一途に、不器用に――政略の妻、魔女と呼ばれた妃と
「妾など何人いてもいい、と笑う者が大半の世。
けれど――政略の妻、ただ一人を選んだ男がいた。
23歳の若さで領主となったグユウは、貧しい小領を治めている。
再婚相手として嫁いできたのは、
強領ミンスタの姫――“魔女”とも呼ばれた、気性の激しい女だった。
◇
結婚して二ヶ月。
政略で嫁いできた妻シリと過ごす日々は、まだ新しく、
オレにとって楽しく、夢のようなものだった。
その妻と、初めて一週間も離れることになった。
義兄ゼンシとの会談のため、領境まで出向かねばならない。
「七日ほどで戻る」
そう告げると、シリは一瞬だけ目を見開いた。
驚いたような、その青い瞳。
けれど、すぐに微笑み、「・・・そうですか」と答えた。
淡い笑みの裏に、不安の影がかすかに揺れた気がする。
ーーなぜだろう。
理由はわからない。
胸の奥に小さなざわめきが広がる。
オレと離れて過ごすのに、寂しさを感じているからだろうか。
そんな考えが一瞬浮かぶ。
ーーいや、まさか。
こんな美しい妻が、オレと離れることを寂しがっているなんて。
調子に乗るな。
「・・・話し合いだけだ」
思いついた言葉を口にしたが、彼女の表情は曇ったままだった。
不安を拭える言葉は他に見つからず、出発の時間が迫る。
結局、「行ってくる」とだけ告げて城を出た。
城門を出て振り返ると、まだシリがそこに立っていた。
風に金の髪を揺らしながら、じっとこちらを見つめている。
その瞳の奥に、何があるのか。
オレには、まだ掴めなかった。
◇
宿場町に到着すると、ざわめきが耳に飛び込んでくる。
行き交う人々の声、荷馬車の車輪の軋み、店先の呼び込み。
――静かなレーク城とはまるで別世界だ。
ジムが馬を並べて教えてくれる。
「この宿場町は、モザ家の定宿でもあります」
「そうか」
オレは短く返した。
ーーシリをここへ連れてきたら、どう感じるだろう。
ふと、そんな考えがよぎる。
すぐに頭を振った。
いまは会談だ。
◇
「義兄上、お待たせしました」
宿に着くと、義兄ゼンシはすでに席に着いていた。
オレは深く頭を下げる。
「グユウ、元気にしていたか」
「はい。義兄上もお変わりなく」
義兄上はオレの顔をじっと見たあと、ふっと笑った。
「良い顔をしている。・・・シリとは仲良くやっているか」
「・・・慣れました」
その言葉を聞いて、義兄上の口元がさらに緩む。
「なるほど、あれは気が強いからな」
和やかな空気のまま会談は進んだ。
領境の整備や物資の流れについて話し合い、細かな調整も滞りなく終える。
◇
夜、書き物をしていると、扉を叩く音がした。
ジムが応対に出ると、若い侍女が酒瓶を抱えて立っていた。
「ゼンシ様からのお心遣いです」
柔らかな微笑みと共に、深々と頭を下げる。
名をジェーンと名乗った。
大きな鳶色の瞳が潤み、ふっくらとした唇が笑みを形づくっている。
ーー接待に侍女を差し出す。
それは、領主同士の場ではよくある“もてなし”。
義兄上なりの配慮なのだろう。
「・・・オレは酒を飲まない」
短く答えると、彼女の笑みがわずかに揺らぐ。
それでも諦めきれない様子で、ジェーンは机に近づいた。
「お酒がだめなら・・・お菓子を。あるいは――」
潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。
だが、胸の奥はまるで石のように動かない。
浮かんだのはシリの顔だけだった。
「・・・明日は鍛錬がある。休むつもりだ」
淡々と告げ、ジムに彼女を送らせる手配をした。
去り際、かすれた声が耳に残った。
「理由を・・・教えてください。ゼンシ様に報告しなければなりません」
少しの沈黙ののち、オレは正直に言った。
「・・・すまない。シリに嘘をつきたくない」
それだけだった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
オレは息を吐き、額に手を当てた。
――義兄上の厚意を無下にしたかもしれない。
だが、受け入れることはできなかった。
ーーシリに、嘘はつけない。
ただそれだけが、胸の奥で重く揺れていた。
◇
翌日、会談を終えて、義兄ゼンシはテーブルにカップを置いた。
