目を逃れて能力を隠すためにレベルが見えないだけで、ちゃんと強さや奇跡の力があるのよ。ティティは……まあ、虫退治は完璧だけどねっ」
「そうかあ……」
ティティはしゅんとして、再び座り込んだ。
「モニク!俺のレベル、どうなってる?」
「あー、はいはい。見てあげるからじっとしててよね!」
前髪を軽くかきあげて、ロニーの目の前に飛んでいく。
「62ね」
「あーっ!大して変わってねえなあ」
「ライフの上限値は上がってるけど、素早さが下がってるわ。年ね、年!そろそろレベルも下がってくるわね。引退ね!」
「うるせえ!気にしてんだぞ」
「魔王様はレベルいくつなんです?」
「俺は99を越えてるから、もう見えねえよ」
「びゃあ!さすが魔王様だんべ!」
「そうよ!だから、ロニーなんかに魔王様が倒せるわけないのよ!」
「なにおう!」
普段静かな城に、笑い声が響く。
五人で食べていたものは、いつの間にか菓子から料理になり、紅茶からワインに変わった。
「そういえばよお~、今回の修行の旅で、あちこちで噂になってたぞお」
ロニーは顔が赤くなり、目が据わっている。すっかり酔っ払っていた。
暖炉の前の絨毯には、空になったボトルがいくつも転がっている。料理も、あらかた綺麗に食べられていた。酒が入り、お腹がいっぱいになったせいか、ドラゴンとモニクは眠ってしまっていた。丸まったドラゴンの頭上で、モニクは器用に寝ていた。
メイストもロニーと同じだけ飲んでいたが、まったく変わっていないように見える。
「〈真の勇者〉が現れたって話だ」
「まことのゆうしゃ……」
グラスを傾けていたメイストの顔つきが、真剣なものとなる。
「確かなのか」
「おう。既に魔王がひとりやられて、土地が奪還されたとか……今はヒロイの都に居を構えてるらしいぜ」
「デリランテの支配地か……あそこに居つくとは、ずいぶん自分に自信のある勇者みたいだな」
「お前も油断してると、やられちまうぞお?なんたって、〈真の勇者〉だからなぁ」
「前から言ってるだろ。そいつが本当に〈真の勇者〉なら、構わねえよ。どうせやりあったって俺レベルじゃ敵わねえしな。それがこの世界の理だ」
「お前なあ!それじゃ残されたティティちゃんはどうするんだよお」
「へっ?」
男同士の会話に急に自分の名前が出て、ティティは戸惑った。
「お前が死んだら、ティティちゃん悲しむぞお?そもそも、俺があまりにお前を倒せなくてこの年まで独身だっていうのに、お前ときたら!こんなに可愛い子がとっかえひっかえ来てるのに、一切手も出さずに!だから俺はこいつがホモだと思ってる」
「俺の恋愛対象は女だから」
メイストにしては珍しく、きっぱりと否定する。
「生贄とか、人間かっさらってきて孕ませる奴もいるけど、俺はそういうのはあんまり」
「そうかあ。メイストは恋愛結婚がいいってわけだな?」
「そうじゃねえよ。人間は、人間と一緒にいたほうが幸せだ」
何気ない一言だったが、ティティの心に何かが引っかかった。
「せば……魔王様は誰と一緒にいれば幸せなんです?」
「ティティちゃん。今の言葉を踏まえたうえで……魔王は男しかいないんだ。つまり」
「いいからもう寝ろ、酔っ払い」
メイストはロニーの口にワインのボトルを突っ込んだ。
この城には空いている部屋もベッドもない。日々ティティが片付け続けても、何百年も溜まった汚れは数ヶ月では片付けきれないのだ。
仕方なく、酔いつぶれたロニーにはあのまま暖炉の前で寝てもらうことにした。火の番として魔族をつけて、ティティとロニーが給仕場で後片付けをする。
「おらがやるから、魔王様はもう休んでくだすっていいのに」
「お前一人じゃ大変だろ」
ティティだけでは大変だからという理由で、皿洗いをかって出る魔王。世間の人がこの話を聞いても、誰も信じないだろう。
だから未だに、魔王は退治される悪として、勇者という職業が存在する。
「魔王様……〈真の勇者〉って、伝説の詩に出てくる、〈真の勇者〉か?」
「ん?ああ……さっきの話か。合ってるよ。『世界が暗黒に包まれた。〈天恵の姫〉が囚われる。世界に正義の光が灯る。光から〈真の勇者〉が現れる。世界は永遠の光に包まれる。……伝説はここに築かれた』……あれの、〈真の勇者〉」
「そ、それって、本当にいだのがっ!伝説だと思ってらった……」
「俺も見たことはねえから、伝説には違いねえよ。歴史上、確認されたのもその詩に出てくる一人だけって話だし」
