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ティティの訴えも空しく、翌日には〈裂け目〉と呼ばれる場所に二人は向かっていた。
「魔王様ぁ……やっぱりこの格好、こっ恥ずかしいべよ」
ティティは生まれてこの方、こんなに肌の出る格好をしたことがなかった。若い娘なら当然の肩がむきだしのドレスでも、十分な露出に感じた。髪にも首元にもあちこちに装飾品をつけているせいで、自分の体が少し重くなったようにさえ感じる。
「なしてこんな格好して行かねばなんねえのです?」
「オヤジの前に顔出すんだ。めかしこんで当然だろ」
「生贄を飾ったっておかしいべさ!鶏にブローチをつけるようなもんだど!」
「……飯だって、皿選んで盛り付けて、飾って出すだろ」
「お、おらは飯じゃねえ!帰るだあ!」
「暴れんなよ。落ちるぞ」
ティティは半分泣きで、メイストにしがみついた。
足元に広がるのは、どこまでも続く暗い海だ。こんなところで放り出されたら、魔王の餌になる前に、海の藻屑となってしまう。
それにしても、妙だ――とティティは思った。城を出てから飛んでいた時間を考えてみても、距離も、夜になるような時刻ではない。だが、辺りは真っ暗だ。進めば進むほどに、その濃さは増していく。夜よりも暗く、影よりも黒い。
「見えてきたぞ。あれが〈裂け目〉だ」
メイストの視線の先を、ティティも辿る。
裂け目といっても、そこに何かが見えるわけではない。空もなく海もない。黒が最も深い所。だから何も見えない……そこがメイストの言う〈裂け目〉なのだ。
「こ、ここ……なんだ?」
「朝日が照らしきれなかった、夜の残りらしい。オヤジのオヤジのオヤジくらいの魔王がここを見つけて、根城にしたんだと」
ティティの頭では、理解できない構造だった。メイストはゆっくりと、〈裂け目〉の中心に向かって飛んでいく。
暗黒の向こうも、また暗黒だった。だが、今度は来たときと反対に、次第に明るくなっていく。
目の前に、不吉な夕日のような色の空間が現れた。その真ん中に、巨大な城塞都市がぼんやりと浮いている。森もあれば、鳥も飛んでいる。人の形をした生き物は見当たらない。世界からこの街だけが、はぐれてしまったようだ。
滴のような形をしたその都市の上に向かって、メイストは飛んだ。近づくと、そこに城が見えてくる。「あれがオヤジの城だ」
城のエントランスに辿り着くと、大勢の魔族が道を作るように両脇に並び、メイストを出迎えた。ゆらめく影が、更に黒一色の燕尾服を着ている。シャツも、袖も、黒いインクに浸かっていたかのように真っ黒だ。
幅広でゆるやかにカーブした階段を、ティティはメイストに続く形で上がっていく。ドレスを着ていたものの、ティティはブーツを履いてきていたので、苦もなく登れた。モニクは細いヒールの靴を履くようにとうるさかったが、メイストが「どうせドレスで見えないから歩きやすいのでいい」と言ったのだ。
階段を上がりきったところで、突然視界が開けた。通路とそこを遮る壁はなく、ダンスパーティーが開けそうなぐらい広大な広間だ。その奥に、玉座があった。墓標のように飾り気のない、だが、存在感のある玉座だ。
「メイストか」
「オヤジ」
メイストが玉座に向かって膝をつくのに、ティティも倣う。
玉座に座っていたのは、大柄な老人だった。多くの皺が刻まれた彼の顔は、大樹の幹を思わせる。メイストよりも遥かに長い角が、とぐろを巻いて耳のように顔の横を覆っている。
「そいつがオメェの生贄か」
オヤジ、と呼ばれる魔王が、ティティをぎろりと見下ろす。
――殺される!
