表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

一途に、不器用に――政略の妻、魔女と呼ばれた妃と

作者: 雨日

「妾など何人いてもいい、と笑う者が大半の世。

けれど――政略の妻、ただ一人を選んだ男がいた。


23歳の若さで領主となったグユウは、貧しい小領を治めている。


再婚相手として嫁いできたのは、

強領ミンスタの姫――“魔女”とも呼ばれた、気性の激しい女だった。



結婚して二ヶ月。

政略で嫁いできた妻シリと過ごす日々は、まだ新しく、

オレにとって楽しく、夢のようなものだった。


その妻と、初めて一週間も離れることになった。


義兄ゼンシとの会談のため、領境まで出向かねばならない。


「七日ほどで戻る」

そう告げると、シリは一瞬だけ目を見開いた。


驚いたような、その青い瞳。


けれど、すぐに微笑み、「・・・そうですか」と答えた。


淡い笑みの裏に、不安の影がかすかに揺れた気がする。


ーーなぜだろう。


理由はわからない。


胸の奥に小さなざわめきが広がる。


オレと離れて過ごすのに、寂しさを感じているからだろうか。


そんな考えが一瞬浮かぶ。


ーーいや、まさか。


こんな美しい妻が、オレと離れることを寂しがっているなんて。


調子に乗るな。


「・・・話し合いだけだ」

思いついた言葉を口にしたが、彼女の表情は曇ったままだった。


不安を拭える言葉は他に見つからず、出発の時間が迫る。


結局、「行ってくる」とだけ告げて城を出た。


城門を出て振り返ると、まだシリがそこに立っていた。


風に金の髪を揺らしながら、じっとこちらを見つめている。


その瞳の奥に、何があるのか。


オレには、まだ掴めなかった。



宿場町に到着すると、ざわめきが耳に飛び込んでくる。


行き交う人々の声、荷馬車の車輪の軋み、店先の呼び込み。


――静かなレーク城とはまるで別世界だ。


ジムが馬を並べて教えてくれる。


「この宿場町は、モザ家の定宿でもあります」

「そうか」

オレは短く返した。


ーーシリをここへ連れてきたら、どう感じるだろう。


ふと、そんな考えがよぎる。


すぐに頭を振った。


いまは会談だ。



「義兄上、お待たせしました」

宿に着くと、義兄ゼンシはすでに席に着いていた。


オレは深く頭を下げる。


「グユウ、元気にしていたか」

「はい。義兄上もお変わりなく」


義兄上はオレの顔をじっと見たあと、ふっと笑った。


「良い顔をしている。・・・シリとは仲良くやっているか」

「・・・慣れました」


その言葉を聞いて、義兄上の口元がさらに緩む。


「なるほど、あれは気が強いからな」


和やかな空気のまま会談は進んだ。


領境の整備や物資の流れについて話し合い、細かな調整も滞りなく終える。



夜、書き物をしていると、扉を叩く音がした。


ジムが応対に出ると、若い侍女が酒瓶を抱えて立っていた。


「ゼンシ様からのお心遣いです」

柔らかな微笑みと共に、深々と頭を下げる。


名をジェーンと名乗った。


大きな鳶色の瞳が潤み、ふっくらとした唇が笑みを形づくっている。


ーー接待に侍女を差し出す。


それは、領主同士の場ではよくある“もてなし”。


義兄上なりの配慮なのだろう。


「・・・オレは酒を飲まない」

短く答えると、彼女の笑みがわずかに揺らぐ。


それでも諦めきれない様子で、ジェーンは机に近づいた。


「お酒がだめなら・・・お菓子を。あるいは――」

潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。


だが、胸の奥はまるで石のように動かない。


浮かんだのはシリの顔だけだった。


「・・・明日は鍛錬がある。休むつもりだ」

淡々と告げ、ジムに彼女を送らせる手配をした。


去り際、かすれた声が耳に残った。


「理由を・・・教えてください。ゼンシ様に報告しなければなりません」


少しの沈黙ののち、オレは正直に言った。


「・・・すまない。シリに嘘をつきたくない」


それだけだった。


扉が閉まり、静寂が戻る。


オレは息を吐き、額に手を当てた。


――義兄上の厚意を無下にしたかもしれない。


だが、受け入れることはできなかった。


ーーシリに、嘘はつけない。


ただそれだけが、胸の奥で重く揺れていた。



翌日、会談を終えて、義兄ゼンシはテーブルにカップを置いた。


「・・・そういえば、ジェーンを抱かずに帰らせたそうだな」

