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紙杯の騎士  作者: 信野木常
最終話 テイクアウトのスープカップ
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7-7 赤紫の雷光

 クトゥルーの〈落とし仔〉の左手は、落ちる巨岩のように上から〈夜明けの風(ドーンウィンド)〉を一撃して海面に叩き伏せた。更にそのまま、鉤爪に引っ掛けるように〈夜明けの風〉の騎体を持ち上げると、幼児が気に入らないおもちゃを放るように投げ捨てる。

「ケイ!」

 その名を叫び、ウルスラは翅持つ脚で廃ビルの間を翔けた。自律モードで傍らに浮くタブレットが、部隊各騎の状況を吐き出してくる。コンゴウ改甲、中破。騎手はたった今、覚醒。セドリック騎、大破。騎手は意識を喪失。ダゴン級の触手に捕らわれたグリフ騎、キース騎、クレイノンのコリネウスは圧壊まで推定60秒を切っている。

 そしてケイと〈夜明けの風〉は、ダゴン級にほど近い廃ビルに激突。老朽化した壁面を破壊しつつ落下し、海面に着水した。取り分け頑丈に造った騎体は、損壊率7パーセント程度で機能に問題はない。既に装甲機能の修復も始まっている。かろうじて騎手の意識もある。しかし〈星に伸ばす手リーチフォーザスターズ〉の力を媒介する剣は遠く〈落とし仔〉の元。回収しての戦闘継続は不可能と言っていい。

 敗けたのか、ボクらは。

 苦い現状認識がウルスラを苛む。深淵発動機の限界深度を更に上げたのに、〈夜明けの風〉の剣は〈落とし仔〉の外殻を僅かに削るに留まった。アメノハバキリと徹界弾は外された。元々額面どおりの効果があるか疑問ではあったものの、惜しいことに変わりはない。最大の誤算はあの星図"UNCHARTED STARS"の座標が、想定以下の"星辰の力(Agathoster)"しか伝えてこなかったことだ。

 星辰の力(アガソステル)が伝達されている以上、星図に問題はないはず。なのに出力が上がらない。

 遠いというのか。この神の座が。この神はこの星この次元世界から、それほどまでに遠く彼方に去ったのか。

 か細い導線で僅かな力を汲むようなこの状態では、〈落とし仔〉を放逐するまでの出力は得られない。これを解決する手段は二つ。一つ目は、騎体の星辰伝導率を何らかの手段で上げること。これは現状では不可能だ。〈夜明けの風〉には、既にブリタニア最高位のノッカーが鍛えた呪鍛鋼をふんだんに使っている。これ以上の伝導率を有する星辰伝導金属は望むべくもない。

 もう一つは深淵発動機を、星辰の力の源たる〈大いなる天河(グレートスカイリバー)〉のより深層へと潜行させること。しかし深淵発動機の潜行可能深度は既に限界に達している。これ以上潜行させれば、ケイの精神と肉体が破壊される。それだけならまだマシだ。ザムザ症など生ぬるい、彼を媒体に、制御不能の高位存在が顕現しかねない。

 手詰まりか。思い至るとウルスラの決断は早かった。残存戦力を可能な限りこの空間から離脱させる。今やそれすら可能か怪しいが、やらねばならない。この無駄に長い命を使い果たしてでも。そう思うと、ウルスラの内に恐怖とない合わせの、不思議な高揚感が湧き上がってきた。

 人が生きるとは、こういうことか。ウルスラはわかったような気がした。生まれ落ちて千と幾百年、今の今までこんな気持ちになったことはなかった。ボクにも人の血が流れている。ずっと厄介にしか思えなかったけれど、今はそれが嬉しい。

 壁面を翔け、ウルスラは〈夜明けの風〉とダゴン級を視界に入れる。その向こうで、クトゥルーの〈落とし仔〉が哄笑するかのように頭部の触手を持ち上げた。


 今回はボクらの敗けだ。でも待っていろ。いつか必ず、人とボクらはオマエたちを踏み越えてその先へ進む。


 瓦礫に埋もれながら、起き上がろうとする〈夜明けの風〉が、ケイが見える。ウルスラは翔けながら転移の呪文を開始した。しばしのお別れかもしれない。我が騎士、我が半身。〈誓約〉のままに。いつかまた別のサイクルで……

 その時、突如として自律タブレットが警告音を発し、高速で接近する物体があることをウルスラに告げた。

「なんだよもうっ!」

 悪態をつきながら、ウルスラはやむなく呪文を中断してタブレットを見た。時間がないのに今度は何だ? 一瞬、神蝕空間を示す反応が出てすぐに消える。D類亜種か? ヤツがまたぞろダゴン級でも呼び出したか? 反応の方角に目を向けると

