前世は過労死、今世は公爵家の便利嫁。聖女が来たので、もう辞めます
◇ 第一幕 ◇
私の結婚は、美談として語り継がれている。
貧しい男爵家の娘が、公爵家の嫡男に見初められ、身分差を超えた愛で結ばれた。夜会のたびに「素敵なお話ですわね」と声をかけられ、社交新聞には「今年最も心温まる婚姻」と書かれた。
全部、嘘だ。
正確に言えば、嘘をついたのは私の方。彼は何も知らない。
前世の記憶がある。日本で生まれ、大学を出て、IT企業に就職し、月の残業が百八十時間を超えた頃に意識を失った。目が覚めたら異世界の赤子だった。
男爵家の三女。実家に金はなく、母はいつも疲れた顔をしていた。前世で散々見た光景だ。資金繰りに追われる中小企業の経理部と、借金を回すだけの貴族家に大した違いはない。
だから私は考えた。前世と同じ轍は踏まない。今度こそ、安全な場所を確保する。
社交シーズンが始まる前に、公爵家の嫡男が歴史書の愛好家だと調べ上げた。偶然を装って王都の古書店で出会い、彼が探していた稀覯本の所在を教えた。もちろん事前に三ヶ月かけて調べてあった情報だ。
彼は目を輝かせて言った。
「君は、すごいな」
違う。私はすごくなんかない。ただ前世で培った調査スキルと、死に物狂いの生存戦略があるだけ。
三度の「偶然」を重ね、彼の方から「また会いたい」と言わせた。
彼は本気で恋をしていた。
私は本気で生き残ろうとしていた。
それを「美談」と呼ぶなら、まあ、そう呼べばいい。
結婚して四年が経った。
公爵家の帳簿を立て直し、領地の交易路を一本増やし、使用人の給与体系を見直した。前世の経理経験とプロジェクト管理の知識が、異世界でも同じように役に立つのだから笑えない。
夫のレオンハルトは優しい人だ。それは本当だ。
ただ、優しいだけの人でもあった。
決断がいる場面では必ず私を見る。判断を委ね、結果だけを享受する。
それでいいと思っていた。私は安全な場所が欲しかった。彼は有能な妻が欲しかった。需要と供給の一致。それが私たちの結婚の正体だ。
だから――聖女が現れた時も、私は動揺しなかった。
動揺しなかったのだ。本当に。
◇ 第二幕 ◇
聖女イリアナは、春の祝祭の日に王都に現れた。
光を操る奇跡を見せ、病人を癒し、枯れた庭に花を咲かせた。民衆は歓喜し、王宮は彼女を正式に聖女として認定した。
私は最初から違和感を覚えていた。
前世で学んだことがある。プレゼン資料が美しすぎる案件は、大抵中身がない。聖女の奇跡は、あまりにも「見栄えが良すぎる」のだ。
病人を癒したと言うが、その病人がどこから連れてこられたのか、誰も確認していない。
枯れた庭に花を咲かせたと言うが、前日にその庭の世話をしていた庭師は配置替えになっていた。
でも、私は何も言わなかった。
前世でも同じだった。上司の企画に穴があると気づいても、指摘したところで「余計なことを言うな」と言われるだけ。組織の中で生きていくなら、正しさよりも立ち位置が大事だ。
イリアナはやがて公爵家にも出入りするようになった。
レオンハルトは彼女に魅了されていった。
「エレーヌ、聖女さまのお話は本当に素晴らしいんだ。世界の成り立ちについて、学者でも知らないような知識をお持ちで――」
夕食の席で、夫は目を輝かせてイリアナの話をした。かつて古書店で稀覯本について語った時と同じ目で。
「そうですか」
私はスープの温度を確かめながら答えた。
「今度、うちの領地にもお招きしようと思うんだが」
「どうぞ」
「……怒っていないのか?」
「何に怒るのですか?」
レオンハルトは少し傷ついた顔をした。
分かっている。彼は私に嫉妬してほしいのだ。嫉妬は愛情の証だと、この世界の人間は信じている。
でも、嫉妬するほどの感情は私にはない。
私が守りたかったのは「安全な場所」であって、「愛」ではない。
それは最初から変わっていない。
イリアナが公爵家に来た日、私は彼女と二人きりで茶を飲む機会があった。
「公爵夫人さまは、とても聡明でいらっしゃいますのね」
彼女は微笑んだ。完璧な微笑みだった。前世の取引先の営業部長を思い出す笑顔。
「お褒めいただき光栄です」
「お苦しくはありませんか? こんな――大きなお家の中で、たった一人で全てを抱えて」