低く笑みを浮かべる。


「お気遣いは、誠に感謝しております」

オレは頭を下げた。


「妾など、何人いても構わぬのに。真面目な義弟よ」


その声音は冗談めいていたが、オレは何も返さなかった。


――妾など、欲しくない。


欲しいのは、シリただ一人。


「シリは気が強くて異端・・・グユウは生真面目すぎて異端だ」


ゼンシは肩をすくめ、カップの紅茶を飲み干した。



出立まで少し時間が空いた。


宿場町の店先で、小さな飾り櫛に目がとまった。


淡い桃色の石が、シリの笑顔を思わせる。


気づけば手に取っていた。


「・・・似合うかもしれない」

思わず声に出してしまう。


ジムが横目でこちらを見た。


「シリ様へのお土産に?」


オレは無表情を装いながらも、顔が熱くなるのを感じた。


「・・・あぁ」


小さな包みを懐にしまい込み、歩き出す。


胸の奥にかすかな高鳴りがあった。


――早くシリに渡したい。


ただそれだけだった。


城へ戻る道中は、シリに逢いたい気持ちは募るばかりだった。


思わず馬に鞭を打つ。


「グユウ様!」

ジムが慌てて声を上げる。


「そんなに飛ばされたら・・・皆が追いつけません!」


振り返ると、後方で家臣たちが必死に馬を駆っていた。


「・・・そうか」

我に返り、手綱を引く。


馬は並足に戻り、風の音が穏やかに変わった。


胸の奥の焦燥は、まだ鎮まらない。


だが、それを表に出すわけにはいかない。



城門に到着した途端、甲高い声が響いた。


「シリ様! お待ちください!」

乳母エマの金切り声だ。


怪訝そうに顔を見合わせる家臣たちの視線の先で、扉が勢いよく開いた。


ドレスの裾をたくし上げ、シリが駆け出してきた。


「足が・・・丸見えだ」

隣のオーエンが呆れたように低くつぶやく。


この時代、貴婦人が走ることなどあり得ない。


ましてや、裾を持ち上げて露わになった足は、裸と同じ意味を持つ。


金の髪が陽を受けて揺れ、真っ直ぐにこちらへ駆け寄ってくる。


息を呑んだ。


――あり得ない。


だが、目を離せなかった。


「おかえりなさい!」


息を切らし、笑顔でそう告げるシリ。


衝撃的すぎて、言葉が出ない。


「あぁ」

ようやく搾り出した声は、それだけだった。


オレの顔は、にやけていたらしい。


「・・・お気持ちが・・・隠しきれない」

サムがぼそりと呟く。


「お二人とも、どれほど寂しかったのでしょうね」

ジムは柔らかく微笑む。


その横で、オーエンだけが小さく鼻を鳴らした。


「・・・妃が人前であんな無様な姿を晒すとは」


低くつぶやいた声に、場の空気が一瞬張りつめる。


だがオレには、彼らの言葉など届かなかった。


――嬉しかったのだ。


たった一言「おかえりなさい」と息を切らしながら駆け寄ってきてくれる妻がいる。


その事実だけで、胸の奥に熱が広がっていく。


抑えようとしても、瞳の奥に浮かんだ柔らかさを隠すことはできなかった。



夕刻、二人きりの散歩道。


シリは横を歩きながら、何かを言いたげに口を開きかけては閉じる。


その落ち着かない仕草に気づきながらも、

オレは言葉を探せず、ただじっと彼女の横顔を見つめた。


ーーどうやって、櫛を渡そうか。


ポケットにある櫛を服の上から確かめる。


無言の時間が重くのしかかる。


胸の奥にざわめきが広がり、いつもの癖で顔から表情が消えていく。


――彼女の生家は裕福だ。


良い櫛など、すでに山ほど持っているはず。


・・・それでも、渡すべきだろうか。


彼女が不思議そうに自分を見つめていた。


迷いを振り切るように、ポケットへ手を入れた。


「・・・これを」

小さな包みを、不器用に差し出す。


驚いたように目を見開くシリ。


「これは・・・私に、ですか?」


小さくうなずくと、彼女は恐る恐る布をほどいた。


次の瞬間、ぱっと花が咲くように顔が綻ぶ。


「キレイ・・・」


その表情に胸が熱くなる。


だが照れと不安が入り混じり、思わずまた無表情に戻ってしまう。


「・・・こういう色も、似合うと思った」


我ながらぎこちない言葉。


けれど、シリは微笑みながら真っ直ぐに答えてくれた。


「ありがとうございます、グユウさん」


その笑顔に救われる。


無表情の奥に隠していたざわめきが、静かにほどけていった。


日が暮れ、夜になった。


二人きりで彼女の瞳を見たい。


声を聞きたい。


――そして、腕の中に抱きしめたい。


