7
「ドラゴン……あとでうんと怒られるんでねえか?」
どこまでも続く森の上空。他に生物の気配はない。ドラゴンの羽ばたきの音しか聞こえなかった。
「だって、あんな話聞いたら放っておけないよ。僕、そこそこティティのこと好きだしさ」
「ありがとうな……」ティティの声が震えた。
「あのさ、ティティ……魔王様はきっと寂しかったんだ。魔王様がティティを村に行かせなかったのは、お父さんに会ったらもう帰ってこないと思ったんだよ」
「どうだべなあ」
メイストのあの口ぶりは、そんな感傷的なものではない。ドラゴンの言うような理由ではないのは明らかだ。でも、主を信じているドラゴンの心中を思うと、ティティは自分の考えを伝えられなかった。
「魔王様も飛べるけど、追いつかれねえのけ?」
「うん。この前見回りにいったでしょ?あれ、結構魔力使うんだけど、まだ全快してないはず。……魔王様がカナシ村まで飛ぶならもう少し回復させないと。僕は翼竜族だから、魔王様と違ってこの羽だけで飛べるし、速度もあるんだ。でも、一応急ごうか」
ドラゴンが翼を更に広げる。風の抵抗が増えて、ティティはドラゴンの手のなかで身を縮こまらせた。
――父ちゃん。待っててけれ。今行くからな……。
二人がカナシ村に着く頃には、夜になっていた。ティティは、自分の家が村の外れでよかった、と思った。ドラゴンの姿を隠せるような木も、カナシ村にはもう残っていなかったからだ。
家の扉は壊されていた。〈盗み見の蛇〉で見たのと同じ場所で、父は倒れこんだままだった。
「……父ちゃん!」
ティティは父に駆け寄る。「父ちゃん、父ちゃん!しっかりしろ!」
服には、あちこちに染みがついていた。薄暗くてよく見えないが、これは多分、血だった。体は、水をかけられたせいで冷え切っている。自分が羽織ってきたマントをかけると、ウィトスの体を、手のひらで懸命に擦った。
それが功を奏したのか、ウィトスは瞼を震わせた。だが、目は開かない。乾いた唇から、ひゅう、と息が零れる。
「ティ……ティティ……か……?」
「んだ!ティティだよ!ティティが帰ってきたよ!」
「……こ、これは……夢か……?」
ウィトスは、ティティの手に触れる。「あったけえ夢だ……おめぇの手は……昔から、触れると不思議と元気になる……」
「と、父ちゃん……何言ってるだ!しっかりしろ!」
「ティティ、落ち着いてよ」窓から室内を覗き込んでいたドラゴンが、狼狽する。
「どうしよう、ドラゴン……!このままじゃ父ちゃんが死んじまうよおっ」
父の顔が、不意に明るく照らされた。
光の源を辿ると、幾本もの松明が家の外に近づいてきていた。村人たちが、騒ぎに気づいたのだ。
「ドラゴン!おらと父ちゃんを運んでけれ!」
「う、うん!」
ティティは父を引っ張り、連れ出そうとした。ドラゴンは裏口で手を伸ばして待ってくれている。手が大きすぎて、家の中に入らないのだ。
しかし、いくら病気でやつれているとはいえ、大人の男だ。それも、体にまったく力が入っていない人間を運ぶのは、女の力では容易ではなかった。ティティの力では、引きずるしかない。
「……なんだ、あいつは!」
あと少しというところで、村人が声をあげた。家の外にいるドラゴンの姿に気づいたのだ。
「あれは……魔王の遣いのドラゴンじゃねえか!」
カバイェと数人の村人が、家の中に飛び込んできた。ティティはまだ、父を運んでいる途中だった。斧や木の棒を構える村人から、父を庇う。
「お前!どうしてここにいる!」
「に……逃げてきた!なして父ちゃんを医者に診せてけねがったの!」
「きちんと飢饉が解決してから、診せるつもりだったさ。こうなったのは誰の責任だ」
「だ……だども、父ちゃんをいじめることはねえべ!父ちゃんは病気なんだぞ!これじゃあ死んじまう!」
カバイェは、まばたきひとつせずに、ティティたち親子を見ていた。
