1-7 霧の向こう
水陸バスの座席で、マキは落書きノートに鉛筆を走らせる。端正な友人の横顔を、どうにかうまくディフォルメして且つかわいく表現できないかと、描いてみては考え、何か違うなーとまた次のページに描く。モデルである友人の玖成メイハとは、中一の春に、こっそり彼女をスケッチしているのがバレた時からの仲だ。
大丈夫かなあ、メイのやつ。マキは落書きの元となった友人のことを思い浮かべる。美術部の先輩経由の頼みで、友人と上級生の出会いの場をセッティングしてしまった。似たようなことはこれまで何度かあって、ちょっとのぼせた程度の男子相手なら別にどうということもないのだが。今回の石崎先輩は成績優秀、眉目秀麗、スポーツ武道なんでもござれの自信家な上に、少々強引だという噂を聞かないでもなかった。大丈夫かなあ、メイのやつ、傷害事件とか起こしてないといいけど。中三の時、メイハはしつこく言い寄る男子を片手で吊り上げて、教室の窓から放ったことがあった。あれはメイハと、心配で覗いていた自分と、当の男子しか恐らく知らない。幸い一階だったから大事にならずに済んだが、二階以上だったらやらなかっただろうかと考えると「やらなかった」と断言できる自信は全くない。あの時にメイハの目には、本当に何の感情も浮かんでなかった。ただ面倒くさい邪魔なモノを片付ける。空き缶をゴミ箱へシュート。そんな感じ。ただそれだけ。
やっぱり残って陰から見守るか、ミハタっちに言うべきだったか。でもなあ……
マキは鞄を抱きしめた。今日はあしべ先生の4年ぶりの新刊の発売日だったのだ。漫画家を目指す者として一人のファンとして、これは発売日当日に確保したいではないか。そのために発売日の発表された三ヶ月前から書店に注文、取り置きしておいてもらったのだ。ついでに趣味の本も頼んだが、まあそれは嗜好品みたいなものだし健全だ。そう、ケンゼン。
揺れる車内から窓の外を見れば、海の向こうの日は随分と傾いている。市庁舎バス駅前の書店に寄ったから、家まではかなり遠回りとなってしまった。家に着く時刻は、部活のある日と同じくらいか。がくん、と軽い衝撃の後に、窓の外の景色の流れがゆっくりになる。水上走向に切り替わったのだ。
自宅近くのバス停まで、あと15分程度。夏に向けて描く本どうしようかなー、今度はアヤっちモデルで描こうかな。試験勉強そっちのけでそんなことを考えながら、マキは落書きノートのページをめくる。アヤっちの方がおっぱいでかいし、男性向けを考えると……。
頭の中のイメージをノートへ。鉛筆を走らせようとした瞬間、急に車内が傾き線がずれた。何事かマキが顔を上げると、バスが大波に煽られている。響き渡るけたたましサイレンに、避難を促す緊急放送が続く。バスのドライバーがマイクを取った。
『当バスは行き先を変更し、イシガミ町シェルターに向かいます。乗客の皆様は、シートベルトを着用の上、目の前のバーを掴んで……』
寄せる波を回避するように、バスはゆっくりと回頭し行き先を変える。車内の誰かが窓の外を指さした。上がる悲鳴に弾かれるように、マキも窓の外を見る。
rurururuuuuuuuuuuuaaaaAAAAAAAhhhhh......
界獣が、テレビのモニター越しにしか見たことのない異形の大顎が、鎌首をもたげるように海上にあった。その並ぶ眼が夕日を受けて鈍く赤く照り返す。
「うっきゃああああぁぁぁぁ!!」
着実に近づいてくる巨影に、マキも悲鳴を上げる。やばい。喰われる。死ぬ。死んでしまう。神さま、友だち姉妹をモデルにちょっとえっちな本描いてた罰でしょうか。ノマカプ、年の差カプ推しを公言しながら、BL本を買った報いでしょうか。いいじゃないですかたまには。甘いものは別腹って言うじゃないですか。え? ダメですか? 神さまはノマカプ推しなんですか?
混乱するマキの目に、迫る顎の牙まで見えてくる。車内の悲鳴が一際大きくなる。ああ、短い人生だった。もっと読みたかった。もっと描きたかった。やっぱりメイを見届けて一緒に帰ればよかった。でももう遅い。ならせめて、せめて
「お願い! この鞄の本だけは残さず食べて!」
マキは叫んだ。死後、この鞄の中の本と学生証が一緒に発見されることは、何としても、それこそ死んでも避けたかった。
その直後、マキの視界は真っ白に塗りつぶされる。ああ、死んだ。呑まれた。そう思って身構え体を強張らせたものの、彼女の身にはいかなる苦痛も襲ってこなかった。
「え……?」果たして何が起きているのか。マキが少しだけ冷静になった頭で目の前を見ると「…霧?」
バスの窓全てが、白く濃い霧で塗りつぶされていた。雨が降ったわけでもないのに何故? 霧に阻まれ窓の向こうは何も見えない。僅かに何か、重いものを叩きつけるような鈍い音が空気を震わせている。
体感的に数十分にも感じた僅かな時間の後に、マキを乗せた水陸バスは霧を抜け陸上道路に上がった。
界獣の気配は、ない。窓の向こうにも、どこにも。
車内が安堵に包まれる。しかしマキは、己が目をこすった。戸惑うままに思い起こす。見間違い? それとも恐怖が見せた幻覚? 霧を抜けるその時、見えたもの。薄くなった霧の隙間の向こうに。
水没ビルの上を飛ぶように駆け巡り、巨大なハンマーのようなもので界獣を殴る、小柄な赤い髪の人の姿。
そんなものが、見えた気がした。