ただいま
この物語は、ひとりの青年が「逃げること」から始まり、「帰ること」で終わる、20年の軌跡を描いています。
誰にでも、ふと故郷を遠ざけたくなる瞬間があります。
けれど、どんなに遠くへ行っても、心の奥で誰かが「おかえり」を待っている。
これは、そんな“帰る勇気”の物語です。
夜明け前の福岡駅は、まだ人の気配が少なかった。 始発を待つホームに、吐く息だけが白く残る。切符を握る手が冷たいのか震えているのか自分でもわからなかった。見送りの人はいない。けれど、振り返らなかった。あの家の玄関を、もう一度くぐる勇気がなかったから。
東京の大学に受かったとき、親は心から喜んでくれた。俺も笑っていた。でもその笑顔の奥にあったのは、期待じゃなくて逃げ出したい気持ちだったのかもしれない。生まれ育った街は、優しすぎて窮屈だった。朝の匂いも、夕暮れの光も、すべてが“知りすぎている”ようで息苦しかった。だから俺は、好きなふりをしてこの街を出た。家を出ることが、初めての「好き」だったのかもしれない。
最初の数か月は、刺激ばかりだった。高層ビルの隙間を風が抜ける音も、人混みの中で肩がぶつかる感覚も福岡では味わえなかったものだ。けれど、講義の教室は思っていたよりも静かだった。誰もがパソコンを開き、ノートに打ち込む指先だけが音を立てている。周りの声は遠く、何も届かなかった。気づけば、席を埋める学生たちの輪の中で、俺だけ浮いていた。授業が終わるとみんな予定があるらしく、カフェに行ったり、サークルに行ったり。俺はそのまま駅に向かい、適当な電車に乗って、どこかで降りて、知らない街を歩く。ネオンの光は眩しいのに、心の奥はどこか暗かった。「俺は、何しにここに来たんだろう」とそう思い始めたころ、授業に行く理由を失った。ノートの余白には、“やりたいこと”の代わりに“わからない”が増えていった。気づけば、ひと月以上大学に行っていなかった。アパートの狭い部屋で、カーテンを閉めたまま過ごす日々。昼と夜の区別がつかなくなり、コンビニの明かりだけが唯一の時間の目印だった。そんな生活を続けるうちに、“違う場所に行かなきゃ”という焦りが生まれた。とにかくこの街じゃないところへ。
大学を辞めると決めた日、キャンパスの空気がやけに軽く感じた。講義室を出るときも、誰にも何も言わなかった。自分が消えても、きっと誰も気づかない。そんな確信だけが、不思議と心を落ち着かせた。部屋に戻って、段ボールに少しの服と本を詰めた。たった一年しか過ごしていない部屋なのに、出るときは広く感じた。机の上に残ったカップの輪染みだけが、生活の跡を語っていた。
新幹線のチケットを買った。行き先は“北”とだけ決めて、細かいことは何も考えなかった。東京駅のホームに立ったとき、吹き抜ける風が冷たく感じた。これが“外に出る”ということなんだと、ようやく実感した。列車が動き出すと、窓の外の景色が少しずつ知らない街へ変わっていく。ガラス越しの光が頬をかすめ、遠くの人の声がだんだん小さくなった。誰も俺を知らない場所へ向かっている、それだけで胸の奥がすこし軽くなった。車内は驚くほど静かで、時折トンネルの中で反響する走行音が、心臓の鼓動みたいに響いた。シートの間を流れる暖かい空気と、微かな揺れ。
その単調なリズムに、少しずつ心が落ち着いていった。やがて列車は青函トンネルへと入った。窓の外は真っ暗で、トンネルの灯りが一定の間隔で流れていく。それを見つめながら、過ぎていった時間のことを考えた。失ったもの、言えなかった言葉、置き去りにしてきた気持ち。すべてが、このトンネルの奥へ吸い込まれていくようだった。
そして、光が差した。トンネルを抜けた先には、白い雪と淡い空の色が広がっていた。車窓の外に広がる白い景色を見ながら、胸の奥でつぶやいた。
「本当に来ちゃったな……」
けれど、その言葉の奥には、確かな決意があった。
北海道に着いたとき、空気の重さが違った。吐く息が凍り、街の音がやけに遠く聞こえる。偶然入った喫茶店で、求人の貼り紙を見つけた。
「住み込みアルバイト募集中 経験不問」
その文字が、やけに優しく見えた。気づけば店のドアを開けていた。古い木の床と、コーヒーの香り。店主は年配の女性で、俺のボロボロのバッグにも何も言わず、「今日からでもいいよ」と笑ってくれた。
