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どこへ行くのかもわからないまま、ティティはドラゴンの手のなかでしくしくと泣き続けた。
「ううっ、ふぐっ」
ハンカチを握り締め、ぐしゅぐしゅと顔を拭く。どれだけ拭いても、涙と鼻水が出てきた。
崖の上は、延々深い森が続いていた。濃い緑色の木々が密集しており、地面は見えない。
――本当に飛んでら……。
ドラゴンの翼が空をかく音だけが聞こえる。空を飛ぶなんて、ティティには信じられないことだ。つまらない森の景色が続いても、未知の経験にかすかな高揚も覚えた。
――父ちゃんにも、見せてやりたかったな。この景し
ぶわわわあ。
再び、泉のように涙が湧いた。一体、自分の体のどこにこんなに水があるのだろうか。水だって貴重で、あまり飲めなかった生活なのに。昨日、スープを飲んだせいだろうか。
「ううう~!うう~、ひぅっ、ひぐっ!」
彼女はとうとう、ドラゴンの手の平に突っ伏して、うずくまった。
「あ、あのさ……そんなに泣かないでよ」
どこからか、声が聞こえた。幼い少年のような、高い声だ。
「だ、誰だ?おらのほかにも、誰かいるだか?」
ティティはあたりをきょろきょろと確認する。手に乗っているのはティティだけだ。背中に誰かいるのだろうかと、顔を上げる。
「僕だよ、僕」
そこで、ドラゴンの大きな瞳と目が合った。
「おっ……おめぇか!おめぇが、喋ってるのがっ」
「ああ、驚いてひっくり返らないでね。生贄が死んじゃったら困るから。そんなことになったらイヤだから、飛ぶあいだは声をかけるの、迷ってたんだ」
「ほああ……おめぇ、喋れるのか……めんこい声だなぁ」
「めんこい?めんこいって、なぁに?」
「おらの故郷の言葉で、可愛いって意味だべさ」
え?可愛い?ほんと?」ドラゴンの声音が高くなる。「嬉しいな~。僕も自分のこと可愛いと思うんだけど、誰もそんなこと言ってくれないからね」
「おめえは可愛いよ?喋るとな。黙ってればおっかねよ」
「ふふん。前半には賛成だな」「
ドラゴンには人間のような表情はないが、代わりにその声には愛嬌があった。
神秘の生物と言葉を交わすという体験は、彼女の涙を止めるには十分な効果があった。
「僕、お迎えは苦手なんだよね。みんな泣くから。濡れるとベタベタして気持ち悪いんだ」
「んだども、泣いちまうべさ。だって、魔王様の生贄になるんだど?」
「みーんなそう言うよ。でもね、心配しなくていいよ。魔王様……メイスト様の城、きっと気に入ると思うから」
「あっはっは!おめぇ、面白ぇこと言うなあ」
生贄を油断させるための作戦なのだろう。ティティには、そうとしか考えられなかった。
「もう。本当なんだけど」
「はいはい、分かった分かった。……ん?」
ティティは、ドラゴンの鱗に小さなノミがついているのを見つけた。よく見れば、ここから手の届く範囲だけでも結構いる。
「おめぇ、結構ノミがついてるど?」
「えっ、困るなあ。取ってくれる?」
「ん、任せとけ。ちょっとくすぐってぇかもしんねえけど、おらのこと落とさねでけれよ?」
「はーい」
素直な返事に、ティティは思わず笑顔になるのだった。
そんな心温まる交流も、魔王の城を見た途端、短い夢のように思えてしまった。
朽ち果てた城のあちこちに、真っ黒いツタが絡まっている。ティティの目には、それがまるで人が壁を這い上がろうとしているように見えた。周りには蝙蝠や烏が無数に飛んでいる。
その、どうして崩れないのかわからないほど、変わった形をした城に、ティティはドラゴンと共に足を踏み入れた。大きなドラゴンの体が、余裕を持って入れるほど大きなエントランスだ。