「・・・そういえば、ジェーンを抱かずに帰らせたそうだな」
低く笑みを浮かべる。
「お気遣いは、誠に感謝しております」
オレは頭を下げた。
「妾など、何人いても構わぬのに。真面目な義弟よ」
その声音は冗談めいていたが、オレは何も返さなかった。
――妾など、欲しくない。
欲しいのは、シリただ一人。
「シリは気が強くて異端・・・グユウは生真面目すぎて異端だ」
ゼンシは肩をすくめ、カップの紅茶を飲み干した。
◇
出立まで少し時間が空いた。
宿場町の店先で、小さな飾り櫛に目がとまった。
淡い桃色の石が、シリの笑顔を思わせる。
気づけば手に取っていた。
「・・・似合うかもしれない」
思わず声に出してしまう。
ジムが横目でこちらを見た。
「シリ様へのお土産に?」
オレは無表情を装いながらも、顔が熱くなるのを感じた。
「・・・あぁ」
小さな包みを懐にしまい込み、歩き出す。
胸の奥にかすかな高鳴りがあった。
――早くシリに渡したい。
ただそれだけだった。
城へ戻る道中は、シリに逢いたい気持ちは募るばかりだった。
思わず馬に鞭を打つ。
「グユウ様!」
ジムが慌てて声を上げる。
「そんなに飛ばされたら・・・皆が追いつけません!」
振り返ると、後方で家臣たちが必死に馬を駆っていた。
「・・・そうか」
我に返り、手綱を引く。
馬は並足に戻り、風の音が穏やかに変わった。
胸の奥の焦燥は、まだ鎮まらない。
だが、それを表に出すわけにはいかない。
◇
城門に到着した途端、甲高い声が響いた。
「シリ様! お待ちください!」
乳母エマの金切り声だ。
怪訝そうに顔を見合わせる家臣たちの視線の先で、扉が勢いよく開いた。
ドレスの裾をたくし上げ、シリが駆け出してきた。
「足が・・・丸見えだ」
隣のオーエンが呆れたように低くつぶやく。
この時代、貴婦人が走ることなどあり得ない。
ましてや、裾を持ち上げて露わになった足は、裸と同じ意味を持つ。
金の髪が陽を受けて揺れ、真っ直ぐにこちらへ駆け寄ってくる。
息を呑んだ。
――あり得ない。
だが、目を離せなかった。
「おかえりなさい!」
息を切らし、笑顔でそう告げるシリ。
衝撃的すぎて、言葉が出ない。
「あぁ」
ようやく搾り出した声は、それだけだった。
オレの顔は、にやけていたらしい。
「・・・お気持ちが・・・隠しきれない」
サムがぼそりと呟く。
「お二人とも、どれほど寂しかったのでしょうね」
ジムは柔らかく微笑む。
その横で、オーエンだけが小さく鼻を鳴らした。
「・・・妃が人前であんな無様な姿を晒すとは」
低くつぶやいた声に、場の空気が一瞬張りつめる。
だがオレには、彼らの言葉など届かなかった。
――嬉しかったのだ。
たった一言「おかえりなさい」と息を切らしながら駆け寄ってきてくれる妻がいる。
その事実だけで、胸の奥に熱が広がっていく。
抑えようとしても、瞳の奥に浮かんだ柔らかさを隠すことはできなかった。
◇
夕刻、二人きりの散歩道。
シリは横を歩きながら、何かを言いたげに口を開きかけては閉じる。
その落ち着かない仕草に気づきながらも、
オレは言葉を探せず、ただじっと彼女の横顔を見つめた。
ーーどうやって、櫛を渡そうか。
ポケットにある櫛を服の上から確かめる。
無言の時間が重くのしかかる。
胸の奥にざわめきが広がり、いつもの癖で顔から表情が消えていく。
――彼女の生家は裕福だ。
良い櫛など、すでに山ほど持っているはず。
・・・それでも、渡すべきだろうか。
彼女が不思議そうに自分を見つめていた。
迷いを振り切るように、ポケットへ手を入れた。
「・・・これを」
小さな包みを、不器用に差し出す。
驚いたように目を見開くシリ。
「これは・・・私に、ですか?」
小さくうなずくと、彼女は恐る恐る布をほどいた。
次の瞬間、ぱっと花が咲くように顔が綻ぶ。
「キレイ・・・」
その表情に胸が熱くなる。
だが照れと不安が入り混じり、思わずまた無表情に戻ってしまう。
「・・・こういう色も、似合うと思った」
我ながらぎこちない言葉。
けれど、シリは微笑みながら真っ直ぐに答えてくれた。
「ありがとうございます、グユウさん」
その笑顔に救われる。
無表情の奥に隠していたざわめきが、静かにほどけていった。
◇
日が暮れ、夜になった。
二人きりで彼女の瞳を見たい。
声を聞きたい。