その手に握られた松明が、不気味に揺れた。親子の肌を、舐めるように照らす。その沈黙で、彼女は知った。
「……さ、最初っから……そのつもりだったのが」
「余所者のお前らに、医者なんて用意してやると思ったのか?」
この時ティティは、父が病気でよかったと始めて思った。
もしこの言葉を聞いていたら、ウィトスは怒り狂って、彼らを殺してしまったかもしれない。
あまりに怒りを覚えると、人は感覚が消えることを知った。寒さも感じない。目の前も真っ暗だ。耳も遠ざかり、手足から力が抜ける――そんなティティにはお構いなしに、村人たちはおぞましい相談をする。
「こいつ、どうする?このまま村にいられたら、匿っていると思われるぞ」
「ああ……生贄が逃げたと知って、今頃探しているかもしれん」
「そうしたら、この村が襲われちまう!このままじゃ……」
口々に言い合っていた村人は、カバイェの顔を見つめる。
決定権は、彼にある――そういうよりも、彼に従うことで自分たちの行動の罪深さから逃れたいのだろう。
「……俺たちの手で、この女を殺す」
だが、カバイェは違った。村人たちの贖罪など、どうでもよかった。自らの意思で、命令を下すのだ。
「俺たちの手で葬って、魔王の怒りを鎮めよう」
「ティティを殺したら、魔王様はおさまるどころか怒るよ!」
話を聞いていたドラゴンは、家の正面に回って村人たちを追い払う。
「な、なんだあのドラゴン!喋ったぞ!うわあ!」
「怯むな!火矢を放て!」
「待って!やめてってば!」
暴れるドラゴンの前で、カバイェたちが松明を振り回す。ドラゴンにとって、人間がいくら小さくても、火は火だ。足止めをされている間に、後方にいた村人たちから火矢が放たれる。
乾いた屋根に突き刺さり、あるいは窓を破り、火矢がティティの家を襲う。
「ティティ!逃げてえ!」
家の中で呆然としていたティティは、ドラゴンの声で意識を取り戻した。
気づけばティティのまわりには火がついた矢が突き刺さっている。その火は溶け出した蝋のように、床に、壁に、這い始めていた。
「と、父ちゃん!起きて!逃げねば!」
ウィトスの体を揺さぶるが、反応はない。肩の下に潜り込み、父を支えようとするが、うまくいかない。
「起きれぇ!父ちゃん!このままじゃ死んじまうぞ!」
あちこちに散らばっていた火がひとつに繋がり、大きく広がった。枯れ葉のように乾いたカーテンに燃え移ると、一気に天井に広がる。その上では屋根も、炎に包まり始めていた。
ティティは、室内に漂う煙を吸い込み、大きくむせた。
「父ちゃん……」
涙で滲む父の姿。扉にも、窓の近くにも、火が回っていた。目を開けていられない。熱いせいか、眩い光のせいか、ティティにはわからなかった。
あきらめてはならない、がティティの信条だった。飢饉が5年も続いても、ティティは前向きだった。明日起きたら青空が広がって、草木の輝く大地が戻ってくるかもしれない。そんな風に考えて生きてきた。
そんなティティをバカだと、何も考えていないと、村人たちは蔑んだ。
――ああ、んだな。おらはバカだったよ……
――おめだちのこと、ずっと信じてだんだもの……
「ごほっ、ごほ!」
ウィトスの背中にすがりついたまま、激しく咳き込んだ。屋根から、みしりみしりと音がする。煙と熱のせいで、目を開けていられない。
ふと、ティティの脳裏に、魔王城での生活が思い出された。
――魔王様、お怒りだべな……
村には戻るなと言われていたのに、言いつけを破って戻った結果が、この有様だ。
きっと今頃、呆れているだろう。村人たちと同じように……。
「ばかやろう」
メイストの声がする。
なんとか瞼を持ち上げると、炎の中に人の姿が見える。燃え盛る火をアクセサリーのように纏い、火の粉には雨のように打たれても、平然としている。
人ではなく……魔王だ。人は、炎の中に立つことなどできない。
これは死ぬ前に見るという幻だろうか。
