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紙杯の騎士  作者: 信野木常
第5話 はじまりの場所
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5-2 うち棄てられた遊園地

 身じろいだ拍子に、頭の左が軽く痛んだ。浮上しつつある意識が痛みと記憶を結びつける。ああ、またここを打ったのか。あの時は七針縫ったんだっけ。話せるようになると、海浜警備隊の人に色々質問されて、その後で父さんに拳骨もらったんだった。あれは痛かったよなあ。それから「叱るべきなのか誉めるべきなのかわからん」「だから叱って、少しだけ誉める」とか、わけのわからないことを言われて延々とお説教を食らったんだった。姉さんも姉さんで「確かに私は、拾ったものはちゃんと面倒見なさいって、言ったけど、言ったけど……」とか言って溜め息ついてた。

 微睡の中でケイは思い出す。あの時のことは、メイハとアヤハに会った時のことはよく憶えている。ネリマ市に越してきて、父さんの店がオープンして二ヶ月目くらいだった。母さんが病気になって入院して、父さんと姉さんは店と病院を行ったり来たり。家族皆が慌ただしくしていた頃のことだ。まだまだ小さかった僕は、それでも父さんと姉さんの負担にならないようにと、なるべく一人で静かに過ごそうとしていて。



 ケイはフェンスの下の窪みを這って潜り抜けると、窪みに腕を通してバックパックを引き入れた。シャツの腹についた土埃を払って、バックパックを背負うと茂みから顔を覗かせる。右に左に周囲を窺い、誰もいないことを確かめてから茂みを出る。向かうは巨大な鉄の船。一人ぼっちの冒険で見つけたお気に入りの場所だ。

 初夏の日差しに目を伏せながら、ケイは水浸しの広場を駆ける。耐水ブーツだから少々の水は平気だ。深いところは、飛び石のように覗くローラーコースターを踏んで跳び進む。台風続きで何日も来られなかったけれど、辺りはほとんど変わっていなかった。水が少し深くなっているくらいで。何か所か水が深くて進めない場所があったけれど、迂回のルートを探って進むのもまた楽しい。

 傾いだコーヒーカップの遊具に手をかけて越えると、大きな褐色の船が見えてくる。青空を衝く鉄柱に船体を預け、水没した街を臨むその様は、今にも出航しそうな帆船にも似て。昔は鉄柱にぶら下がって、宙を大きく振り子のように揺れる乗り物だったと聞くけれど。ケイは信じられなかった。こんなに大きい鉄の船が、宙に浮くわけないじゃないか。

 ケイはブーツを脱ぐとスニーカーに履き替え、鉄の船に接する建物に窓から入り込んだ。水たまりを踏んで階段を上れば、すぐに屋上の船着き場に出る。見晴らしの良いその場所から、船に跳び乗る。

 幾列もある座席の背もたれを駆け、柵を越えて舳先に立った。ここからは水没した街並みと、その向こうの新トウキョウ湾が一望できる。ケイはここから臨む風景が好きだった。物心ついた時から世界は界獣の、理不尽な脅威に晒されていて、どこに行こうにもその危険が付きまとう。どれだけ望んでも、ある場所から先には進めない。でもここからの風景を見ていると、世界は今いる場所からどこまでも拡がっている。そんな風に思えたから。

 ケイは舳先の赤く塗られた床に座ると、バックパックから弁当を出して横に置いた。店のテイクアウト容器に入っているのは、父が作り置いてくれた唐揚げと、ケイが残り物で作った炒飯だ。今日は金曜日で授業は昼まで。父は店で忙しく、高等部生の姉は当然学校だ。夜まで一人で過ごさなきゃならない。そんな今日のような日は、ケイは日が落ちるまでこの場所にいた。弁当を食べた後は、図書室で借りた本を読んだり、昔は遊園地だったというこの場所を探検したりして過ごす。

 弁当の次に出した本は、アン・ローレンス著"五月の鷹"。昔、母に絵本で読んでもらってから、ケイは騎士物語が好きだった。バックパックからスープの入ったマグボトルを出すと、さあ食べようと弁当に手を伸ばして

 横を見ると、弁当がない。ぱしゃんと鳴った水音に、ケイは船下を見下ろした。

 裸足の小さな人影が、猛スピードで駆け去ってゆく。その手に、みはた食堂の弁当容器を引っ掴んで。その姿は伸び放題の黒い髪に覆われて、まるで手足の生えた汚いモップのように見えた。

「待て!」ケイは叫ぶも、モップびとは欠片も止まる素振りを見せず、瞬く間に小さくなっていく。「なんなんだよ、もう!」

 一人ごちると、ケイは船を飛び降り階段を下って、駆ける背中を追いかけた。空腹と予想もしない理不尽に苛立ち、駆け足が自ずと速くなる。

 モップびとは、とんでもなく器用に水没していない瓦礫や遊具を踏んで跳び、伝って駆ける。この辺りを探検してよく知っているケイでも、なかなか追いつけない。それでも近道を知っていることもあって、見失うこともなかった。