 暗天を裂くように、赤紫の雷光が閃いた。




* * * * *




 全身が痛い。身体のどこにも痛まない場所がない。ケイは痛みに顔を顰めながら、〈夜明けの風〉の上体を起こした。被っていた瓦礫が雪崩落ち、雨の廃ビル街を背に立つ巨影が見える。ダゴン級だ。最初に見た時よりも一回り大きくなったように見える。その足元の海面から生え伸びる触手が、部隊の仲間の騎体を巻いて締め上げていた。

 助けなきゃ、と思うも、頼みにしていた剣はない。残っている武装は予備の鎚鉾メイス短剣ダガーくらいだ。ケイは左肩甲に格納された鎚鉾メイスを右手で引き抜こうとして

「あがっ!」

 激痛に右腕が垂れ下がった。鉤爪の手の最初の一撃を受けた時に、〈夜明けの風〉の右腕ごと変な方向に曲がったような覚えがある。あの時、折れたのか。

 新たな触手を海面から出しながら、ダゴン級が近づいてくる。あまりの巨体に、その接近がゆっくりに感じられる。もちろんそれは錯覚で、鱗に覆われ、魚類様の頭を持つ巨人はもう目の前にいる。

 腹の底から這い上る冷たさに、ケイは全身の肌が粟立った。苦痛とともにこの世界から消える。僕という存在が消える。身も凍る恐怖とはこのことか。そして身を震わせながら思う。

 結局、理不尽には抗いきれないのか。

 自分に、家族に、メイハとアヤハに、友だちに、不条理に襲い来る狂気に、どれだけ抗っても僕は結局、負けるのか。

 あるいはこれは報いなのか。身の程を知らずに、大それた戦いに身を投じたことへの。

 触手が、その槍先のように尖った先端がこちらを向く。刺さるのか。それとも巻き付くのか。いずれにしても、数舜後に訪れるのは確実な死だ。

 悔しいな。どうしていつも……這い上る冷たさに蝕まれ、ケイは諦めの果てに身を横たえようとした。その時


 真夏の神鳴りの先触れのように、巨影の暗がりの中を赤紫の光が閃き落ちた。


 魚類様の巨大な頭が音もなくずれ落ち、ばしゃんと水音を立てて海面に砕けた。続けてばしゃ…ばしゃんと、ダゴン級の上体が、触手が海にずれ落ち砕け散る。

 ものの数秒でダゴン級〈深きもの〉が消えると、その場に黒いヨロイの姿があった。その身の丈の倍以上はある、緋色の巨剣を振り抜いた姿勢で。

 何? あまりに突然のことに恐怖も忘れ、ケイの頭を疑問が群れなし渦を巻く。再突入部隊の編成に、あんなヨロイはなかった。見た目は伊勢さんのコンゴウ改甲に似てるけど、もっとスリムで元のコンゴウ改のようで。いや、あれはその前世代傀体のコンゴウそのものだ。何でそんな傀体がここにいて、そして恐らくだけれど、あのダゴン級を呆気なく、あっさりと解体したんだ?

 コンゴウらしきヨロイはゆっくりと屈んだ身を起こすと、巨剣を右手に、〈夜明けの風〉を、ケイを真っすぐに見据えて歩き出す。一歩、また一歩と踏み出すたびに、各所の装甲が剥がれ、左腕部がもげ落ち、上体の左半身が頭部とともに崩落した。

 そして顕わになったその繰傀者に、ケイは目を瞠る。きっと誰よりも、彼女の妹の次くらいには彼女のことを、知っていたから。

「メイハ……」呆然と、ケイはその名を口にした。「どうして?」

 騎内で発した音声は、僚騎か通信機がなければ聞こえない。なのにメイハは聞こえてるかのように、ケイを見て言った。

「さっさと帰るぞ。ケイ」それはまるで、いつもの学校帰りのように。「オマエは今、悪い女に騙されてる。いいか」

 メイハはコンゴウに残る右手で、巨剣の先端を背後の〈落とし仔〉に向ける。

「あんなモノはだな。オマエにしか殺せないとか、そういうのじゃないんだ。見ているがいい。これからワタシが……」

 言葉の途中で、コンゴウの右手が巨剣とともに下がった。次に膝が落ち、メイハは糸が切れたようにがっくりと頭を落とす。

 身体の痛みを右腕の痛みを瓦礫とともに踏み越えて、ケイはコンゴウに向けて〈夜明けの風〉を駆った。前のめりに倒れゆくコンゴウを、間一髪で抱き留める。視界の左端で何かが蠢く。触手か、鉤爪の手か。とにかく今はメイハを。〈夜明けの風〉は左腕でコンゴウを抱えて転げて距離を取る。転げる渦中、暗い空を背景に巨大な鉤爪の手が垣間見える。ぃいん…りぃん……と、この場に似つかわしくない涼やかで透明な音が、何処からか聞こえた。


 ――――――!!


 心なしか苦鳴のような〈落とし仔〉の咆哮が轟く。

 その瞬間、雨音を裂くように重く乾いた破裂音が響き渡った。

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