「ゆ、ユースティティアと申します!長ぇので、ティティとお呼び下せえ!こここれ、おらが作ったジャムです!」
直角のお辞儀をしながら、ティティはカゴに入った瓶を差し出した。そのことに驚いたのは、メイストのほうだ。
「え、お前……何持ってきてんの」
「へっ?魔王様のお父上に会うのだから、ご、ご挨拶にと思って、ジャムを作ったんだども」
「はぁ?父親って……」
ブワハハ!という、大きな笑い声が上がった。あまりの声の大きさに、少し地面が揺れた気がした。
「なんだ、オメェ。おもしれぇ女を生贄にしたなあ」
「俺が選んでるわけじゃないんで……」
「オレぁこういう娘は好きだぞ。若ぇころの女房を思い出す」
彼は相好を崩すと、カゴの持ち手に指を引っ掛けて差し入れを受け取った。メイストよりも二周りほど体が大きく、人差し指がティティの手首ほども太い。
「オレの名前はヴォーゲント。覚えて帰れよ、嬢ちゃん」
ヴォーゲントは玉座のいちばん近くにいた魔族にカゴを渡す。「嬢ちゃん、魔王会議は初めてだろ?メイストに何を言われたか知らねェが、観光気分で楽しんでくれや。ジャム、ありがとうよ」
ヴォーゲントは玉座の後ろに消えていった。
「あとはデリランテが来れば全員だ。それまで休んでろ。嬢ちゃんの面倒、ちゃあんと見てやれよ」
「はい」
どうやら玉座の後ろに奥の間があるようだった。ヴォーゲントはそこに入っていったらしいが、あんなに大きな体なのに、足音は聞こえなかった。ティティもメイストも、しばらくそこに膝をついたままの姿勢でいた。
「……お前って、おっかねぇな」
ヴォーゲントの気配が無くなってしばらく後、メイストが息の詰まりを吐き出すようにそう言った。
「な、何がですか……」
「俺だって未だにオヤジと話すのはびびってんだぞ」
「へっ?父ちゃんと話すのにが?」
「ああ……やっぱ勘違いしてたか」メイストはついていた膝を崩すと、そのまま座り込んだ。「オヤジっていうのは、ただの呼び名だ。実際に血が繋がってるわけじゃない。魔王はお前らみたいに交尾して繁殖しない。魔族と同じだ。災害や自然、闇から産まれるんだ」
「ってことは……魔王様には家族はいねぇのか?」
メイストは人間とは違う。だから、家族がいないことは特に不思議ではないのだろう。
だが、ティティにとっては……自分が培ってきた価値観では、衝撃的な話だった。
「そういうこと。あとな、ここから帰るまで、俺のことはメイストって呼べ。名前で。こういう場で魔王様って呼んでいいのはオヤジのことだけ。一番偉い魔王だから」
「わかりますた」
ティティの返事を確認すると、メイストが先に立ち上がる。
差し伸べられた異形の手を、ティティはしっかりと掴んだ。いつもよりも、強く……。
魔王会議の場には、メイストを含め五人の魔王がいた。
特徴的な角と体毛が、全員に共通している。それ以外の髪の色や顔つきは、それぞれの個性だった。
部屋の中心に、入り口から奥に向かって絨毯が敷かれている。その突き当たりにある空席は、この中でも上位の者――ヴォーゲントの席である。
絨毯をはさんで両脇には、魔王が三人ずつ座っていた。彼らの後ろには、それぞれの生贄が控えていた。魔王が一同に会すという状況を恐れていたティティだったが、彼女たち人間の存在に緊張は解けた。
だが、生贄たちは皆、ティティには信じられないほど美人だった。同じ女だと思えない。格好も、ティティのようにお仕着せのドレスではなく、それを着て生まれてきたかのようによく似合っている。
「お……おら、場違いでねぇか」メイストに向かって、ヒソヒソと話しかける。
「大丈夫だって。堂々としてろ」
そこに、新たな来訪者があった。デリランテと、生贄の女性だ。他の魔王たちの生贄に負けず劣らずの美しい女性を連れている。
デリランテは室内を一瞥すると、気だるげに空席に向かった。女性はビクビクと怯えながら、デリランテの後ろについていく。ひどく痩せていて、儚げだ。新雪を思わせる白い肌は、触れただけで溶けて無くなってしまいそうだ。