――そして、腕の中に抱きしめたい。
いそいそと寝室へ歩く自分の様子に、
家臣たちは苦笑いで目を向けていたが、どうでもよかった。
扉を開けると、シリがいた。
整えられた寝衣姿で、背筋をすっと伸ばして座っている。
その顔には、覚悟を決めたような強さが宿っていた。
一瞬、胸の奥がざわめいた。
ーーただ抱き寄せたいだけだったのに。
彼女はまるで、裁きを下すような瞳でこちらを見ていた。
「グユウさん」
一歩近づいて、オレを見つめる。
「・・・私以外の女性と、夜を共に過ごしましたか?」
震える声が、静かな寝室に落ちた。
「兄上は・・・きっと、あなたの部屋に女の人を送ったはずです」
青い瞳が揺れ、声は小さい。
胸の奥がひやりと冷えた。
ーーやはり気づいていたか。
シリの感覚は鋭い。
「・・・その方と、夜を過ごしたのですか?」
返す言葉を探す間に沈黙が流れる。
視線を逸らさずにいようとしたが、ほんのわずかに顔が揺れた。
「・・・その・・・部屋には来た」
それだけを絞り出す。
シリは視線を落とし、唇を噛んだ。
細い肩が、かすかに震えている。
「そうですか。きれいな人だったでしょうね」
――落胆している?
それとも・・・妬いているのか。
まさか。
けれど、彼女の横顔を見た瞬間、胸の奥に温かいものが広がった。
ーーオレを想ってくれている。
そう感じられて、嬉しかった。
「酒を勧められた」
努めて淡々と話す。
シリは黙って聞いていた。
以前、オレは彼女に『嘘はつかない』と伝えた。
だから、最後まで正直に話す。
「翌朝、鍛錬があると断って・・・帰らせた」
シリの青い瞳がぱっと見開かれた。
驚きと安堵が入り混じっている。
「・・・帰らせたのですか?」
「あぁ」
短くうなずく。
「どうして・・・」
言葉が詰まった。
ーーそれは、シリを好いているから。
だが、どう口にすればいいのかわからない。
結局、オレはただ彼女を見つめ返すことしかできなかった。
「グユウさん・・・」
呼ばれた名前が胸に沁みた。
――いつも与えてくれるのはシリの方だった。
口づけも、手を握るのも、優しい言葉も。
オレはそれに応じるばかり。
だが今は違う。
喉が締めつけられるほど、言葉がせり上がってくる。
この想いを、伝えなければ。
「シリ・・・」
掠れた声が出た。
それでも吐き出す。
「・・・逢いたかった。・・・その、抱いてもいいか」
唇が震え、息が乱れる。
それでも視線を逸らさず、まっすぐに見つめ続けた。
シリの瞳が潤み、頬が赤く染まる。
やがて小さく頷いた。
「グユウさん・・・寂しかったです」
両手が差し出される。
その温もりを掴んだ瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
――失いたくない。
だから、言葉にする。
「・・・シリより、美しい女性はいない」
ーーもっと、上手に自分の気持ちを話せたら。
だが、それが今の俺の精一杯だった。
シリは微笑んで、そっと胸に顔を寄せた。
無表情で通してきた顔が、今はこんなにも歪んでいる。
それを許し、受け止めてくれるのは――シリだけだ。
寝室に満ちる静けさの中で、初めて心が安らいだ。
◇
不器用に、一途に、政略の妻を、本当の妻として選んだ男。
それは、生涯変わらなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、
グユウ視点によるエピソード(第9作目)です。
短編だけでもお楽しみいただけますが、
本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。
本編はこちら
『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』
(Nコード:N2799Jo)
https://ncode.syosetu.com/n2799jo/
完結済み、政略結婚から始まる恋と戦と家族の物語です。
そして、この短編を気に入ってくださった方へ。
短編をまとめた連載版『<短編集>無口な領主と気丈な姫の婚姻録』も公開中です。
https://ncode.syosetu.com/N9978KZ/
※この短編も、1週間後に短編集に追加予定です。