6-3 秘儀
意見交換会議の席で、海浜警備隊員の青年がテーブルに身を乗り出した。
「つまり、遺伝子調整者は狂気に陥りやすい、と?」
青年は、驚愕とショックを隠せていなかった。その蒼白になった端正な顔を見て、ウルスラは思う。ユピテル派も罪なことをしたものだ、と。彼はオガタ一等警正。今回のクトゥルーの〈落とし仔〉討伐作戦の指揮官だった男だ。歳は二〇代の後半くらいと若いが、相応に優秀なのだろう。大海嘯後、遺伝子調整技術が世界に公開されて、すぐに処置を受けた世代だ。その生まれを想像すれば、憐れでもある。恐らくは将来を嘱望されて、人類種の希望と見なされてこれまで生きてきたのだろうから。
「そういうことだね。汎人よりもその傾向が強いだけで、汎人だったら無事に済むってわけでもないけど」ウルスラは告げた。「感覚や能力が優れていることは、常に長所たりえるわけじゃない。常人、汎人なら遮断される刺激も、キミら遺伝子調整者は識閾下で処理されてしまうが故に、汎人以上に精神が多大な影響を受ける。異質で膨大な刺激に狂ったり行動不能になるだけならまだマシだ。キミたちは少なからず神性を、人外の因子を取り込んでる」
神性移植について口にした瞬間、オノ一等監が咎めるような視線を向けてきた。それに構わずウルスラは言葉を続ける。危惧していたことが、そのまま起きたのだ。ユピテル計画、人類に神性を移植し、淘汰と世代を重ねて半神化し、〈古く忘れられた統治者〉に対抗させる。そんな企て、あってはならない。ボクはそんなことのために、剣を、星辰装甲を造ったわけじゃない。
「対した起源体によっては、起源体を上位存在と誤認してその意のままにされる可能性がある……恐らくあの作戦ではその現象が起きた」
作戦生存者の証言が、ウルスラの予想を裏付けた。遺伝子調整者で構成された特務部隊の、同士討ちによる崩壊。
安易な方策を取ったが故の陥穽。それはミスティックレイスの罪でもある。かつて神秘と人がともに在った時代への郷愁ゆえか。混沌の世に人に力を与えようと焦り、その結果生み出された子らの在り様をなおざりにした。神性の源となる半神、妖精、怪物たちは、力はあれど人よりはるかに不自由な存在だ。属する種族の性質、過去の誓約に縛られる。上位存在の命に抗い難いこともその一つだ。遺伝子調整者の高い能力は、そんな不自由さと不可分のもの。歳月を経れば、抗命も上位者を出し抜くことも不可能ではない。が、たかだか数十年ではまず無理だ。
ただの人だけが上位存在に、神とも呼べる位階の存在に、身の程も知らずに反逆できる。最初の人がアブラハムの神に抗い、楽園を出たように。無知、愚かさと表裏の傲岸さと大胆さを、ただの人だけが持っている。
「回収されたショウキ傀体のレコーダーに、特務部隊の通話記録が一部、残っていました」
挙手して発言したのは、海浜警備隊員の女だ。彼女については、会議の前に紹介があった。先の証言を持ち帰った生存者の上官で、名前は確かミズモト。
「帰還者の現況と合わせて、ミス・ウルスラの言葉を裏付けるものです」ミズモトはテーブルに置いた小型の巻物と再生装置を示した。「再生しますか? 聞き苦しい部分もありますが」
「是非」
ウルスラはミズモトに向かって頷いた。
ミズモトはオノ一等監が首肯するのを確認してから、再生装置を室内スピーカーのコードにつないだ。
『―ああああああああ『ふたぐん『んでっ、俺、何で、首に……が『いやぁっ! こないで、こないで!!『んぐるい『うぶっ…『ぐるうなふ、くとぅるう、るるい『出して、ここから出し』ふたぐ』ぼ…』ふんぐ』どうして』髪が抜け、え…エラ?』るlyeh』mglw'nafh Cthulhu』
悲鳴と恐慌、狂気に捕らわれ変質してゆく者たちの断末魔が、ネリマ保安部会議室の空気を重く塗り替える。