「おせぇんだよ、デリランテ」
「悪ぃな、オヤジ。こっちも色々あるんだよ」
デリランテが空席の前に立ったところで、気づけばヴォーゲントが奥の椅子に座っていた。一体、どこから入ってきたのだろう。
ヴォーゲントに気づくと、魔王たちが全員椅子から立ち上がる。
「全員揃ったようだな。じゃあ、始めるとすっか」
いくつか空席はあるが、魔王はこれで全員らしい。彼が合図をすると、魔王たちは再び椅子に腰を下ろした。
「今日集まってもらったのは、オメェらも聞いているだろうが、〈真の勇者〉が現れたって話についてだ」
ヴォーゲントの足元の影が、ずるずると絨毯に向かって伸びてくる。魔王たちの目の前でぴたりと止まった影は垂直に立ち上がると、人の形を成した。それは、オーウェンの姿だった。まるで、黒い泥人形だ。
「きゃあ、こわぁ~い」
メイストの真正面に座っていた眼鏡の魔王に、生贄の女性が抱きつく。彼の肩に押し付けられた胸は、赤子の頭よりも大きかった。
「あー、アメリア。悪ぃんだがよ、今日はちーっと真面目な話だからよう」ヴォーゲントが困ったように笑う。
「そうなのぉ?ごめんなさあい」
「オヤジ、すみません」
眼鏡の魔王は、顔を真っ赤にしながら、アメリアの腕を解いた。
「こいつが〈真の勇者〉らしい、オーウェンって男だ。遣いをやったが、リミットオーバーを確認済みだ。あちこちでボスクラスの魔族がやられている。西のコーリ山も攻略されたそうだ。ティミドがそれでやられた」
他の魔王たちがどよめいた。デリランテは椅子にふんぞり返ったままだ。メイストも静かに話を聞いている。
そこで、ティティは不思議に思った。彼はオーウェンと接触したことについて、発言するつもりはないのだろうか。
「今はヒロイの都近辺を根城にしているらしいな、デリランテよ」
「ああ。らしいな。だが、まだ俺の支配地では何も起きてねェぜ。どうせ俺の手下にびびって何もできねェでいるんだ」
――そうだべか……。
ティティは、あの日のオーウェンのことを思い出す。彼は魔王を倒すことに、手をわずらわせているようには見えなかった。
「ティミドがカスだったんだろ。勇者にやられやがって」
デリランテの言葉に、メイスト以外の魔王たちが興奮した様子で立ち上がった。
「オーウェンは〈真の勇者〉かもしれねえんだぞ!そうなれば、てめーだって勝ち目ねえだろ!」
「それが亡き兄弟への言葉か!」
「やだぁ、コーちゃん!怒ったら怖いよぅ」
「すっ、すまない!」
彼は、アメリアに窘め……抱きしめられ、腰を下ろした。しかし、その間も残りの魔王たちの追及は止まらない。
「うるせぇぞ、オメェら!」
ヴォーゲントの一言で、魔王たちが黙る。
「今は兄弟同士で喧嘩してる場合か?あぁ?……デリランテ、オメェはそのうるせェ口を閉じてろ」
「はいはい……」
ニヤニヤと笑うデリランテは、反省する素振りなど一切見せない。威厳に満ちていたヴォーゲントも、疲れたように溜息を吐く。
「〈真の勇者〉だろうとなんだろうと、オレらにできることは奴をぶっ潰すことだけだ。オメェら、生贄はしっかり守れよ。そいつが〈天恵の姫〉だった場合……〈真の勇者〉に奪われたら、何が起こるかわかってるな?」
その言葉に、荒れていた魔王たちが、静まり返った。
「テメェだけの問題じゃねえ。勇者に絶大な力を与えることになる。魔王は全て倒され、常世の平和が完成するだろう。だが逆に、〈天恵の姫〉がオレらの手にあれば……永遠の支配が完成する」
「ええ……そもそも、〈真の勇者〉が現れたということは、私たちの手に既に〈天恵の姫〉がある可能性が高いのです。伝説の詩にもある通り、〈真の勇者〉は〈天恵の姫〉を救うために誕生するのですから」
コーちゃんと呼ばれた魔王が、眼鏡を光らせた。
「コラルコの言う通り。だから、これは好機でもある」