いそいそと寝室へ歩く自分の様子に、

家臣たちは苦笑いで目を向けていたが、どうでもよかった。


扉を開けると、シリがいた。


整えられた寝衣姿で、背筋をすっと伸ばして座っている。


その顔には、覚悟を決めたような強さが宿っていた。


一瞬、胸の奥がざわめいた。


ーーただ抱き寄せたいだけだったのに。


彼女はまるで、裁きを下すような瞳でこちらを見ていた。


「グユウさん」

一歩近づいて、オレを見つめる。


「・・・私以外の女性と、夜を共に過ごしましたか?」


震える声が、静かな寝室に落ちた。


「兄上は・・・きっと、あなたの部屋に女の人を送ったはずです」


青い瞳が揺れ、声は小さい。


胸の奥がひやりと冷えた。


ーーやはり気づいていたか。


シリの感覚は鋭い。


「・・・その方と、夜を過ごしたのですか?」


返す言葉を探す間に沈黙が流れる。


視線を逸らさずにいようとしたが、ほんのわずかに顔が揺れた。


「・・・その・・・部屋には来た」

それだけを絞り出す。


シリは視線を落とし、唇を噛んだ。


細い肩が、かすかに震えている。


「そうですか。きれいな人だったでしょうね」


――落胆している? 


それとも・・・妬いているのか。


まさか。


けれど、彼女の横顔を見た瞬間、胸の奥に温かいものが広がった。


ーーオレを想ってくれている。


そう感じられて、嬉しかった。


「酒を勧められた」

努めて淡々と話す。


シリは黙って聞いていた。


以前、オレは彼女に『嘘はつかない』と伝えた。


だから、最後まで正直に話す。


「翌朝、鍛錬があると断って・・・帰らせた」


シリの青い瞳がぱっと見開かれた。


驚きと安堵が入り混じっている。


「・・・帰らせたのですか?」


「あぁ」

短くうなずく。


「どうして・・・」


言葉が詰まった。


ーーそれは、シリを好いているから。


だが、どう口にすればいいのかわからない。


結局、オレはただ彼女を見つめ返すことしかできなかった。


「グユウさん・・・」


呼ばれた名前が胸に沁みた。


――いつも与えてくれるのはシリの方だった。


口づけも、手を握るのも、優しい言葉も。


オレはそれに応じるばかり。


だが今は違う。


喉が締めつけられるほど、言葉がせり上がってくる。


この想いを、伝えなければ。


「シリ・・・」

掠れた声が出た。


それでも吐き出す。


「・・・逢いたかった。・・・その、抱いてもいいか」

唇が震え、息が乱れる。


それでも視線を逸らさず、まっすぐに見つめ続けた。


シリの瞳が潤み、頬が赤く染まる。


やがて小さく頷いた。


「グユウさん・・・寂しかったです」

両手が差し出される。


その温もりを掴んだ瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


――失いたくない。


だから、言葉にする。


「・・・シリより、美しい女性はいない」


ーーもっと、上手に自分の気持ちを話せたら。


だが、それが今の俺の精一杯だった。


シリは微笑んで、そっと胸に顔を寄せた。


無表情で通してきた顔が、今はこんなにも歪んでいる。


それを許し、受け止めてくれるのは――シリだけだ。


寝室に満ちる静けさの中で、初めて心が安らいだ。



不器用に、一途に、政略の妻を、本当の妻として選んだ男。


それは、生涯変わらなかった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


この短編は『秘密を抱えた政略結婚』本編のスピンオフで、

グユウ視点によるエピソード(第9作目)です。


短編だけでもお楽しみいただけますが、

本編を読むと二人のすれ違いや政略の背景がより深く伝わります。


本編はこちら

『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』

(Nコード:N2799Jo)

https://ncode.syosetu.com/n2799jo/


完結済み、政略結婚から始まる恋と戦と家族の物語です。


そして、この短編を気に入ってくださった方へ。


短編をまとめた連載版『<短編集>無口な領主と気丈な姫の婚姻録』も公開中です。

https://ncode.syosetu.com/N9978KZ/


※この短編も、1週間後に短編集に追加予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