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贄の娘と支配の魔王  作者: 八千
<1>生贄の娘・ユースティティア
2/20

 どこへ行くのかもわからないまま、ティティはドラゴンの手のなかでしくしくと泣き続けた。

「ううっ、ふぐっ」

 ハンカチを握り締め、ぐしゅぐしゅと顔を拭く。どれだけ拭いても、涙と鼻水が出てきた。

 崖の上は、延々深い森が続いていた。濃い緑色の木々が密集しており、地面は見えない。

――本当に飛んでら……。

 ドラゴンの翼が空をかく音だけが聞こえる。空を飛ぶなんて、ティティには信じられないことだ。つまらない森の景色が続いても、未知の経験にかすかな高揚も覚えた。

――父ちゃんにも、見せてやりたかったな。この景し

 ぶわわわあ。

 再び、泉のように涙が湧いた。一体、自分の体のどこにこんなに水があるのだろうか。水だって貴重で、あまり飲めなかった生活なのに。昨日、スープを飲んだせいだろうか。

「ううう~!うう~、ひぅっ、ひぐっ!」

 彼女はとうとう、ドラゴンの手の平に突っ伏して、うずくまった。

「あ、あのさ……そんなに泣かないでよ」

 どこからか、声が聞こえた。幼い少年のような、高い声だ。

「だ、誰だ?おらのほかにも、誰かいるだか?」

 ティティはあたりをきょろきょろと確認する。手に乗っているのはティティだけだ。背中に誰かいるのだろうかと、顔を上げる。

「僕だよ、僕」

 そこで、ドラゴンの大きな瞳と目が合った。

「おっ……おめぇか!おめぇが、喋ってるのがっ」

「ああ、驚いてひっくり返らないでね。生贄が死んじゃったら困るから。そんなことになったらイヤだから、飛ぶあいだは声をかけるの、迷ってたんだ」

「ほああ……おめぇ、喋れるのか……めんこい声だなぁ」

「めんこい?めんこいって、なぁに?」

「おらの故郷の言葉で、可愛いって意味だべさ」

え?可愛い?ほんと?」ドラゴンの声音が高くなる。「嬉しいな~。僕も自分のこと可愛いと思うんだけど、誰もそんなこと言ってくれないからね」

「おめえは可愛いよ?喋るとな。黙ってればおっかねよ」

「ふふん。前半には賛成だな」「

 ドラゴンには人間のような表情はないが、代わりにその声には愛嬌があった。

 神秘の生物と言葉を交わすという体験は、彼女の涙を止めるには十分な効果があった。

「僕、お迎えは苦手なんだよね。みんな泣くから。濡れるとベタベタして気持ち悪いんだ」

「んだども、泣いちまうべさ。だって、魔王様の生贄になるんだど?」

「みーんなそう言うよ。でもね、心配しなくていいよ。魔王様……メイスト様の城、きっと気に入ると思うから」

「あっはっは!おめぇ、面白ぇこと言うなあ」

 生贄を油断させるための作戦なのだろう。ティティには、そうとしか考えられなかった。

「もう。本当なんだけど」

「はいはい、分かった分かった。……ん?」

 ティティは、ドラゴンの鱗に小さなノミがついているのを見つけた。よく見れば、ここから手の届く範囲だけでも結構いる。

「おめぇ、結構ノミがついてるど?」

「えっ、困るなあ。取ってくれる?」

「ん、任せとけ。ちょっとくすぐってぇかもしんねえけど、おらのこと落とさねでけれよ?」

「はーい」

 素直な返事に、ティティは思わず笑顔になるのだった。




 そんな心温まる交流も、魔王の城を見た途端、短い夢のように思えてしまった。

 朽ち果てた城のあちこちに、真っ黒いツタが絡まっている。ティティの目には、それがまるで人が壁を這い上がろうとしているように見えた。周りには蝙蝠や烏が無数に飛んでいる。

 その、どうして崩れないのかわからないほど、変わった形をした城に、ティティはドラゴンと共に足を踏み入れた。大きなドラゴンの体が、余裕を持って入れるほど大きなエントランスだ。

 正面に大きな階段があった。最上段からは、更に左右に階段がある。かび臭くて、あちこちに蜘蛛の巣が張っていた。一歩進むごとに、絨毯から埃が舞う。足元で何かの虫たちが、慌てて逃げる気配があった。