私の心臓が、一拍だけ跳ねた。
この女は、分かっている。
私が「便利な妻」として機能していることを。
そして、その座から引きずり降ろすつもりでいることを。
「お気遣いありがとうございます。でも、苦しいなどとは」
「無理をなさらないで。私が力になれることがあれば」
この言葉の裏にあるのは、善意ではない。
前世で何度も見た。「困ってるなら手伝うよ」と言いながら、気づけば仕事を丸ごと奪っていく同僚。そういうタイプの笑顔だ。
でも、だから何だと言うのだろう。
私はこの場所に「愛」で立っているわけではない。計算で立っている。計算の前提が変われば、答えも変わる。それだけのことだ。
◇ 第三幕 ◇
季節が一つ変わる頃には、公爵家の空気は完全に変わっていた。
イリアナは、義母の話し相手となり、使用人たちの相談役となり、領民の前で祈りを捧げる存在になっていた。
私の仕事が、一つずつ、剥がされていく。
帳簿の管理は「聖女さまがもっと効率よくしてくださる」と言われた。
交易の交渉は「聖女さまの祝福があれば相手も好条件を出す」と言われた。
使用人の教育は「聖女さまの方が皆に慕われている」と言われた。
どれも薄い根拠。でもレオンハルトは頷いた。義父母も頷いた。
誰もが「聖女」という肩書の輝きに目を細めていた。
前世でも同じだった。
新しい外注先を社長がゴルフ場で見つけてきて、「こっちの方が安い」と言い出す。確かに見積もりは安い。でも品質管理の体制がない。納期の保証もない。そう指摘しても「お前は心配性だ」で終わる。
結局、半年後に大事故が起きて私が尻を拭いた。
今回もそうなるだろう。分かっている。
でも、もう尻を拭く気はない。
ある夜、レオンハルトが居室に来た。
「エレーヌ、聖女さまが――」
「離縁の話ですか?」
「……えっ」
「驚くことではないでしょう。あなたの態度を見ていれば、子供でも分かります」
彼は口を開け、それから閉じた。言葉を探すように視線が泳ぐ。
「違うんだ。離縁ではない。ただ、聖女さまを正式に家に迎え入れたいと思って――」
「側室ということですか」
「いや、その……相談役、のような形で」
私は窓の外を見た。月が綺麗だった。前世では月を見る余裕もなかったことを思い出す。
「レオンハルト」
「はい」
「あなたは、優しい人です。本当に」
「……ありがとう」
「優しいから、自分が何をしようとしているのか分かっていない」
彼の顔から血の気が引いた。
「あなたは今、四年間この家を回してきた人間を、三ヶ月前に来た人間と置き換えようとしています。引き継ぎもなく、検証もなく、ただ『聖女だから』という理由で」
「それは――エレーヌ、君の仕事を否定しているわけでは」
「否定していなくても、結果は同じです」
私は静かに椅子から立ち上がった。
「明後日までに引き継ぎ書類をまとめます。帳簿の要点、交易先の連絡体系、使用人の勤務体系。全て書面にしますので、聖女さまにお渡しください」
「待ってくれ。そういう話ではない」
「では、どういう話ですか?」
レオンハルトは答えられなかった。答えられるはずがない。彼自身、何がしたいのか分かっていないのだから。優しさだけで人間関係を回そうとする人は、いつもこうだ。
◇ 第四幕 ◇
引き継ぎ書類を書き終えた翌日、王宮から使者が来た。
聖女イリアナに関する緊急調査が開始されたという。
理由は、大神殿から「本物の聖女」が名乗り出たから。
大神殿聖女マルグリット。地方の修道院で静かに奉仕活動を続けていた女性が、偽聖女の噂を聞きつけて王都に上がってきたのだという。
「イリアナさまの奇跡は、聖術ではなく幻術です」
マルグリットは王宮の大広間で、穏やかに、しかし揺るぎなく証言した。
「光で病を癒したように見せかけていますが、実際には一時的な鎮痛効果しかありません。枯れた庭の花は、前日に植え替えられた苗に光を当てて開花を早めただけです。どちらも聖術の基本を知る者なら、すぐに見抜ける手法です」
宮殿は騒然となった。
そして、公爵家にも調査の手が入った。
レオンハルトは青ざめた顔で私のもとに来た。
「エレーヌ、帳簿が――聖女さまに任せた部分の帳簿が、合わないんだ」
「そうでしょうね」