店は小さな路地裏にあって、カウンターとテーブルがいくつかあるだけの静かな場所だった。裏手には六畳ほどの小部屋があり、そこが俺の寝床になった。冷たい風の音を聞きながら布団にくるまる夜は、少しだけ“生きている”という実感を思い出させてくれた。
最初は皿洗いやコーヒー豆を挽く手伝いから始めた。湯気の立つカップを並べるたびに、少しずつ自分の居場所ができていくような気がした。客の話し声、スプーンがカップに当たる小さな音。東京にいた頃には感じなかった穏やかさがそこにはあった。誰も俺の過去を知らない。それが、何よりの救いだった。
働き始めて数日後、ある女性が現れた。白いマフラーを巻いて、決まって昼前にやってくる。いつもホットミルクを頼んで、静かに本を読む。その姿を見たのは、俺がこの店に入って初めてのことだった。窓際の席に座る彼女の周りだけ、時間がゆっくり流れているように見えた。ページをめくる指が細くて、動きがやけに静かだった。カウンター越しに見ていた俺は、思わず店長に小声で聞いた。
「店長、あの人……よく来るんですか?」
店長はコーヒー豆を挽く手を止めずに、ちらりと視線を向けた。
「ああ、宮沢さんね。近くの保育園で働いてるらしいよ。前から休みの日に来てホットミルク飲んでくの。静かな人で礼儀正しいよ」
「ホットミルクですか?」
「そう。しかも必ず“ミルクは熱めで”って言うんだ。
最初は変わってると思ったけど、なんか似合ってるよね」
店長の言葉に、俺はつい笑ってしまった。たしかに、彼女が飲むミルクは、湯気までも品があった。
数日後、また彼女がやってきた。その姿を見た瞬間、胸の奥が少しだけざわめいた。同じ席に座り、同じように本を開き、同じようにホットミルクを頼む。その変わらない姿が、なぜか心地よかった。その日、勇気を出して聞いてみた。
「どうして、いつもホットミルクなんですか?」
彼女は少し驚いたように目を瞬かせて、それからゆっくり笑った。
「だって……ホットミルク飲まないと一日が始まらないから」
その言葉に、カップを持つ手が少し震えた。自分の淹れた一杯が、誰かの朝を始めるんだと思うと、胸の奥がほんのり熱くなった。彼女が来ない日、店の空気が少し冷たく感じる。同じ温度で作ったミルクの香りは薄かった。そんな自分に気づいたとき、「好き」という言葉の形が、まだよくわからなかった。ただ、彼女が来ない日の店は、いつもより静かに感じた。カップを洗う音がやけに響いて、時間の流れが遅くなる。それでも、いつも通りの顔で店に立った。
数日ぶりに彼女が現れたとき、なぜかほっとした。
「今日は雪、積もりましたね」
そんな何気ない言葉にうなずくだけで、胸の奥の緊張がゆるむ。少しずつ、注文のときに交わす言葉が増えていった。
「最近、忙しいんですか?」
「子どもたちが風邪で」
短い会話なのに、相手の生活が少し見えるようで、その一言が嬉しかった。
ある日、閉店後に外へ出ると、ちょうど彼女が店の前を通りかかった。
「今日もお疲れさまです」
雪の降る夜道で、彼女の声がやけに近く感じた。それから、帰りの方向が同じだと知った。
「ここ、いつも通るんですか?」
「ええ、職場の近道なんです」
それだけの会話だったのに、その夜はなかなか眠れなかった。それから何度か、閉店後に偶然出会うようになった。同じ道を歩きながら、天気や仕事の話をする。足元の雪がきしむ音だけが、会話の合間を埋めてくれた。
雪が解ける頃、俺たちは並んで歩くようになった。 何も特別なことは話さなかった。でも沈黙が、妙に落ち着いた。春が近づくたびに、彼女の笑顔を見る時間が増えていった。仕事が終わると、いつの間にか彼女のアパートの前を通るのが日課になっていた。部屋の明かりがついていると、それだけで少し安心した。 偶然を装って、閉店後の店の前でばったり会うことも増えた。「寒くないですか?」「あなたこそ。今日、遅かったですね」そんな短い会話でも、帰り道の空気が少し柔らかくなった。
ある夜、凛が小さな紙袋を差し出した。中には、手編みのマフラーが入っていた。「あなた、いつも薄着だから」
凛はそう言って笑ったが、指先が少し赤くなっていた。その夜は、雪が少しだけ降っていた。街灯の下で白い粒が舞うのを見ながら、俺は思った。“この人といる時間だけが、ちゃんとした時間に感じる”と。