正面に大きな階段があった。最上段からは、更に左右に階段がある。かび臭くて、あちこちに蜘蛛の巣が張っていた。一歩進むごとに、絨毯から埃が舞う。足元で何かの虫たちが、慌てて逃げる気配があった。
「魔王様ー?連れてきたよー。どこにいるのー?」
ドラゴンの呼びかけは、生命の気配がないエントランスに反響する。
コツ、という、硬い音がした。
規則的に続く音に、ティティはそれが足音であることに気づいた。
「あ、いた」
ドラゴンが、左手の階段を下りてくる人影を見とめる。
闇から足が現れる。マントを翻し、彼はゆっくりと階段を下りてきた。
明かりのないエントランスでも、窓からわずかに光が入る。そこに姿を見せた男は、口が顔の横まで裂けていた。真紅の髪とも髭ともつかないものが顔の中心近くまで生えていて、狼のようだ。それだけでも恐ろしいのに、側頭部の角は、恐ろしげに先端をこちらに向けて生えている。
腰には飾り杖をぶら下げていた。何か大きな飾りがついていたのではないかとうかがわせる台座が、ぎらりと輝く。
魔王だ。
見たことはない。だが、ティティは彼を目の前にしたときに、彼が魔王だ、と思った。外見や出で立ちからそう感じるのではなく、本能がそう言っている。
――ああ、やっぱり魔王の話は嘘だったべ。
――おら、このままパクッと食われちまうんだべな……
泣いたり、喚いたりする気は湧かなかった。父に話した決意も忘れていた。彼には、魔王には、思考を奪われ、支配される他ないのだ。
目の前に、魔王が歩み寄ってくる。ティティはすべてをあきらめ、目を閉じ……。
「この子が新しい生贄ねっ?」
甲高い声がした。ずいぶん明るい声の魔王だな、と思って、わずかに目を開けると――。
目の前に、小さな小さな少女がいた。ティティの手で全身を覆えてしまいそうなくらい、小さな少女が、目の前を飛んでいる。羽を動かし、右へ左へせわしなく動く姿は、まるで蜂のようだ。
「魔王様!今度はちゃんと乙女だわ!処女だわ!若いし!そこそこ可愛いわ!生贄として合格よ!あたしモニク、よろしく!」
そのモニクと名乗った彼女が、何を喜んでいるのかティティにはわからない。内容もそうだが、とても早口だったのだ。モニクの瞳は全体がガラス色で、白目の部分が無い。
「……ならよかった」
魔王が、初めて喋った。
その声は、想像していたよりも穏やかだった。
「はっ……はじめまして!い、生贄のユースティティアと申しますだ!よよよよろしくお願いしますだ!」
ティティは太ももに額をくっつける、いつものお辞儀をした。
「変なお辞儀」モニクが呟いた。
「お前……ユースティティア……だっけ」
魔王が再び喋った。
「はっ……はいっ。な、なげえので、ティティとお呼びくだせえ」
「ティティ……」
「はいっ」
「くさい」
「……へっ?」
「お前、すげえくさい」
◆
魔王の城についたら、服をひん剥かれたり、牢屋に閉じ込められたりするのだろうか、とティティは思っていた。生贄をそのまま食べるのか、バラバラにして食べるのか、そのようなこともよくわからなかったが……。
風呂に入らされるとは、考えていなかった。
熱い湯だった。城の中庭のようなところにあって、空が見える。湯は沸かしているのではなく、地中から湧いているらしい。この湯を肌にすりこむと、信じられないくらい滑らかになった。
自分が汚いのはわかっていた。風呂はおろか、体を洗ったのすら、最後にしたのをいつか覚えていない。
――これは……食べる前に綺麗にするってやつだべな。
芋だって洗って土を落とし、調理する。生贄が汚くて臭いままでは、食欲も削がれてしまうのだろう。メイストは、着々とティティを食べる用意をしているのだ。
――どうしよう。風呂から上がったら、体に塩でも塗っておくべか?