「けどさー、〈真の勇者〉も〈天恵の姫〉も、確かめようが無いんでしょ?」メイストの隣に座る魔王が、頭をかきながら言う。彼は他の魔王たちより、一回り体格が小さい。
「ああ。だからオレたちがやることはただひとつ」
ヴォーゲントが、自分の顔の前に人差し指を立てた。
「奴が何であれ、ぶっ潰す。それだけだ。わかったか、テメェら!」
「はい!」
メイストは、最後まで一言も発さなかった。ティティは彼の後ろに立っているため、どんな顔をしているかもわからない。
「そんなことを言うために、わざわざ会議を招集したのかよ。オヤジ」
デリランテが頬杖をつきながら言う。
「話を聞いてなかったのかよ、オメェは。オレたちの手に、〈天恵の姫〉があるかもしれねェんだぞ。だから生贄を連れて来いっつったんだろーが」
「ハッ、そうかい。でも、いたからってどうすんだ?この場で〈天恵の姫〉をぶっ殺すだけだろ?」
彼の言葉に、場が凍りついた。
ティティには、デリランテの言っていることの意味がわからなかった。だが、彼ら魔王は、わかっているから言葉を失ったのだ。
「〈天恵の姫〉がいなくなっちまったら、〈真の勇者〉も助ける相手がいねェんだもんなあ。ラク~に〈真の勇者〉が片付くよなァ?ここにいる生贄、全員殺しちまうのが一番手っ取り早いんじゃねェか?」
「おいクソ野郎……今すぐその言葉を撤回すれば、許してやろう」
怒りに肩を震わせながら、コラルコが立ち上がった。彼の手には、弓がある。だが、どこにも矢が見当たらない。
コラルコの様子に、アメリアは今度は声をかけなかった。心配そうに、彼の背中を見つめている。
「何だ?テメェ、俺とやりあう気か?」
デリランテが愉快そうに笑って、あの日メイストの城で見た柄を取り出した。そこから、金色の鞭が現れる。
雷だ。空に現れる雷が、鞭の形を成している。
ヴォーゲントが、再び一喝しようとしていた。コラルコの弓に、透明な矢が集まっていた。ティティは、生まれ育った村で見た氷柱を思い出した。
だが、誰かが動き始める何よりも先に、デリランテの背後でどさりという音が上がった。
「――おいテメェ!何倒れてんだよ!」
鞭が消えた。コラルコも、ただならぬ様子に弓を下げる。
デリランテの生贄の女性が倒れたのだ。
アメリアが彼女のところに駆け寄って、抱き上げた。漆黒の色の髪が、彼女の顔色の悪さを引き立たせる。
「だいじょうぶぅ?」
「す、すみませ……ちょっと、眩暈が……」
「クソが!邪魔しやがって!醒めちまっただろうが」
「ちょっとぉ、あんまりじゃなぁい?その言い方~」
「俺が俺のモンをどうしようと勝手だろ」
ハァー、とヴォーゲントが長い溜息をついた。
「何のための魔王会議だと思ってんだ。マリローダが〈天恵の姫〉だった場合、オメェだけの話じゃ済まねェんだよ」
「ハッ……このクソ女がそんな大層なモンのわけねェだろうが。俺は今すぐ会議を抜けたっていいんだぜ。金だって奴隷だって、支配地から巻き上げてるから、不足はしてねェんだよ」
「オレたち魔王会議の目的は、完全なる人間の支配だ。略奪や虐殺じゃねえ。それで支配だと抜かすなら、テメェは人を襲うだけの下等魔族と変わりやしねぇぞ」
「あぁ?誰が下等魔族だって?オヤジ」
「ほう。オメェ……誰に向かって口効いてんだ?」
ヴォーゲントの背後に、ずるずると影が立ち上がる。無数の手の形の影が、壁を、床を、天井を這った。この世の全てを黒く飲み込むように……。
彼の周りには闇しかない。まるで、ヴォーゲントが浮いているように見えた。
「オレにも支配されてるようじゃ……魔王としてはガキだぜ。デリランテ」
デリランテは唇を歪めると、柄をホルダーに戻す。そして、乱暴に生贄の腕を掴むと立ち上がらせ、部屋を出ていく。マリローダはおぼつかない足取りで、デリランテに連れられていった。
いつの間にか、ヴォーゲントの影は引いていた。
こうして、紛糾した魔王会議は終了したのだった。