 ケイが乾いた坂道に行き当たると、モップびとの汚れたスウェットの背中が、坂の上の大きな建物に消えるのが見えた。確かあそこは、体育館みたいな場所だったはず。更衣室か何かだったのか、沢山のロッカーを見た覚えがある。

 ケイは建物に辿り着くと、息を整えてから入り込んだ。なるべく音を立てず、静かにゆっくりと。見渡せば屋根の半分ほどは崩れ落ち、残った半分もあちこち破れて陽の光が射し込んでいる。

 壁が崩れた建物の隅。瓦礫が重なり小山のようになった一角から、かすかに物音が聞こえてくる。音の源を目指して、ケイは忍び足で向かった。瓦礫の丘を登り、音の在り処を見定めようと、そっと顔を覗かせる。

 眼下の光景を見た時、少年の心を占めていた苛立ちはあっさり消えてしまった。替わりに湧き上がってきたのは、ほんのりと暖かな不思議な感情だ。

 モップびとが、もっと小さな毛布ぐるみの子どもと弁当を分け合って食べていた。二人とも手づかみで、一心不乱に炒飯を口にかきこんでいる。小さな子が喉に詰まらせたのか苦しそうにすると、モップびとがペットボトルの水を飲ませた。モップびとの姿が、よりはっきりとケイの視界に入る。背丈はケイより少し小さいくらい。その顔も思っていたより幼くて、小さな子より一つ二つ上くらいにしか見えない。

 からん、とケイの手元の瓦礫が音を立てた。

 ケイがまずいと思うのも束の間、モップびとが気づいて見上げてきた。モップびとは敵意剥き出しの目でケイを睨むと、SHaaAAAA!と威嚇の唸りを上げる。その勢いに気圧されて、ケイはバランスを崩し瓦礫の小山を転げ落ちた。

「あ、痛……」

 体を起こして確かめると、左手を少し擦り剥いていた。

 あの子たちは何なんだろう。どうしてこんな場所で。幾つもの疑問が、いまだ幼い少年の頭を過ぎる。けれど、ケイは自分でもよくわからない衝動に駆られて、鉄の船に向かって走り出した。

 船に着くなり、舳先に向かう。荷物をバックパックに放り込むと肩にかけ、ケイは船体に傾いだ鉄柱を伝って下に降りる。階段を使うのがもどかしい。水たまりを越え坂道を上って、大きな建物に入ると再び足を忍ばせた。そろりそろりと静かに瓦礫の小山を登る。大きな壁材から顔を覗かせて見ると、二人の子どもはまだ食事中だった。

 モップみたいな年嵩の子は手のひらを舐め、毛布の小さな子は弁当容器に顔を突っ込んでいる。

 ケイはバックパックからマグボトルと紙カップを出すと、二人に向かってゆっくりと瓦礫の小山を下った。すぐに気づかれ、年嵩の子が怒りの形相で威嚇してくる。

「大丈夫、変なことはしないから……って、変なことって何さ」言った自身に突っ込みながら、ケイはゆっくり二人に近づく。ボトルの蓋を開けて、紙カップに注ぎながら。「どう? まだあったかいよ」

 ケイはスープを注いだ紙カップを差し出した。

 年嵩の子が鼻をひくつかせて、湯気の上る紙カップに視線を向けた。怒りの形相が溶け、驚いたような困ったような奇妙な表情に変わる。うーと小さく唸りながらにじり寄ってくると、手を伸ばしかけては引っ込めてを繰り返す。

「その子の面倒を見てるんだろ?」ケイは、年嵩の子が小さな子に食料を多めに与えているのを見て取った。「なら、きみもしっかり食べなきゃ」

 年嵩の子の様子から、言葉が通じているのかは怪しい。けれど、ケイは言わずにいられなかった。理不尽を前に誰かを助けようとしている人は、もっと誰かに助けられていい。そう思うから。

 年嵩の子はケイの目とカップを交互に見ると、ケイの左手ごとひったくるように両手でカップを掴んだ。

「わっ!」

 予想外の強い力に引き寄せられて、ケイは転びそうになる。しかし年嵩の子はお構いなしに、ケイの左手ごとカップを口に運んだ。

 汗と垢、糞尿の混じったにおいが鼻を衝く。動物園のにおいだ、とケイが思うのも束の間、間近で見る年嵩の子の表情に余計な想念は吹き飛んでしまう。

 スープを啜ってカップを下ろしたその顔には、ほのかな湯気に彩られて、かすかな笑みが浮かんでいたから。

 この子もしかして、女の子? 気づいたケイは急に気恥ずかしくなって、カップから手を離そうとする。しかし彼の左手は万力か何かで固定されたように離れない。外せない。

 そんなケイを気にする素振りもなく。汚いモップのような女の子はスープをもうひと口飲むと、カップを小さな子に与えようと運ぶ。

「ちょ、ちょっと待って痛いよ痛いってばああああ……」

 ケイはそのまま引きずられていった。



 思えばあの時、封鎖地区に侵入していたことを怒られるのを承知で、僕が二人のことを大人に話すことができていたら、その後の結末はまったく違ってたのだろう。

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