「君は知っていたのか?」
「知っていたかと聞かれれば、予想はしていました」
「なぜ言ってくれなかった!」
その言葉に、私は一瞬だけ目を閉じた。
前世でも、同じ言葉を聞いた。
「品質問題が予想できたなら、なぜ報告しなかった」
報告しました。あなたが聞かなかっただけです。
でも、もうそのセリフを繰り返す気力は、前世で使い果たしていた。
「レオンハルト、引き継ぎ書類は書斎の三段目の引き出しに入っています。帳簿の引き継ぎ事項も全て記載してあります。あの書類通りに復旧すれば、被害は最小限で済むはずです」
「エレーヌ?」
「さようなら」
「……待ってくれ。君、何を」
「離縁届は、先ほど義父上に提出しました。すでにご承認もいただいています」
レオンハルトの目が見開かれた。
「義父上は聡明な方です。調査が入ると聞いた時点で、事態の深刻さを理解されていました。そして、帳簿の不整合が公爵家の責任として追及される前に、管理者だった私が退くことが最善の手だと」
「父がそんなことを……」
「私が提案しました」
嘘。義父の方から「エレーヌ、君に責任を被せたい」と言われた。
でも構わない。
これが私の最後の仕事だ。
駒には駒の降り方がある。
叩きつけるように盤面から落ちるのではなく、静かに、整然と、自分の意思で盤の外に歩いていく。
「公爵家の名誉は守られます。帳簿の不整合は、私の管理不行き届きということで処理されます。聖女さまの関与は記録に残りません」
「エレーヌ、そんなことを頼んだわけじゃ――」
「頼まれなくても分かります。四年も一緒にいたのだから」
私は微笑んだ。
計算に基づいた、最後の微笑み。
「あなたは優しい人です。だから、事後処理に向いていない。私がやっておきました」
レオンハルトの目に涙が浮かんだ。
それを見て、私の胸の奥が少しだけ痛んだ。
少しだけ。本当に少しだけ。
「それから」
私は振り返り、一つだけ付け加えた。
「美談にしないでくださいね。今度こそ」
◇ 第五幕 ◇
公爵家を出て三ヶ月が経った。
王都の外れに小さな事務所を借りた。前世の知識と四年間の経験を活かして、貴族家の帳簿監査を請け負う仕事を始めた。いわゆるコンサル業だ。
依頼は途切れない。むしろ、公爵家を「辞めた」という事実が信用になった。あの混乱の中で唯一、引き継ぎ書類を完璧に残した人間がいる。そういう噂は、商人の間では何より重い。
偽聖女イリアナは国外追放になった。本物の聖女マルグリットは、「騒がせてすみません」とだけ言って修道院に帰っていった。あの人は次の聖女候補を育てる教育修道女になるらしい。地味な仕事を地味にこなす人だ。少し親近感がある。
公爵家は――大変なことになっているらしい。
帳簿の復旧に四ヶ月。交易先の再交渉に半年。使用人の退職が相次ぎ、領地の行政は滞っている。
引き継ぎ書類は残した。全部書いた。でも、書類を読んで実行できる人がいなければ意味がない。
前世でもそうだった。
退職前に完璧な引き継ぎマニュアルを作った。三百ページ以上ある。
後任が半月で辞めた。
レオンハルトから手紙が来た。月に一通。丁寧な筆跡で、「戻ってきてほしい」と書いてあった。
私は返事を書かなかった。
計算ずくで始めた関係を、感情で終わらせるのは美しくない。
ある日、事務所の前に花が置いてあった。名前はない。でも、レオンハルトが好きだと言っていた白い百合だった。
私はそれを花瓶に挿し、窓辺に置いた。
綺麗だと思った。
前世では花を飾る余裕すらなかったことを思い出す。
百八十時間の残業も、異世界の帳簿管理も、もう私の仕事じゃない。
窓の外で、夕陽が王都の尖塔を染めている。
長い影が石畳を渡り、事務所の壁を温かく照らしていた。
駒は盤から降りた。
でも、消えたわけじゃない。
ようやく、自分の足で立っている。
前世でも今世でも、初めてのことだった。
「さて」
私は新しい依頼書に目を落とした。
今度の仕事は、自分のためだけに。
(了)
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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