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ーアリス、僕の可愛いお客様。こっちで一緒にお茶を飲もうよ。ケーキはどうだい?クッキーもあるよ。さぁ、おいで。何も怖いものはないんだから。君はもう苦しまなくても大丈夫。恐い思いもしなくて平気。だから安心して僕の側においで。
2013/7/31
a.m1:30
一人暮らしをしてもう何ヵ月経っただろう?
真由美はそんなことを考えながら、人気の少ない暗い夜道を歩いていた。昼間でも人通りが少ないこの道は、夜になるとすれ違う人はあまりいない。
真由美はふと、腕時計を見た。
a.m1:37
真由美はいそいそとやや走り気味にマンションへと足を進めた。
ーコツ、コツ、コツ、コツ
マンションの手前で真由美は足を止めた。真由美のヒールの足音に混ざり、男物の重たい靴の足音が聞こえた。 真由美は疲れていると思い、マンションの3階までエレベーターで上がった。
部屋に着くと、真由美はパンパンになった重たい足を引きずるようにしてパンプスを脱いだ。そのまま浴室に直行する。
残業疲れと日々のストレスで重たくなった体は、最近悲鳴を上げている。
実家は群馬県館林市。毎年夏になると、気温は30℃を越える日が増えて、熱中症患者が毎日出る。
東京も例外ではなかった。いくら体力に自信がある真由美でも、毎日暑いと体が怠くなって集中力が落ちる。
(さっき聞こえた足音。あれはなんだったのかな)
真由美はマンションの手前で聞こえた足音を思い出した。
頭を左右に振ると、真由美は足音のことを忘れた。
しばらくうとうとしながら本を読んでいると、
ーコツ、コツ、コツ、コツ
また足音が聞こえた。
真由美は怖くなって 警察を呼ぶ準備をした。
足音は真由美の部屋の前で止まった。
ーピンポン
無機質なインターホンの音がすると、真由美はドアスコープを覗いた。
「…!!」
真由美は思わずドアから身を離した。ドアの向こうにいたのは、画面を被り、頭に帽子を乗せた人間だった。
2013/7/31、a.m.8:30
東京都渋谷区、マンション『ラ・デュイリエール』
「おいおい。なんだ?このホトケさんは?」
五十嵐拓実が死体を見て言った。死体は両方の眼球のない、喉元を真横に切られた若い女の死体だった。不思議なことに、両手首を縛られている。
「おい、このホトケの名前と年齢は?」
「はい、野崎真由美、年齢は24才で近くの『綾部証券会社』でOLをやっています」
近所は閑静な住宅地。大きな事件が起きない限り、人通りが多くなることはない。五十嵐は、パトカーのサイレンがやけにうるさく思えた。
「警部、近所で何か見てないか聞いて来ます」
若い刑事が顔を青くしながら廊下に出た。無理もない。こんなに酷い死体は五十嵐も初めて見た。今まで酷い死体は何体も見た五十嵐だったが、この死体は話が違った。両目はなく、のどを切られている。
鑑識科の話によれば、死因は喉を切られたことによる出血死だという。壁一面が真っ赤なペンキをぶちまけたように赤く染まっている。
(改めて見ると、とんでもない死体だな…)
五十嵐は、思わず口元を押さえた。両目のない顔が、五十嵐をじっと見つめている。寒気がした五十嵐は、一人の女性捜査官に声をかけた。
「何か変わったものは見つかったか?」
声をかけられた女性捜査官は、驚いたように振り向いた。
「このようなカードを見つけたんですけど」
そう言って、五十嵐にメッセージカードを手渡した。カードには赤い文字で、
『アリスはどこにいる?』
と書かれていた。その横には、シルクハットと蝶ネクタイが描かれている。五十嵐は不思議に思ってカードをじっと見つめた。
「あ、君」
「咲野です、咲野アリス」
咲野アリスはイギリス人の父親を持つハーフで、鼻はスッと高く、人形のような整った顔立ちをしている。
「咲野か。で、このメッセージカードをどう見る?」
アリスはカードを見ながら思案すると、何かを思い付いたように五十嵐の顔を見た。
「『不思議の国のアリス』ですよ、警部!この帽子と蝶ネクタイは、お茶会に登場する『マッド・ハッター』つまり、帽子屋を表しているんです」
アリスは、よほど童話が好きなのか、顔を綻ばせて言った。しかし、ここは殺人現場。男も女も関係無いこの場所で、何故、彼女は平気でいられるのだろう?五十嵐はそれが不思議でならなかった。