その幻は、ティティを肩に抱えて、ウィトスを片腕で持ち上げると、家の出口に向かった。床を踏みしめるように歩く振動で、全身が揺れる。
――魔王様、やっぱり怒ってら……
扉が蹴破られた。表では、ドラゴンが村人たちを相手に抵抗を続けていた。
ほとんど火に包まれた家から出てきた男の姿に、村人たちは息を呑む。
誰もが、彼が魔王だと気づいた。ティティを迎えにきたドラゴンを見た時と同じように、あるいはティティが彼に相見えたときのように、その圧倒的な存在感から察知する。
「魔王様!」
ドラゴンは、メイストに寄り添った。健闘を称えて、頷いて見せる。ドラゴンがいなければ、ティティたちはもっと早くに殺されていただろう。
「ま、魔王だ……!」
「逃げろ!殺される!」
斧を捨て、矢を捨て、村人たちは散り散りに逃げていく。あるいはその場で、腰が抜ける。
だが、カバイェは違った。怒りに肩を揺らし、メイストに向けて矢を向けた。
「この村の飢饉の呪いを解け!」
「呪いじゃねーよ。飢饉を呼んでるのはお前らだ」
「なんだとっ……」
「五年も自然に飢饉が続くわけねーだろ。お前らの恨みや憎悪が、草木の代わりに地に根付いたんだ」
「何を言っている!これはお前がやったんだ!」
「言ってもわかんねえか」
「お前さえ死ねば!」
カバイェが矢を放った。
メイストを守るように、ティティの家から炎が伸びてくる。炎は鞭のようにしなり、矢を一瞬で燃やしてしまった。カバイェは続けざまに数本の矢を放つが、同じように矢が消し炭となるだけだった。
「……わかった。見せてやるよ」
メイストは、腰の杖を抜いた。杖を握り、天に向かって掲げる。何かに気づいたドラゴンが、メイストの傍を離れていく。
背後で燃え盛る炎が、ぶわりと空中に広がった。
火はメイストの杖に集まっていった。杖を茎とした花束のようだった。
その花弁の先端から、炎が弧を描き、次々と地中に突き刺さっていく。すべての火が流れるように移動し、潜っていった。
辺りに暗闇が戻った。
ティティの家を燃やしていた火は、微塵も残っていない。火が、そっくりそのまま移動してしまった。辺りは、耳が痛いほどの静寂に満ちる。
「これが飢饉の正体だ」
メイストは杖を振り上げると、先端を地面に向かって突き刺した。
カバイェの足元が揺れた。沸騰する鍋の湯のように、ゴトゴトと地面が揺れる。痩せた土が割れていき……炎と共に、どす黒い塊が現れた。炎が、地中から何かを引きずり出したのだ。
「うわあああ!」
「くれてやる」
炎が、カバイェたちに向かって黒い塊を投げる。それは、心臓のようにドクドクと波打っていた。小さな小屋ぐらいはあろうかというサイズだった。メイストは近くに落ちていたの木の破片に、自分の杖から火を移した。
「そいつにこの火を移して、一週間、絶やさずに燃やせ。煙の方向に気をつけろよ。大量に吸い込むと気が狂うぞ」
村人たちは、戦意を完全に喪失していた。カバイェも力なく弓を下ろしている。
魔王を相手にすることの愚かさがわかったのか、飢饉の正体を知り呆然としているのか……それは、メイストの知るところではなかった。
メイストはティティを担ぎなおした。「この娘は俺の物だ。俺の物に傷をつける奴は……次こそ容赦しねえからな」
ティティが目を開けると、そこは見慣れた天蓋だった。
横を向けば、メイストがスツールに腰掛けて本を読んでいた。ティティが起きたことに気づいて、ベッドを覗き込む。
「起きたか」
「……魔王様……助けてくださったのだが」
「お前は俺の生贄だからな。お前、けっこう煙吸ったろ。薬草の効果が出るまで、もう少し寝てろ」
「父ちゃんは……?」
「生きてるよ。今、別の部屋で休んでる。モニクの羽には万能薬の効能があるんだ。今回のことの罰に千切って煎じてやった」
「ひ、ひでえ!元はといえばおらが悪いのに!」
「大丈夫だよ。また生えてくんだ。髪の毛より早えーよ。完全に伸びるまで痛ぇけどな」