ミズモトはレコーダーの再生を停めると、手元の資料をめくり作戦参加者の現況を読み上げた。
「キョウト本部、第一管区第二防衛隊から選抜された特務部隊の繰傀士一二名がMIA(Missing In Action 作戦行動中行方不明)。第三管区各防衛隊の傀体繰士六〇名の内、帰還した隊員は四一名。一九名がMIA。帰還した隊員の内、一八名が緊張症ないしは汎恐怖症を発症。七名が作戦行動中の記憶を一部または全て喪失。四名が昏睡状態。現在も正常な意識を保っている者は、一二名」ミズモトは資料から顔を上げると、会議室の面々を見て、言った。「その一二名全員が、遺伝子調整を受けていません。対して意識障害を発症している者の七割ほどが、遺伝子調整者です」
惨憺たる有様だった。この事態、決して予想外だったわけじゃない。遺伝子調整、神性移植による人体強化技術が世界に流布を始めてから二十と余年。ウルスラはずっと、その危険性をブリタニアのミスティックレイスたちと政府の人間たちに訴えてきた。
しかし、ここまで容易く崩れ去るとは思ってもみなかった。ニホンの海浜警備隊は20年前に〈落とし仔〉を、恐らく完全ではないにせよ撃滅することに成功している。その手段は何処へ行ったのさ? ウルスラは肩透かしを食らったような気分だった。むしろ今、その手段を選ばずいつ選ぶのか。〈落とし仔〉は蠢動を始め、その支配域、不可触領域を拡大しているというのに。
「不可触領域が都市部に接するまで、あとどれくらいだっけ?」
「起源体の移動と領域拡大の速度が一定しないので、概算になりますが」ウルスラの問いかけに、ミズモトが答えた。「現在の都市の簡易結界の効力を考慮に入れても、おおよそ26時間後、明日ヒトナナマルマルには湾岸部居住区画に到達するものと推測されます」
会議の場の、空気が重く張り詰める。作戦失敗の報は既に首都キョウトに届けられ、現在は政府と護国庁の間で対策会議が開かれている。このまま〈落とし仔〉を放置すれば、押し寄せる〈深きものども〉の大群によって都市は破壊され、拡大する不可触領域によってシェルターの避難民の多くが精神を破壊される。既に〈落とし仔〉の不可触領域は、度重なる破壊で弱体化したこの都市の結界を蝕んでいる。ザムザ症の発症者が更に出る可能性も高い。そうなれば大惨事だ。しかし残り26時間程度では、トウキョウ圏各都市の市民全てを安全圏に避難ことはできない。
いまだキョウト本部からの指示は、ない。
「出し惜しみは無しにしないか、この島の守護戦士よ精霊よ」ウルスラは席から立ち上がると、この場の海浜警備隊士官たちと狐のミスティックレイスに向かって告げた。「このままではルルイエ浮上を待つことなく、明日にはこのトウキョウ圏が、遠からず列島全体が不可触領域、〈大いなるクトゥルー〉の勢力圏に沈む。こちらにはキミらに協力する用意がある」
隣席でフィオナが気色ばむのがわかったが、ウルスラは無視した。
「出し惜しみとは心外ですな、ミス・ウルスラ」オノ一等監が反論した。「今回の作戦、我々は全力で臨んだ」
「とぼけている時間も余裕もないんじゃないか? オノとやら」ウルスラは知っている。彼らが秘し、語らなかった手段があることを。「C類起源体、〈クトゥルーの落とし仔〉の殲滅。射撃兵装なんて使わない、神性移植者も必要ない別のやり方があったはずだ。少なくともそれは、あの〈落とし仔〉を放逐寸前まで追い詰めたはず。復活に20年を要するまでに。何故それをやらなかった?」
ウルスラの20年越しの問いに答えたのは、ニホンのミスティックレイス、永の歳経た狐の女。
「色々と足らぬでな」狐の女は答えると、何かを思い出すように目を閉じる。「あの時は確かに、九頭竜の眷属を滅せたと思うたのだが、このざまよ」
「伏莉様!」
