4-9 青い炎
手すりに足をかけたところで腕を引かれ、メイハは我に返った。
「無茶です姉さん!」そう言うアヤハ自身も、珍しくその紅い瞳に動揺を隠せていない。「追って泳いで行っても、界獣はどうにもできません」
界獣の咆哮が轟き合う中。メイハとアヤハの目の前で、ケイは巨大な騎士に変じて海へと駆け出していった。肩に赤毛の小娘を乗せて。
「ケイは一体何をしてるんだ?」誰ともなく訊きながら、メイハは手すりの向こうの光景から視線を外せない。「騎士のようなヨロイで、界獣を斬り殺しているぞ」
「駆動音と形状はブリタニア連合の星辰装甲ハイランダー…… いえ、騎士級に近いようですが。わたしはみたことも読んだこともない。公表されていない騎体ですね」
ブリタニア製のヨロイで、ケイが界獣と戦っている。乙種方術甲冑の勉強などしていることから、将来の進路にそっちを考えているだろうことはメイハも察していた。それがいきなり何なのだ? 異国の娘と遊び歩いていると思えば、剣を振り回して界獣どもと大立ち回りを繰り広げている。
「恐らく、いえ確実にあの女が手引きしたのでしょう」アヤハの声音は静かだが、内に滾る怒りを隠せていない。「兄さんはああいうひとですから。ろくな力もない癖に、誰かを助けようと手を伸ばしてしまう。相手が人でも、人でなくても」
街でサイレンが鳴り響き、公園内の人々が我先にとシェルターに向けて駆け出してゆく。
海上の騎士が、夕陽に向けて黄色に燃える剣を突き上げる。陸に向かう界獣どもが、次々に咆哮を上げて行く先を変えた。一斉に、剣を振りかざす騎士に向かって。
波のように押し寄せる界獣を、ケイの駆る騎士は斬り殺す。殺し続ける。どういう仕組みなのか、刃が一撃するだけで界獣はぼろぼろと砕けて海に消えてゆく。騎士が振るう剣の間を縫って、鎧姿の娘がハンマーを振るう。物語の妖精のように、脚の翅から光の粉を振りまきながら。
ケイは界獣と戦っていて、自分はそれを見ていることしかできなくて。しかし今、この状況で何ができる? 何をしたい? メイハは己に問いかける。ワタシはケイをどうしたい?
その時、世界を貫いたのは音か、匂いか。はたまた色か味か圧力か。聞くもの嗅ぐもの見るもの味わうもの感じるもの生きとし生けるものすべてが、ただ一つのその感覚に塗り潰された。
其は人知の及ばぬ深い深い海の底から。強大なる神の眷属がいずる先触れ。
「何だ、この感じは……」全身を圧するような奇怪な感覚に、メイハは戸惑う。「アヤハ?」
傍らの妹は、目線を宙に置いている。何かを"みている"。メイハがそれを理解した瞬間、後方で甲高い悲鳴が次々に上がった。
言い表せない嫌なものを感じ取り、メイハはアヤハを抱えると横っ飛びに跳び退いた。宙に浮く身をくねらせて、悲鳴の元を見る。
「っ!?」
公園の出入り口付近。門扉の前で、一人の若い女が変形してゆく。女が体を掻きむしるたびに、ブラウスが裂け人のものだった皮膚と肉が剥げ落ちて、人ではない何かになってゆく。蚯蚓か烏賊のような触手がぐずぐずと蠢きながら縒り合いねじれ合って形を成し、飛行など到底できそうにない未熟な皮膜の翼が一本だけ生え伸びる。更に生え伸びた一本の触手が、悲鳴を上げて立ちすくむ女の胸を貫いた。
撒き散らされる血飛沫に、周囲の人々は脱兎のごとく駆け出しその場を離れてゆく。倒れ伏す女の傍らに、目を見開いたまま固まった幼女を残して。
その時、どうしてそんなことをしたのか。メイハは後になってもよく説明できなかった。
メイハは左わきに妹を抱えたまま、そばに乗捨てられていた自転車を右手で掴むと投げつけた。女だった怪物に向かって、全力で。
衝撃に、若い女だった怪物の巨体が揺れ、折れたスポークが幾本も刺さる。泥除けのスチール片が喰い込んで体液が垂れ、地面を赤く濡らしてゆく。
iIIIiaaatttaaAAAAA!!