「魔王様ー?連れてきたよー。どこにいるのー?」

 ドラゴンの呼びかけは、生命の気配がないエントランスに反響する。

 コツ、という、硬い音がした。

 規則的に続く音に、ティティはそれが足音であることに気づいた。

「あ、いた」

 ドラゴンが、左手の階段を下りてくる人影を見とめる。

 闇から足が現れる。マントを翻し、彼はゆっくりと階段を下りてきた。

 明かりのないエントランスでも、窓からわずかに光が入る。そこに姿を見せた男は、口が顔の横まで裂けていた。真紅の髪とも髭ともつかないものが顔の中心近くまで生えていて、狼のようだ。それだけでも恐ろしいのに、側頭部の角は、恐ろしげに先端をこちらに向けて生えている。

腰には飾り杖をぶら下げていた。何か大きな飾りがついていたのではないかとうかがわせる台座が、ぎらりと輝く。

 魔王だ。

 見たことはない。だが、ティティは彼を目の前にしたときに、彼が魔王だ、と思った。外見や出で立ちからそう感じるのではなく、本能がそう言っている。

――ああ、やっぱり魔王の話は嘘だったべ。

――おら、このままパクッと食われちまうんだべな……

 泣いたり、喚いたりする気は湧かなかった。父に話した決意も忘れていた。彼には、魔王には、思考を奪われ、支配される他ないのだ。

 目の前に、魔王が歩み寄ってくる。ティティはすべてをあきらめ、目を閉じ……。

「この子が新しい生贄ねっ?」

 甲高い声がした。ずいぶん明るい声の魔王だな、と思って、わずかに目を開けると――。

 目の前に、小さな小さな少女がいた。ティティの手で全身を覆えてしまいそうなくらい、小さな少女が、目の前を飛んでいる。羽を動かし、右へ左へせわしなく動く姿は、まるで蜂のようだ。

「魔王様!今度はちゃんと乙女だわ!処女だわ!若いし!そこそこ可愛いわ!生贄として合格よ!あたしモニク、よろしく!」

 そのモニクと名乗った彼女が、何を喜んでいるのかティティにはわからない。内容もそうだが、とても早口だったのだ。モニクの瞳は全体がガラス色で、白目の部分が無い。

「……ならよかった」

 魔王が、初めて喋った。

 その声は、想像していたよりも穏やかだった。

「はっ……はじめまして!い、生贄のユースティティアと申しますだ!よよよよろしくお願いしますだ!」

 ティティは太ももに額をくっつける、いつものお辞儀をした。

「変なお辞儀」モニクが呟いた。

「お前……ユースティティア……だっけ」

 魔王が再び喋った。

「はっ……はいっ。な、なげえので、ティティとお呼びくだせえ」

「ティティ……」

「はいっ」

「くさい」

「……へっ?」

「お前、すげえくさい」





 魔王の城についたら、服をひん剥かれたり、牢屋に閉じ込められたりするのだろうか、とティティは思っていた。生贄をそのまま食べるのか、バラバラにして食べるのか、そのようなこともよくわからなかったが……。

 風呂に入らされるとは、考えていなかった。

 熱い湯だった。城の中庭のようなところにあって、空が見える。湯は沸かしているのではなく、地中から湧いているらしい。この湯を肌にすりこむと、信じられないくらい滑らかになった。

 自分が汚いのはわかっていた。風呂はおろか、体を洗ったのすら、最後にしたのをいつか覚えていない。

――これは……食べる前に綺麗にするってやつだべな。

 芋だって洗って土を落とし、調理する。生贄が汚くて臭いままでは、食欲も削がれてしまうのだろう。メイストは、着々とティティを食べる用意をしているのだ。

――どうしよう。風呂から上がったら、体に塩でも塗っておくべか?