「他の勇者様とは、何が違うだ?」
「うーん。俺も普通の勇者としか戦ったことがないから、わからん」
食べ残しの処理を終えたティティは、メイストの横に立った。彼が洗った皿を拭き始める。
「ただ、伝説通りならそこいらの勇者とは違って、すげー力があるんだろ」
「ほぁ~……おったまげたなあ。魔王様を倒しちまうって、よっぽどなんだべなあ」
「まあ、それなら俺と同じくらいまでレベルを上げた勇者でも出来るだろうが……」
語尾を濁したメイストに、ティティは首を傾げる。
「……俺たち魔王は、勇者に倒されても百年ぐらい経つと復活しちゃうんだよな。そこいらの勇者が出来るのは、あくまでも封印。それが、〈真の勇者〉に倒されると、もう二度と復活できねえって話だ」
「そっ……それは一大事でねえが!魔王様、その、“まことのゆうしゃ”とやらが来たら、なんとするつもりだ!」
「あー、もう喜んで倒されちゃう。引退万歳」
「い、引退って……死んでしまうでねえか!」
メイストが常々口にしていた「引退」の意味に、ティティは血の気が引いた。
「冗談はさておき……前にも言ったろ。この辺りを任せてもいいやつになら、倒されてもいいって。魔王なんかいないほうがいいんだよ。お前だって被害者だろうが」
「んだども……確かに、最初はそうだったども……」
ティティの父ウィトスは元気になった。あの村にいたままだったら、飢饉のことがなくても村人とのいさかいでいずれは追い出されていただろう。別の町に住み移り、父が何の心配もなく暮らせているのは、メイストのおかげだ。なにより、それが解決したあともこの城にティティがいるのは、自分の意思なのだ。
「おらは魔王様が好きだから……死んじまうのは嫌だよ」
「俺だってただ死ぬのは御免だよ。生まれてこの方、怪我したこともろくにないし。あれだろ……痛いんだろ。死ぬって」
「そ、そりゃそうだども……いや、そうじゃなくてだな」
「まあ、どうにも信じがたいわ。魔王つってもピンキリだからな。ひとり倒したくらいで〈真の勇者〉って決め付けるのもな……本当なら、魔王会議が招集されるはずなのに、何の話も無いしな」
メイストが、水道をひねって止めた。皿洗いが終わったのだ。五人ぶんの皿をさっと洗える、手際の良い魔王である。
「今までもこんな話はあったから。全部〈真の勇者〉の騙りだったよ。本物だからって体に印が現れるわけでも、見た目でわかるわけでもない。わからないことだらけなんだ」
「んだっすか……。せば、あまり気にしねでいいってことですね?安心しますた!」
「安心って……おかしいだろ。勇者は平和をもたらすんだぞ?魔王がいなくなったほうがいいだろうが」
「そうかあ?魔王様の世は十分平和だべ」
「俺がいるあいだはな。魔族ってのは一枚岩じゃないんだ。同じ魔族からの裏切りを受けることもある。魔族っていうのは、いくらまともそうに見えても性根が腐ってるんだ。そうして俺がいなくなった途端ガタガタになるなんて、それはまがいもんの平和だ」
そこまで話して、メイストは大きな欠伸をした。
「あー、もう寝るわ。風呂は明日でいい」
「ぎゃっ!もうこんな時間だか!」
厨房の時計は、九時にさしかかろうとしていた。
「魔王様!廊下で寝たらダメだど!ちゃあんと寝室に行くんだど!あと、靴は脱いでな!」
ふらふらと廊下を歩いていくメイストは、ティティの言葉に返事をしなかった。
ティティは丁寧に、だが迅速に皿を拭いていった。あの調子だと、メイストが寝室にたどり着ける確率は五分五分で、更にベッドに入っている希望は薄い。早く行かなければ、彼はそのあたりで本格的に寝入ってしまう。
忙しく動き回りながらも、ティティの頭には〈真の勇者〉の話が浮かんでくる。
学校で最初に習い、暗唱させられる詩が、伝説の詩だ。この世界に生きている人間で、あの詩を口にしたことがない者はいないだろう。
あれはこの世界の古い伝説の詩だというが、実際のことは誰も知らない。長生きをしているメイストですら知らないのだから、その意味を確かめる手段はないだろう。
魔王に、〈真の勇者〉。そして……
――そういえば、あの詩には“〈天恵の姫〉”さんってのもいたなあ。あれは、どういう意味なんだべ。
考え事のせいで手が止まっていたことに気づき、ティティはひとまず、皿を片付けることに集中した。




