6
「ほっ、ハッ!」
ティティが箒を一振りするたびに、蜘蛛が、ダンゴ虫が、謎の虫が、あるいはそれらだった死骸が、ばたばたと退治されていく。埃も、虫の卵と共に、まるで砂のようにざぁざぁと降ってくる。そんな有様にも、彼女は眉ひとつ動かさない。最後には蜘蛛の巣をストールでも巻くかのように、優雅に箒に絡め取った。
「こ、こんなにいたなんて……」
ティティの頭巾に隠れるモニクに、ぞぞぞ、と鳥肌が立つ。
今日ティティが掃除しているのは、モニクの部屋だ。小さな道具部屋で、鳥籠のなかをベッドにしていた。
「ちゃあんと自分で、まめに掃除せねばダメだべさー」
「いやよっ!ティティには虫が小さく見えるから、わからないのよ!あたしには、ばかみたいにでかいモンスターと同じなんだから!下手したら、命に関わるんだから!」
「ああ……そりゃあ悪かったなぁ」自分と同じサイズの蜘蛛を想像すると、さすがのティティも気が滅入る。
そのとき、窓の外にドラゴンが飛んできた。
「ティティ。雨が降りそうだから、干してあったシーツ、取りこんでおいたよ」
「ありゃっ?雨?」
ティティは窓から顔を出した。ドラゴンの言う通り、暗い雲が城に向かってきていた。それに、急に冷えてきているのも、雨の前触れだろう。
「さっきまであんなにいい天気だったのに……。ドラゴン、ありがとな」
鼻の頭をぽんぽんと撫でてやると、ドラゴンはまんざらでもなさそうに目を細めた。
「いやあ、めんこいなあ……」
「めんこい、って何よ」モニクが頭巾から顔だけ出して尋ねる。
「ティティの故郷の言葉で、可愛い、って意味だよ」
「なにそれ。聞いたことないわ!そういえば、最初からとてつもなく気になってたことをいまさら聞くけど、アンタの言葉、このあたりの人間じゃないわよね?」
「んだ。おら、ここから気が遠くなるくれえ、ずーっと、ずうううっと東の小さな村の生まれなんだ」
「ふうん?引っ越してきたの?」
「うーん……」ティティは表情を曇らせた。話せば二人が同情するのはわかっていたからだ。「村が襲われちまってなあ。よくわかんねえんだども、ある日突然、火ぃつけられて、追いかけ回されて……」
ティティは十歳のときだ。それから数年かけて各地を転々とし、カナシ村に居を構えた。
モニクは目を丸くし、ドラゴンは言葉を失っている。
「……アンタ、何も考えてなさそうに見えて、結構ヘビーな人生送ってんのね」
「大変だったんだね。顔に似合わず」
「はは……だども、昔のことだしな。おっかねえことだから、あんまり思いださねえようにしてたら、だいぶ忘れちまったよ。今はそれより……」
「……もしかして、お父さんのこと?」
「なにそれっ、何のこと!」モニクがドラゴンに噛み付いた。
「僕が連れていくとき、ティティ……お父さんのこといっぱい呼んでたからさ」
ティティは箒の柄を、強く握り締めた。
「……村のみんなが、おらが生贄に行くのと引き換えに、父ちゃんをお医者に見せてけるって言ったんだ。今頃、元気にしてるべかと思って」
ティティが城に来てから、だいぶ日が経っていた。メイストからは、カナシ村についての進展はまだ聞いていない。つまり、あの村はまだ飢饉に苦しんでいるということだ。
ティティは、ただ生贄となれば良いだけではない。カナシ村を飢饉から救う期待を背負わされていた。
だから、飢饉が解決できなければ、ティティが責められる。村人を疑ってはいけないとわかっていても、ウィトスへの思いは募った。
「……魔王様に頼んで、村の様子を見に行かせてもらったらどう?」と、ドラゴン。
ティティは首を振った。「村に戻るのはダメなんだと」
前に見回りに連れていってもらったとき、カナシ村に寄ろうという提案もした。聞こえていなかったのかと思ったが、もしかしたら、聞かなかったことにしただけかもしれない。
「当然じゃない!アンタは生贄なのよ?村に帰れるわけないじゃない」
「そ、そうなんだよなあ……ははは」
「でも、そんな可哀想な生贄のために、このモニクちゃんが一肌脱いでやってもいいわ」
ちょっと待ってなさい!というと、モニクはどこかに飛んでいってしまった。
数分待っていると、モニクは箱を頭に乗せて帰ってきた。
「はぁ、はぁ……、こ、これ……〈盗み見の蛇〉」
「魔王様のやつじゃん!」ドラゴンが即答した。
「ちょっと借りるだけよっ!ティティ、箱をあけて。蛇が二匹入ってるでしょ」