――下ごしらえしとけば、魔王様も感心してくださるかもしれねえ。おら、貧相な体だから食いでが無さそうだろうしなぁ。
ティティはなんとしても魔王に気に入られ、生贄としての運命を全うしなければならない。そうでなければ、カナシ村も、そこに住む父も救われないのだ。
風呂を上がったティティに、次に用意されたのは、豪華な晩餐だった。
「食えよ。長旅で腹減ってんだろ」
メイストは先に食べていた。何を食べているのかと、そちらを見ることも憚られたが、ただのパンだった。
それで、テーブルに並べられた料理を見てみる。ティティは、動物の目玉だとか、虫のスープだとかが並んでいるのではないかと恐れていた。物語の魔王は、そういうものを食べていたからだ。
しかし目の前にあるのは、肉や魚、色とりどりの果物、焼きたてのパンなど、たいそうなご馳走だった。もう何年も口にしていないような料理の数々に、口の中に涎が溢れる。
遠慮なく食べようとして、ティティは硬直した。
――これは、飯をたらふく食わせて、太らせて食うためか?
ティティはメイストを覗き見た。人間と比べて明らかに長い指には、黒い爪がついている。どう見ても異形の手。それが行っているのは……。
「ちっ……剥きづれーな」
魔王が、ゆで卵の殻を、剥いている。
「……ん?どうした?」
「い、いえっ……なんでもねえです」
「遠慮しねーで食え。毒なんか入ってねえから」
メイストは、あ、と声をあげる。「何か食えないものある?これ食ったらじんましん出るとか」
「何も……ねえですが……」
「ならよかった。前に小麦食うと発作出るって生贄がいたからよ。あれは辛そうだ。そういうことは前もって言っておけよ」
いた、という、過去の話。
わかってはいたが、自分の未来に重ねると、こみ上げるものがあった。
ティティは、意を決して食事を始めた。早く太って、メイストに食べられなければならない。まずは、魚料理を取り分ける。
――カナシ村の運命はおらが背負っ
「うめえええええ!」
もう食べられない。
そんな言葉を、死ぬ前に言えるだけで幸せだった。
ティティは寝室のベッドで横たわっていた。立派な天蓋がついたベッドで、清潔なシーツが引かれていた。ここがきっと、最期の場所となる。彼女はいよいよ、魔王の生贄となるのだ。
体を綺麗にさせてもらい、お腹いっぱいの、とてもおいしい食事をして。死ぬ前に、こんないい思いができた。例えそれが、生贄をおいしく食べるための下ごしらえだったとしても、悔いは無い。
さて、あとティティにできることは何だろうかと考える。服はきっと食べないだろうし、そうなるとやはり脱いでおいたほうが良いのかもしれない。
父の顔を思い浮かべながら、ティティはドレスを脱いだ。こんな綺麗なドレスを着ているところをウィトスが見たら、どんなに喜んだだろうか。
ドレスを綺麗に畳んで、下着も脱ぎ、ティティは裸になった。
そこで、扉が開いた。重い扉がゆっくりと開き……その向こうに、魔王が姿を見せた。
体からオーラのようなものが出ており、目が据わっていた。あきらかに様子がおかしい。
五年ぶりの生贄を口にするのだ。その期待が滲み出て――
「……あれ。お前、裸で寝るタイプ……?」
ベッドの上で裸になっているティティに気づくと、メイストはぼそぼそと呟いた。
魔王メイストの目は、据わっているのではなく、半分しか開いていなかった。ティティを睨んでいるのではなく……誰が見ても、「眠いのだろう」と思う目をしている。
ついでに、石鹸のいい匂いがした。体から出ているのは湯気だ。
お風呂上がりだった。
「まあ、人それぞれだよな……うん。俺、もう寝るから……」
「ね、寝る?」
「いつも九時には寝てんだけど……今日はお前に先に風呂貸したから……こんな時間に風呂とか……」
室内にあった大きな古時計は、十時をさしている。
メイストはベッドを通り過ぎ、窓際にあるソファに向かった。そして、座るのではなくそのまま横たわって……すぅ、と目を閉じた。
「……ま、魔王様っ!そこで寝るのけっ?」
「だって……この城、使えるベッドひとつしかねえし……」
それは、ティティのいる場所のことだろう。
つまりそれは、ティティにひとつしか使えないベッドを譲り、メイストはソファで寝るということだ。
「生贄にベッド譲って眠る魔王様がどこさいる!」
「女をソファに寝せて、自分がベッドで寝る男はいねえだろ……」
それだけ言って、メイストは寝息を立て始めた。
――なんだべ、この魔王様……。
ティティは素っ裸のまま、メイストの横に立ち尽くした。