――下ごしらえしとけば、魔王様も感心してくださるかもしれねえ。おら、貧相な体だから食いでが無さそうだろうしなぁ。

 ティティはなんとしても魔王に気に入られ、生贄としての運命を全うしなければならない。そうでなければ、カナシ村も、そこに住む父も救われないのだ。




 風呂を上がったティティに、次に用意されたのは、豪華な晩餐だった。

「食えよ。長旅で腹減ってんだろ」

 メイストは先に食べていた。何を食べているのかと、そちらを見ることも憚られたが、ただのパンだった。

 それで、テーブルに並べられた料理を見てみる。ティティは、動物の目玉だとか、虫のスープだとかが並んでいるのではないかと恐れていた。物語の魔王は、そういうものを食べていたからだ。

 しかし目の前にあるのは、肉や魚、色とりどりの果物、焼きたてのパンなど、たいそうなご馳走だった。もう何年も口にしていないような料理の数々に、口の中に涎が溢れる。

 遠慮なく食べようとして、ティティは硬直した。

――これは、飯をたらふく食わせて、太らせて食うためか?

 ティティはメイストを覗き見た。人間と比べて明らかに長い指には、黒い爪がついている。どう見ても異形の手。それが行っているのは……。

「ちっ……剥きづれーな」

 魔王が、ゆで卵の殻を、剥いている。

「……ん?どうした?」

「い、いえっ……なんでもねえです」

「遠慮しねーで食え。毒なんか入ってねえから」

 メイストは、あ、と声をあげる。「何か食えないものある?これ食ったらじんましん出るとか」

「何も……ねえですが……」

「ならよかった。前に小麦食うと発作出るって生贄がいたからよ。あれは辛そうだ。そういうことは前もって言っておけよ」

 いた、という、過去の話。

 わかってはいたが、自分の未来に重ねると、こみ上げるものがあった。

 ティティは、意を決して食事を始めた。早く太って、メイストに食べられなければならない。まずは、魚料理を取り分ける。

――カナシ村の運命はおらが背負っ

「うめえええええ!」




 もう食べられない。

 そんな言葉を、死ぬ前に言えるだけで幸せだった。

 ティティは寝室のベッドで横たわっていた。立派な天蓋がついたベッドで、清潔なシーツが引かれていた。ここがきっと、最期の場所となる。彼女はいよいよ、魔王の生贄となるのだ。

 体を綺麗にさせてもらい、お腹いっぱいの、とてもおいしい食事をして。死ぬ前に、こんないい思いができた。例えそれが、生贄をおいしく食べるための下ごしらえだったとしても、悔いは無い。

 さて、あとティティにできることは何だろうかと考える。服はきっと食べないだろうし、そうなるとやはり脱いでおいたほうが良いのかもしれない。

 父の顔を思い浮かべながら、ティティはドレスを脱いだ。こんな綺麗なドレスを着ているところをウィトスが見たら、どんなに喜んだだろうか。

 ドレスを綺麗に畳んで、下着も脱ぎ、ティティは裸になった。

 そこで、扉が開いた。重い扉がゆっくりと開き……その向こうに、魔王が姿を見せた。

 体からオーラのようなものが出ており、目が据わっていた。あきらかに様子がおかしい。

 五年ぶりの生贄を口にするのだ。その期待が滲み出て――

「……あれ。お前、裸で寝るタイプ……?」

 ベッドの上で裸になっているティティに気づくと、メイストはぼそぼそと呟いた。

 魔王メイストの目は、据わっているのではなく、半分しか開いていなかった。ティティを睨んでいるのではなく……誰が見ても、「眠いのだろう」と思う目をしている。

 ついでに、石鹸のいい匂いがした。体から出ているのは湯気だ。

お風呂上がりだった。

「まあ、人それぞれだよな……うん。俺、もう寝るから……」

「ね、寝る?」

「いつも九時には寝てんだけど……今日はお前に先に風呂貸したから……こんな時間に風呂とか……」

 室内にあった大きな古時計は、十時をさしている。

 メイストはベッドを通り過ぎ、窓際にあるソファに向かった。そして、座るのではなくそのまま横たわって……すぅ、と目を閉じた。

「……ま、魔王様っ!そこで寝るのけっ?」

「だって……この城、使えるベッドひとつしかねえし……」

 それは、ティティのいる場所のことだろう。

 つまりそれは、ティティにひとつしか使えないベッドを譲り、メイストはソファで寝るということだ。

「生贄にベッド譲って眠る魔王様がどこさいる!」

「女をソファに寝せて、自分がベッドで寝る男はいねえだろ……」

 それだけ言って、メイストは寝息を立て始めた。

――なんだべ、この魔王様……。

 ティティは素っ裸のまま、メイストの横に立ち尽くした。

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