ティティは言われるがまま、箱から白と黒の二匹の蛇を取り出した。
「あっ、あっ、あたしに蛇を近づけないでね!嫌いなの。……で、見たい景色を思い浮かべながら、蛇同士の尻尾を噛ませて」
「こ、こうだか?お、お願い、おらに父ちゃんの姿を見せて!」
モニクの指示通りに噛ませた途端、ぐにゃりと柔らかかった蛇は硬化した。
蛇で出来た輪の向こうに見えていたドラゴンに靄がかかる。代わりに、それは映し出した。
ベッドからずり落ちて、ぼろぼろになったウィトスの姿を。
「父ちゃん!」
ティティが悲鳴のように上げた声に、モニクとドラゴンも輪を覗きこんだ。
ウィトスは、ただ倒れているだけではなかった。その背中には、何度も蹴られた足跡がある。意識が遠ざかる度に、顔に水をかけられていた。ティティが父のために汲みおいていた水だ。家のなかも、相当荒らされていた。
この残虐な暴力を主導しているのは――カバイェだった。父を医者に見せると約束した、あの男だった。
「やめてけれ!このままじゃ父ちゃんが死んじまう!」
「えっ、ちょ……ティティ!お、落ち着きなさい!」映像に噛み付くティティの周りを、モニクが飛び回る。指を広げて蛇を離させようとしても、びくともしない。
「ティティ!しっかりして!」
「やめろぉ!父ちゃんをいじめんな!」
「なにやってんだ」
騒ぎに気づいたメイストが、モニクの部屋にやってきた。
「魔王様!ティティが!」
ティティが手にする〈盗み見の蛇〉に気づいたメイストは、状況を瞬時に把握した。
メイストの手が、ずるりと蛇の輪を貫いた。カバイェの姿を突き破ってきたメイストの手に、ティティは思わず手を離した。
映像が消え、蛇は再び生物に戻る。メイストの腕の上を、蛇がだらりと滑っていった。
「父ちゃん……」
ティティの頬に、涙が流れた。その場に膝から崩れ落ちる。
その様子に、メイストがモニクを睨みつけた。モニクは、ティティの髪にさっと隠れた。
「このままじゃ、父ちゃんが死んじまう……父ちゃんが……」
ティティがメイストの足にしがみついた。「おねげぇします!村に連れていってくだせえ!このままじゃ父ちゃんが……」
ティティの中に、断られないだろうという期待はあった。この城での生活で、メイストという男の優しさを、何度も感じていたからだ。生贄を大事にしてくれているのも、伝わってきた。
だからさすがに、こんな事態であれば、頑なだったメイストもきっと――。
「ダメだ」
メイストは冷たく言い放った。
頭から氷をかけられたようだった。
なぜ、どうして。そんな反論の言葉を与える余地もないほど、完全にティティを否定した。
「いずれ城から出してやるといったが、気が変わった。お前がここを出ることは許さない」
マントを翻す。瞬間、ティティの視界が闇に染まる。どんな夜よりも暗く、どんな沼よりも深い黒だ。
「……モニク。お前はこっちに来い」
ティティの髪の中で震えていたモニクだったが、その言葉に観念してメイストについて行った。
「ティティ……」
ドラゴンは大きな手を、窓に差し入れる。人間のように滑らかではないが、彼なりにティティを慰めようとした。
ティティはその手を握り返した。
廊下を進むメイストに、モニクはとぼとぼとついていく。
「……ご、ごめんなさい。魔王様」
「やってくれたな。お前がした悪さの中じゃピカイチだ。覚悟しとけよ」
「う……」
モニクは珍しく、心の底から反省しているようだ。ティティを生贄として見下してはいたが、客として歓迎もしていた。お喋りな妖精に、ティティはいつも大げさに反応し、母か姉のように話を聞いてやっていた。モニクはそんな彼女を傷つけたのだ。落ち込むのも当然だろう。
「……でも、魔王様があそこで拒否するなんて意外だった。いつもの魔王様なら……行かせてやるかと思ってたから」
「……お前が言ったんだろうが。生贄なんだから逃がさねえって」
「だって!」声を張り上げたあと、モニクはしおれた花のように頭を垂れる。「……だって、ティティ泣いてたから……」
目の前に、下働きの魔族がぼんやりと立っていた。ノーバディと呼んでいる。常に背景と同化しているため、メイストも彼の顔は知らない。よく姿を見失うので、城に雇い入れたときに服を着るように命じた。その服が、窓の外を指差している。
すっかり灰色の厚い雲で覆われた空に、ドラゴンが飛び去っていくところだった。
その手に、ティティを乗せて。