はいそうですかと頷けるような内容ではなかったが、これ以上反論もできなかった。いつも無表情のメイストだが、言葉の端々に棘がある。
「……魔王様、怒ってるだか?」
「どっちかというと怒ってる」
「……村に帰っちゃなんねえって何度も言ってたのは、こうなることがわかってたからですか?」
メイストはティティを見つめたまま、しばし沈黙した。その瞳が悲しく曇るのを、隠すつもりはないようだった。
ティティはそれで、メイストはきっと、この話を一生ティティにするつもりはなかったのだろうと察した。ティティだけではなく……誰にも話すつもりはなかったのだろうと。
彼は俯いて、自分の組んだ足に視線を落とした。
「……魔王になって、最初に生贄でやってきた娘が、お前みたいに城から逃げた。つうか、帰りたいって頼まれたから……好きにしろって言ったんだ」
結果はわかるだろ、と溜息交じりにもらす。「助けられなかった。裏切ったって追いかけ回されて……家族共々、村の奴らの手にかかった。……それ以来、生贄が村に戻ることだけはないように、約束させた。それ以外のことなら、できる限りのことをしてやったよ」
ティティは、城の片隅にあった場所のことを思い出した。この城にあって、日当たりの良い場所。城の中でも、外の世界に近いところ。
あの大きな石は生贄の墓標だったのではないか。
「魔王様は……なしてそんなに、生贄に優しくしてくれるだ?」
「こんなでも、俺は魔王だ。それを止めることはできねえ。人間が人間であることをやめられないように。魔王は職業じゃなくて、生物の名前だからな」
「でも、引退してぇっていつも……」
「叶わぬ夢ってやつだ。いいだろ、したいことを口にするのぐらい。できるかできないかじゃねえんだ」
メイストは、おもむろに立ち上がったかと思うと、仰向けにベッドに倒れこんだ。その重みでベッドが弾んだ。
「……子供の頃、俺が何になりたかったか予想してみろ」
「え?」
「勇者」
「えええ……」
「笑うとこだろ。魔王ジョーク」
「さっきの話を聞いてからじゃ、笑えねえです……」
「勇者にはなれない。でも、魔王として勇者に倒されることはできる。そうなりゃ、俺も伝説だ」
メイストは、魔王をやりたくてやっているわけじゃない。その言葉の意味が、重くティティに圧し掛かった。
メイストが目を閉じる。そういえば、今は何時なのだろうか。普段なら、彼はもう寝ている時間のはずだ。
「お前の村の話だが……ここは魔王に支配された土地だ。人間の暗い感情は、すぐ大地に根を張る。それが俺の力になるからな。そうすると、人には住みづらく、魔物にとって都合の良い空気になる。俺が飢饉に気づかなかったのは、それが原因。あと、飢饉が俺のせいだっていうのも、あながち間違いじゃない」
「……それは違ぇますだ」
「なんで」
「だって、魔王様は自分の土地を見回って……暮らしやすい土地を作ってけだ。そこを悪くしたのは、村の人間たちのせいだべ」
うん、そうだ。と、ティティは力強く頷いた。「だから……ありがとうごぜえました。魔王様。魔王様は、最高の魔王様だべ」
メイストは目を閉じたままだった。ティティの目には、その表情が少し和らいだように見えたが、気のせいだったかもしれない。
「そーか。じゃあ、俺の支配地を腐らせた代償に、生贄を食っちまうか」
「ぶへぇ!お、おら、食ったってうまくねえど!」
「お前、食う食う言ってるけど、他の意味もあるの知ってるか?つうか、最近はそっちの意味の生贄のほうが多いはず……」
「へあ?」
「いや……まあ。お前のアホ面見たら眠くなってきたし、寝るわ」
ふぁ、と大きな欠伸をしたかと思うと。
三つ数える間もなく、メイストは寝息を立て始めた。
ティティは室内の時計を見た。天蓋から顔を出さなければわからないので、メイストを起こさないようにそっと動く。
既に、日付が変わろうとしていた。




