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テセウスの船と人格の同一性

変化しない尊さ。変化を受け入れる勇気。

「ここに船の模型があります」


ソフィアはそう言って下から取り出した。

その船は小さな木の棒を糸で結びつけ、旗がちょこんと乗ったものだった。


「イカダじゃん。もっと立派な船が出てくると思ったよ」


「家族的類似だから言ってることは間違ってないよ」


「なんだっけそれ」


「さっき話しただろ」


「ごめんごめん」


アイリスは「えへへ」と笑ってコーヒーを飲む。種類はカフェオレ。アイリスがコーヒーを飲む手が止まるのを、ソフィアは船の模型を持ちながらじっと見守る。


「で、この...いいやイカダで。これが一部壊れてしまいました」


1本イカダを支えるための木の棒を抜き取る。


「ソフィーが壊してるじゃん」


そんな言葉を無視してソフィアは話を続ける。


「壊れてしまったので、別の木材で修理しました」


そして元々取り付けられていた木材よりも、色が暗い木の棒を差し込む。


「そういえば、船に名前を付けてなかったな」


「名前?」


「船の名前だよ」


「じゃあソフィちゃん号!」


「で、このソフィちゃん号が少しずつ壊れていきます」


折角ソフィアの名前を船に付けてあげたのに無関心で話を進め、アイリスは不服そうな顔をした。

ソフィアは一本ずつイカダを構成する木の棒を外していき、色の暗い木の棒で全体が構成されていった。


「最初よりも暗い色のイカダになったね。アイはこれを、まだソフィちゃん号って呼べる?」


「そりゃそうでしょ」


「でも元々ソフィちゃん号だったものは全部修理の時に変えちゃったから、別の船になっちゃったんじゃない?」


アイリスは少し頭を悩ませ俯く。


「質問を変えるよ。アイがソフィちゃん号って思う要素はどこ?」


アイリスはイカダをじーっと見つめ、再び頭を抱える。そして自分でも解決してなさそうな、不安そうな口調で答えた。


「んー…ぐぬぬ。でも、ソフィちゃん号はソフィちゃん号だよ。私がそう思うなら、ソフィちゃん号…あ、ソフィちゃん号っていうイデアがあるならこれもソフィちゃん号って言えるんじゃない?」


答えている途中で閃いたらしく、目を輝かせながら最終解答を導き出した。言い終えた後のドヤ顔は憎らしくも可愛らしかった。


「珍しく賢そうな答えに辿り着いたね」


「私はいつでも賢いよ?」


「無知を誇ってたやつが何言ってんだ。でも良い解答だと思うよ」


ソフィアはアイリスの頭を優しく撫でた。手の下で可愛らしい顔を覗かせる。その顔にソフィアもたまらず微笑む。


「こういう物の本質は何だろうっていう問題を『テセウスの船』って言うんだ。ここで言いたいのは『変化する物事や世界において、変わらない本質って何?』ってことなんだ」


「へー」


「これは物の話だからちょっと違うけど、変化には私やアイも含まれるよ」


「マジか、私たちも変わるのか」


「成長って言った方が分かりやすいかもね」


「ソフィーは昔から小さいけどね。変化しないのかも」


「だまれ」


そう言ってソフィアはホットミルクを静かに飲んだ。


「でもいろんな答えがあるよ。アイみたいにイデアって言う人もいれば、役割や物体の同一性に依存するとか、心で認識したりとか。アイは「心がそう訴えてるからだ!」とか言うと思ったんだけどね」


「私も成長したって事だよ」


「そうだね。じゃあ今の賢いアイに質問しちゃおうかな」


「何でも答えてあげるよ」


アイリスは椅子を前に引き、かかってこいと言わんばかりの態度で腕を組んだ。


「アイは自分のことを成長したって言ったけど、成長する前のアイとの違いは?」


「うーん、それはねぇ…私という名のイデアが」


「じゃあ今私の目の前にいるアイは偽物ってこと?別のところに完璧なアイがいるって事になるけど」


「ぐ、確かに私は私の偽物という事になってしまう…うおー!私ってなんなんだー!!」


成長したアイリスだったが、どうやら降参らしい。


「分かんないからコーヒー飲んじゃお。カフェオレのイデアが今日も美味い」


成長は一時的なものだったらしく、再びいつものアイリスに戻ってしまった。

恐らく今の彼女はイデアの定義を覚えていないだろう。


「私たちは変化していく。だけど私たちは自分自身のことを同じ存在と認識できるのはなぜか。そういう問題を『人格の同一性』って言うんだ」


「さっきの船の話と何が違うの?」


「話の焦点が人か物か、記憶か物質か。若干違うけど、対象が違うって思えば良いかな?」


「えーっと。船は物の話で、これは私たちとか人についてって感じか」


アイリスは自分が理解しやすいように噛み砕いて内容を復唱した。

そしてふと純粋な疑問が思い浮かぶ。


「でもさー、私たちは変わってるかもしれないけど私は私だ!って思ってるならそれで良くない?」


「元も子もないな。まぁ分からないことを野放しにすると不安だからじゃないかな」


「不安なの?」


「アイが知らない所に1人取り残されたら怖いでしょ」


「そう…かも?」


「人類は分からない事を排除したり解明したりして歩んできた。そういう生き物なんだよ」


ソフィアはぎっしりと並んだ本棚に目を向けた。それは人々が築き上げた仮説や解明、繋いできた戦いと愛情の歴史の痕跡。


「まぁ私は何も分かんなくてもここでゆっくり出来るならそれで良いかな〜」


ソフィアはアイリスの無邪気な答えに笑みがこぼした。たとえ世界が変わっても変わらないものがある。ソフィアは机の上の船の模型に視線を落とし、少し考えながら眺めた。


「私も、それで十分かもしれないな」


「そうだよ!ソフィーもたまには何も考えないでグデーとしよ」


とろけるようにアイリスは机に突っ伏した。


「…そういう風に思えるのも成長なんだろうな」


ソフィアは本にしおりを挟み、アイリスと同じように机に伏せる。暖かな空気は少し涼しくなったが、それでも変わらないものはとても温かく感じた。

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