怪物が呻きを上げ、尖った触手をメイハたちにさし伸ばす。弾丸じみた速さで迫るそれを、メイハは左に跳んでかわした。常人では在り得ない一二メートルほどの距離を、ただ一蹴りで踏破しながら。
怪物の触手は、更に狙いを定めて毒蛇のように鎌首をもたげている。何だか知らんが厄介な。こっちは早くケイの状況を確認したいのに。メイハは胸の内でひとりごちながら、今度は駐車してあった水陸バイクに手をかけた。街は緊急避難警報が鳴り響いている。もう見ている輩はいないよな。
メイハはハンドルを掴むと、頭上に振り上げた。100キログラムを下らないそれを、右腕一本で。ぶつぶつと切れる筋繊維と軋む骨、軟骨が発する痛みに顔をしかめる。この程度、何のことはない。あの時のケイに比べれば……鋭い呼気とともに、バイクを投げる。
ほぼ一直線に飛んだバイクは、怪物にぶつかった瞬間にバッテリーが損壊し大破炎上。蠢く線虫塊のような巨体を青い炎で灼いた。
AAAAAAAAtttAAAaaaaaaaA!!
悲鳴じみた咆声が空気を震わせる。効いている? メイハが次のバイクに手をかけたその時
風が、翔け抜けた。
それが翼持つ人の姿だと、メイハが認識できたのは瞬きの後のこと。白と黒鉄色の翼ある者は、夕陽に煌めく銀の鎗で怪物を貫いた。
a……かすかな呻きだけを残して、音もなく怪物が崩れ去る。先ほどまでの惨劇が嘘のように、跡形もなく。
ちりちりと体内に走る回復痛に眉根を寄せつつ、メイハは翼ある者から目を離さない。今度は何だ? ケイのことといい怪物のことといい、今日は奇妙なことが多すぎる。
翼ある者、槍を持った鎧の女は、怪物の消滅を見届けるとこちらを向いた。
兜で視線の在り処はわからない。しかし周辺に動いている人間はワタシしかいない。メイハは警戒に身構え、妹を抱える左腕に力をこめる。
すると鎧の女は穂先を上げて鎗を立て、両手のひらをこちらに向けた。敵意はないことを示すように。そして躊躇いがちに、兜に覆われていない口元から言葉を発した。
「君、何ものナノ?」
「?」
思いがけない外国訛りの問いかけに、メイハは戸惑う。
すると鎧の女は何かに弾かれるように空を向き、翼を広げて飛び立った。長い銀の髪をなびかせるその姿は、瞬く間に小さくなってゆく。
「何なのだ、まったく」
メイハがごちると、脇でアヤハが身じろいだ。
「姉さん、そろそろ放してください」
「すまんが、しばらくこのままだ。ケイを見に行くには、このままワタシが駆けたほうが早い」
「…あまり揺らさないでください」
「善処する」
メイハは元来た道を駆け戻る。人目はないから全力で。
「聞いてください、姉さん」抱えられたままアヤハが言った。焦っているのか、珍しく口調が早い。「もうすぐ"とんでもないモノ"が来ます。停止しているヨロイがあったら、其処へ。わたしが動かせるようにします」
「とんでもないモノ?」
「わたしにだってわかりません。とにかく大きく、強く、底知れぬほど深く、臨めぬほど高いモノがやって来ます」アヤハはそこで言葉を切ると、言った。胸の内をふり絞るように。「兄さんが、危険です」




