流転する物語にまつわるロゴス
流れる川の違い
コト、とカップの縁が受け皿に触れる。
橙色に照らされた暖かそうな図書館で、ソフィアは紅茶に口をつけた。静かにふぅと息をつき、本のページをめくる。
──天気は雨。図書館の窓は静かに曇らせ、水滴が繋がっていく。ボヤけた世界の奥から、ぴちゃぴちゃという音が近づいてくる。
「ソフィー!今日はさむいね〜」
久しいと言うにはあまり日は経っていないが、アイリスのいつもの調子をソフィアは懐かしく感じていた。濡れた体を犬のように体を揺さぶらせ、床からギィと木材の歪む音を鳴らしながら中に入った。
傘を畳むと、水滴をぶら下げた髪が現れた。なぜ傘を差していたにも関わらず濡れているのかは甚だ疑問だ。
「……ちゃんと雨粒は払っていってね。本濡らしたくないから」
「わかってるよー。今日は寒いから〜、ビーフシチューを作ります!」
「前回も似たようなもの作ってなかった?」
「まーずっと寒いからね〜。でも鍋とビーフシチューは全然違くない?」
「あれ、クラムチャウダーを作ったんじゃ...あ、その後鍋を作ったんだっけ。たしかに全然違うかも」
そう言いながらソフィアは一口、紅茶をすする。雨音がメロディを刻む。
「じゃあまたキッチン使わせてもらうね?」
「はいはい...」
しばらくして、図書館の奥からトントントンと包丁の音が聞こえてくる。アイリスは、ぐあーと苦しみながら玉ねぎを刻んでいた。
ソフィアは相変わらず難しそうな本を読んでいる。そんな彼女の後ろ姿を見て、アイリスは不思議な違和感を持った。
「ねぇソフィー、私たちって...久しぶりに会ったわけじゃないよね?」
「お前はしつこいぐらい来るもんな」
「そうだよねー...だけどなんだか久しぶりな感じというか。この図書館も違う?気がして」
「...気のせいだよ」
ソフィアは本から目を離さずに返事をする。目は文字を追っていない。
「雰囲気っていうか、空気?って言えばいいのかな。ほら、床の音もさ…ギィギィ鳴ってたかなって」
ソフィアはしばらく考え、少し目を伏せた。
まるで、何かから目を背けるように。
「...パンタ・レイ」
「え、パンダ?」
「パンタ・レイ。ヘラクレイトスっていう哲学者が提唱した概念だよ。よく川に例えられて、『同じ川に二度と入ることができない』って表現されたりするんだ。まぁ本人が例を挙げた訳じゃないって言われてるけどね」
「......川遊び出来ないってこと」
「それは絶対違う」
よく理解してない様子でアイリスは話を聞きながら、ビーフシチューの下拵えを済ませていく。
「もう少し丁寧に説明するなら、川はいつも流れてて、私たちから見れば違いなんて分からない。だけど流れてる水は毎回違う。ゆく川の流れは絶えずして...」
「魚が泳いでる時もあるしね」
お腹の音を鳴らしながらアイリスは答えた。鍋に満たされる水の音はだんだんと高くなる。
「そして私も、アイも、この図書館も、少しだけ変わっている。普通なら“違和感を感じない”ほど少しだけ」
「でもさ、違っても違わなくても楽しく美味しいご飯が食べれたらそれで良くない?」
「ほんとはそれで良いと思うし、私も同じ事を考えてる。だけど、自分が良くても傍から見られた時の不安をどうしても拭えないんだ」
暗い顔をしたソフィアがこちらを見つめる。
「私の図書館、そして私自身について。性格や心情、喋り方の自分でも気付けないような変化によって、私は“前の私”じゃなくなってる気がするんだ」
まるで物語に穴が空いたように。
「つまり“前のソフィー”が本物で、“今のソフィー”は偽物みたいだってこと?」
「そう受け取られる可能性もあるかもね」
「うーん...」
アイリスは少し考えながら、ソフィアに優しく語りかける。ビーフシチューの下拵えが完了した。
「でも別に“今のソフィー”だってソフィーに変わりないんでしょ?」
鍋を火にかける。
「なんて言えば良いんだろ...そういう気分の時だってあるじゃん!って感じ?今日はビーフシチュー食べたいから作ってるし、この前は鍋食べたかったから作った。その時の気分で私の食べたいものが変わっても、私は私だからさ。気にしなくて良い気がするなー」
調理が進み、柔らかく甘い香りが漂ってくる。
「じゃあ、アイ。もし私がアイから見て変わっちゃってたら...どうする?」
恐る恐るアイリスに問いかけたソフィアとは打って変わって、平然と答えを返した。
「ソフィーはソフィーだよ。もしソフィーがすっごい変わっちゃう事があったら、私も同じぐらい変わってると思う。それにさ、逆に私だけが変わっちゃって不安になっても、ソフィーは私を安心させてくれると思うし、そんなソフィーを信じてるかな」
ソフィアはぽかんとした表情でアイリスを見つめた。この暖かな空間に流れる、温かな空気は心を穏やかにした。
「なんだか、私よりもアイの方が変わっちゃったんじゃないかって感じの返答で驚いてるよ。なんだか信用出来ないな...」
「えー!?信じてるって言ったのに!」
「良かった戻った」
「納得いかないなー」
安堵の表情でソフィアは、紅茶のカップをそっと見つめてから、静かに語る。
「そうだよね、少しずつ変わっていくのは当たり前のこと。記憶も、言葉も、感情も。それは同じじゃなくて良いかもしれないし、きっとそうやって、物語は続いていくんだろうな。私は、ソフィアなのだから」
カップを持ち上げ、紅茶を口に含んだ。
「…あれ?」
アイリスはいつもと違うソフィアのある変化に気付いた。
「ソフィー、今日コーヒーじゃないんだ?いつもは苦いやつなのに」
ソフィアは笑みを浮かべて、満足そうに答えた。
「…まあ、そういう気分だったんだよ」
物語は進む。雨音に奏でられながら。