「よい」伏莉は狼狽えるオノを見据えて黙らせた。「ことここに至っては、我らのみでは打つ手なし。夷狄の知恵を借りて民草を救えるのなら、一時の恥など安いものよ」
「あったんだね、やっぱり」長年の疑問が解ける。ウルスラは湧き上がる興奮を押し隠しながら言った。「〈古く忘れられた統治者〉の眷属を討つ技術が」
「クグツ舞、"倶威流ノ大太刀"」伏莉はその御技の名を告げる。「我が国に、帝の世よりも古くから伝わる破邪の舞よ。これを当代最高位の演者に舞わせ、神威を降ろして六体の傀儡武者の振るう六振りの剣に伝え、アレを討ち果たした……と、思うておった」
舞、舞踊儀礼によって神性存在の力を借り受けたのか。古来、舞踊は神々と交信する術だった。正しく行えば、高次元の神の御力を、奇跡とも呼ぶべき事象を地上に顕すことができる。かつてはどのような人間社会にもあった技術たが、今はブリタニアを含めどの国でも絶えて久しい。それを、この島国の人々は変わらず伝え続けてきたのだ。眷属とはいえ、神に等しいものの一柱を滅ぼしかける純度で。
「それはすごい。これは社交辞令でもお世辞でもないよ」ウルスラは素直に感嘆した。「でも、足らないってのはどういうことだい? これまで伝えてきた技術があれば、再実行は可能だろう?」
「剣も足らぬが、何より演者、舞い手の技量がまず足りぬ。あの時、舞を献じた演者、鈴耶シノと同等の舞い手がおらぬのだ。育ててはいるのじゃがの。皆、まだまだよ」
「そのスズヤシノ本人は?」
「あの時、舞を終えるとこと切れたわ」言って、伏莉は瞑目する。「"倶威流ノ大太刀"は無面で舞わねばならぬ。妖神邪怪の悪疫邪気を、護るものなく身に受けねばならぬ。降ろす神威と引き換えに、シノは舞とともに命も捧げた」
儀式魔術の多くは、対価を要する。それが人の命であることは、決して稀なことではない。もたらされる力が大きければ猶更に。しみじみ、神性存在などろくなものではない、とウルスラは思う。だからこそボクは〈夜明けの風〉を造り上げた。
「映像記録があれば見せてほしい」ウルスラは見てみたかった。太古から伝わる、神の御力を降ろす秘儀を。その神格、その力の在り処を示す星がわかれば、〈夜明けの風〉の手を伸ばせる。〈古く忘れられた統治者〉を打倒する力になる。「可能であれば、実際の舞も見たいところだけど、どうだろう?」
「よかろう。秘中の秘なれど、この危機に体面など気にしておったらシノにも祟られよう」伏莉は苦い笑みを浮かべた。「弟子もこの邑に呼んでおるしの」
「最後に一つ。これはボクのただの好奇心から訊くことだけど」ウルスラは問う。隠された出来事のもう半分を。「20年前、どうしてキミたちはアレと、〈クトゥルーの落とし仔〉との接触を試みたんだ?」
この街に残る全てが、20年前にクトゥルーとの接触が試みられたことを示していた。工場跡に偽装された、接触呪文儀式の痕跡。大規模に改修工事された、儀式用の非ユークリッド幾何学的歪曲空間。水中に大量に投棄された人骨は、ウェンディゴとの戦いの後に確認しただけでも、一八〇人分を下らない。工事の規模と大量死の人数から、この国の報道記録に記されてしかるべき事件なのに、ウルスラがどれだけ調べてもその記述は皆無だった。もちろん当時の政府の主導ではなく、世界中に蔓延るクトゥルーを崇める狂信者どもの仕業の可能性もあった。
答えても、沈黙を守っても"答え"につながる問い。答えなければ、それは政府の主導ないしは何らかの関与が明らかになる。
答えたのは、オノ一等監だった。
