夢の殺人
「なぜ、自分の恋人を殺したんだ?」
取調室。無機質な蛍光灯が天井からかすかな熱を放ち、薄汚れた壁や机を鈍く照らしている。刑事は机の上で手を組み、じっと男を射抜くように睨みつけた。
男は無表情のまま、伏し目がちに机の下――自分の指先をじっと見つめている。
重苦しい沈黙が室内に張りつめ、じわじわと湿度を上げていくようであった。刑事が小さく息を吐き、背もたれに体を預けると、パイプ椅子がギシリと音を立てた。そのとき、男が静かに口を開いた。
「ここは……夢の世界なんですよ」
その言葉に、刑事は大きなため息を吐いた。そして、皮肉な笑みを浮かべた。
「夢の世界、ね。ずいぶんメルヘンチックなことを言うじゃないか。ただの人殺しが」
「……違いますよ」
「なに? なにが違うって言うんだ。いいか、お前は彼女と飲食店で談笑中、突然立ち上がって厨房へ行った。そして包丁を手にして戻ると、背後から彼女の首をめった刺しにした! 目撃者も大勢いるんだぞ!」
刑事が机を叩く。鈍い音が室内に響いた。男はふっと小さく息をつき、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「違うと言ったのは、そのことじゃありません。『夢の世界』に対してです」
「どういう意味だ?」
「ここは、夢の中なんですよ」
刑事の眉間に深い皺が刻まれた。片目を見開き、男の言葉の意味を測りかねていた。その戸惑いを見透かしたように、男はゆっくりと言葉を続ける。
「眠って見る、あの夢のことですよ」
「……そうか。つまり、自分の夢の中だから、何をやっても、たとえ人を殺しても許される。そう言いたいんだな」
「違いますよ」
「なんなんだ、いったい……」
「ここは僕の夢じゃない。彼女の夢なんです」
刑事はお手上げというように額に手を当て、鼻から大きく息を吐いた。
「……さっぱりわからん。じゃあ訊くが、もしここが彼女の夢の中だとして、なぜ殺したんだ?」
「彼女が気づいたからです。この世界が夢だってことに」
「よーしよし、付き合ってやるぞ。それで? 夢だと気づかれると何か不都合でもあるのか?」
「ええ。目を覚ましてしまいます。刑事さんも経験があるでしょう? 夢だと気づいて、好き放題してやろうと思った瞬間、パッと目が覚めてしまう。そんなことが」
「ああ、女房の横っ面をはたこうとした瞬間、目が覚めたことがあるよ。現実の女房に叩き起こされてな」
刑事は大きくため息をついた。
「もし彼女が目を覚ませば、この世界そのものが崩壊してしまうんです。だから、僕はそれを防ごうとした」
「なるほど、なるほど。で? 殺せば世界の崩壊とやらを防げると? むしろ、そんなショックを与えたら、一発で目を覚ましそうなもんだがな」
「そこは賭けでした……というより、他に手段が思いつかなかった。僕も必死だったんです」
「ふーん……じゃあ、基本的なことを訊こうじゃないか。この世界が彼女の夢だってんなら、彼女はどれくらい眠ってるんだ? 人類が生まれてから数百万年。少なくとも、おれが生まれてから五十年は経ってるぞ」
「夢の中の時間の流れ方は一定ではないでしょう? 場面が飛び、いつの間にか季節が変わっているなんてこともよくあります。彼女だけが時間と空間を移動しているだけで、世界そのものは連続していたんです。……いや、もしかすると記憶も作られたもので、この世界自体、ほんの数分前に誕生したのかもしれません」
「はあ、もういい。もういいよ、うんざりだ。ここは彼女の夢の中で、お前は彼女を殺した。で、どういうわけか、この世界はまだ崩壊していない。だったら、お前はこの世界の法律で裁かれる。どうだ、異論はあるか?」
「……いえ……ありません」
「よし、じゃあ決まりだ。まったく、ここが夢の世界だと? 精神鑑定でも狙ってんのか? そもそも、なんでお前がここが彼女の夢の中だと気づい……あ、おい!」
刑事が急に顔をしかめ、机を叩いて立ち上がった。
「ったく、掃除もろくにしてないのか! おーい、誰かプノスキーを持ってこい! バウブボンが湧いてやがる!」
刑事につられ、男も取調室の隅に視線を移す。そこには緑と黄緑の芋虫たちがうぞうぞと湧き出していた。壁を這うたびに、その部分が水面のように歪み、刑事は「ニニューニャ現象か、厄介だな」と低く呟いた。
気づけば机の上にも芋虫たちがにゅるりと現れている。天井からも口から糸を垂らして大小さまざまな――大きいものは猫ほどもあった――芋虫たちが降りてきていた。口は割れた栗のイガのように裂け、上顎の周囲には細かい毛がびっしりと生えており、顎の隙間からはねっとりとした涎が糸を引いている。
次の瞬間、芋虫たちの体がぐずぐずと溶け出した。机は熱したプラスチックのようにぐにゃりと歪み、床はゴムのようにたわみ始める。
刑事はいつの間にか壁際にいた。顔の体操でもしているのか、口を左右に大きく動かしている。
男の腕にも、無数の小さな芋虫が這い上がってきていた。肩に届いたものが、涎を垂らしながら口を動かしている。その動きはなぜか、刑事の顔の動きと一致していた。
汗が滲み、胸が締めつけられ、男は呻き声を漏らした。
――これは、まさに悪夢だ。
そして、気づいた。
「あ……これ、僕の夢だ……」