次の冬、俺たちは同じ部屋で暮らしていた。いつの間にか、凛のマグカップが二つになり、俺のコートは玄関のフックにかかるようになっていた。「あなた、朝が弱いですよね」「君が淹れるミルクがないと起きられない」そんな会話をしながら、静かな朝が重なっていった。気づけば、季節は三度目の春を迎えていた。 雪のない街を歩きながら、凛が言った。
「ねえ、いつまでここにいるんですか?」
少し照れたような笑顔だった。
その問いの意味を、言葉にしなくてもわかった。
「たぶん、ずっと」
俺はそう答えた。その春、俺たちは結婚した。小さなチャペルで、友人も親もいなかったけれど、凛が涙をこぼしながら笑った顔だけは、今でもはっきり覚えている。それからの生活は、決して華やかじゃなかった。小さなアパートに二人きり。雪の降る朝には、窓の隙間から冷たい風が入り込んで、ストーブの前で毛布にくるまりながら笑い合った。やがて、凛のお腹が少しずつ膨らみ始め、最初の子、陽翔が生まれた日、俺は病院の廊下で何度も手を握りしめていた。産声を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。“この街で、生きていこう”と初めて思えた。
それから、双子の結衣、蒼真と家族は増えていった。 凛は子どもたちの寝息を聞きながら、「この音が一番落ち着く」と言っていた。俺はその隣で、コーヒーを淹れて夜の窓を眺めるのが好きだった。四人目の子、花音が生まれた頃、凛がふと呟いた。
「ねえ、いつかあなたのご両親にも会ってみたい」 その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。福岡を出てから、一度も連絡を取っていなかった。電話番号も変わり、住所も知らせていない。逃げるように出た家に、帰る勇気なんてなかったから。けれど、凛はそれ以上何も言わなかった。ただ、優しく笑って、子どもをあやしていた。数週間後、郵便受けに一通の封筒が届いた。差出人の名前を見た瞬間、手が止まった。“篠原”その文字が、遠い記憶を呼び起こした。
「どうして……」
と呟いた俺に、凛は少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね。こっそり、調べたの。お義父さんたちに、あなたが元気だって伝えたくて」
封筒の中には、震える文字で短い文が書かれていた。
――もう一度、顔を見せに帰ってこいーー
その瞬間、長い間張りつめていた何かが、静かに解けた。解けたのだ。
20年、音信不通だった俺、篠原 悠。
久しぶりに会った両親は、驚いた顔のまましばらく動けないでいた。
けれど次の瞬間、母が泣きながら俺を抱きしめた。
その肩に顔を埋めながら、気づけば小さく声が漏れた。
「……ただいま」
その一言に、母の腕がぎゅっと強くなる。
父も言葉を失ったまま、震える声でようやく絞り出した。
「……おかえり、悠」
その温かさに、胸の奥がじんと熱くなった。
少し遅れて隣に立った凛を、両親は何も言わずに抱きしめてくれた。その光景を見て、ずっと閉じていた扉が、静かに開いた気がした。そして今、俺は、福岡に戻ってきた。
見慣れた駅のホームに降り立つと、昔と同じように風が吹いた。けれど、その風の中にいる自分は、もうあの日の俺じゃない。隣には妻の凛がいて、少し前を、三人の子どもたちが笑いながら駆けていく。凛の腕の中では、花音が不思議そうに空を見上げていた。
「はるとー、あんまり先に行っちゃダメ!」
「だいじょーぶー!」
と、5歳の陽翔が小さなリュックを揺らして振り返る。
続いて、3歳の双子、結衣と蒼真が、手をつなぎながらトコトコついてくる。
「ママ、まって〜!」
「パパー、しゃしんとってあげるー!」
蒼真がおもちゃのカメラを構えて、ピントも合わないままシャッターを切る真似をする。
花音はまだ1歳。凛の腕の中で、景色をじっと見つめながら、
「まんま……?」と小さな声を出した。
凛は微笑んで、花音の頬をそっと撫でる。
「そうね、花音。ここがね、パパのまちなの」
俺はその言葉を聞きながら、懐かしい風を胸いっぱいに吸い込んだ。
もう、あの日のように逃げる場所はない。
ここが、俺たちの“ただいま”だ。
「ただいま」という言葉ほど、短くて深い言葉はないと思います。
出て行くことも、帰ることも、どちらも生きるための選択。
そしてその先に“誰かの笑顔”があるなら、それはきっと間違いじゃない。
最後まで読んでくださったあなたの心にも、小さな温もりが残りますように。