「……大海嘯から10年。界獣に脅かされ一向に進まない復興に、国民が変革を求めたのだ」オノ一等監は話し始めた。苦いものを絞り出すように。「結果、長く続いた政権与党が選挙で敗れた。発足した新たな内閣で、特種害獣に対しこれまでとは異なったアプローチが模索された。方術甲冑で戦い、駆除するのではなく、特種害獣の上位者と何らかの交渉、取引を行うことはできないだろうか、とな。……結果は、貴女の知ってのとおりだよ。C類起源体、〈クトゥルーの落とし仔〉が顕現し、二〇〇名を越える接触実験参加者を巻き込んで、新トウキョウ湾岸にいま一度の破壊、小規模な大海嘯をもたらした。当時はトウキョウ圏全土が封鎖されていた。そのお陰で人的損失が最小限で済んだのが、不幸中の幸いだったよ。私が言っていい言葉ではないがね」
雄弁な沈黙が会議室を満たした。海浜警備隊の若い士官たちが、驚きと物問いたげな視線をオノ一等監に向ける。初耳であったのだろう。無理もない。
国家を担う議員を選ぶのは民衆、されどその選良を選ぶ民衆の賢明さを保証するものは何一つない。
「この国の上にいる連中の耳に、嘯いたヤツがいるんだろうな」忌々し気に、ウルスラは吐き棄てた。「〈古く忘れられた統治者〉の一柱、〈大いなるクトゥルー〉が交渉可能な存在であるかのように。狂人かダゴン教団に連なる者か、はたまた他国の扇動者か……吟唱詩人に悩まされるのは、いつの世も似たようなものだね。でもその追及はひとまず後だ」
ウルスラは立ち上がる。
「準備にとりかかろう。キース、そこの彼女、ミズモトと一緒に、生き残りの兵から使えそうなのを選抜。突入部隊の再編成を」
「Yn eich ewyllys(御意に)」
「え? 私ですか?」
「そう。キミだ」驚きに目を丸くするミズモトに、ウルスラは言った。「あの話を聞いていても、キミは顔色を変えなかった。神性移植者にしては、ちょっと見所があるよ」
会議室の席についてから、彼女は始終、不景気な表情を変えなかった。他の若い士官たちが、絶望、蒼白、無表情と様々に表情を変える中で。この世はどんな出来事も、悪い方へ転ぶのが当たり前だと言わんばかりに。常に最低最悪な状況を考えている者は、希望を心に思い描く者に比べて、非常の場において強靭だ。
「ちょっと待ってくれ!」オノ一等監が叫ぶように言った。「再突入するつもりなのか? あの不可触領域に? 本部の判断は……」
「目の前の問題を、責任を上位者に投げるのはもうやめにしないか?」この会議室にいる者すべてに向けて、ウルスラは選択を迫る。「選ぶんだ。今、ここで。危機を打倒するか否かを。〈落とし仔〉の一柱程度、ここで討てねばボクらに未来はない」
「……なかなかに手厳しいの。夷狄の女妖は」しばしの沈黙を、伏莉が破った。「この度の責は儂が負おう。この邑の結界、ここまで蝕まれては、どのみち儂の責も問われねばなるまい」
「伏莉様……」
疲れ、縋るようなオノ一等監を一瞥して、伏莉は言った。
「それにウルスラとやらには、勝ち筋が見えておるようじゃ。そうであろう?」
ウルスラは言葉にせず、にやりと不敵な笑みで答えてみせた。
「さあ、時間は残り少ないよ。フセリ、だっけ? 早速、舞踊について見せてほしい」
「承知した。すぐにヒヨリを呼び寄せよう」伏莉は立ち、扉に向かって身を翻す。「ついて参れ。しかしアレらの知識については、そなたらに一日の長があるのう」
「ボクらの国は、大海嘯の前からあっちの干渉が幾度となくあったからね」ウルスラは伏莉の背を追う。「否も応もなく、さ」
妖精たちが去った後、ブリタニアにおいては魔術を探求する人間たちが〈古く忘れられた統治者〉についての知識を深めた。ある者は森羅万象世界の真理を探究するため、またある者は神の座、虚空の一座に至るために。人界と妖精の世界を行き交う"取り替え子"たちが、その知識を妖精たちの住まう霧の向こうにもたらした。
伏莉は振り向き、ウルスラに問う。
「そなたたちは滅ぼせるのか? あの化外という言葉すら遠い、祀りえぬ神の仔を」
「私たちはそのためにやって来たのです。霧の帳の彼方から」ウルスラは答えた。「力を尽くしましょう。蒼天にかけて」




