2-7 CaiとUrsula
街灯に照らされた夜の町に、人影はない。
周辺地域の市民の避難はほぼ完了との連絡が入っている。しかしあくまで"ほぼ"だ。市も全住民の所在を完全に把握できているわけではない。逃げ遅れた誰かがまだいるかもしれない。サクラオカ町シェルター第二ゲートの前で、警備担当の柳瀬ナオキはまだ見ぬ避難者を待っていた。
ururuuuuuuuuuuuaaaa……
時折、海の方角から聞こえてくる界獣の咆哮に身震いする。海浜警備隊が出動しているはず。ここまでは来ない。界獣が居住区画まで来たことは、ナオキがヒジリ警備保障に就職してからの一二年間に一度たりともないのだ。今回も大丈夫に決まっている。
それでもやはり、遠い咆哮を聞くと体が震えてしまうのは、幼い頃の記憶故か。ナオキは今年で三五歳になる。覚えているのだ。30年前、大海嘯のあの日、母に手を引かれてマンションの屋上へ逃れた時のことを。隣接するマンションの屋上に、上昇した海面から界獣が飛び出して、ナオキたち同様に逃げのびた住民に襲いかかった。上がる悲鳴と絶叫。血混じりの喉が出す金切り声は、生涯忘れられそうにない。人々が界獣に喰いちぎられ引き裂かれ圧し潰され、屋上のアスファルトが血と臓物で塗れていった。間一髪、自衛隊の救難ヘリが間に合わなければ、自分も同じく屋上の塗料と化していたことは想像に難くない。
サクラオカの名の通り、サクラオカのシェルターは地域でも標高が高い丘陵部の中腹に建設されていた。第二ゲートのある位置からは、眺望良く町並みが見渡せる。楽な仕事だ、とナオキは思う。人や車、ヨロイが来ればゲートを通し、万一、界獣が来ればゲートの内に逃げ込むだけだ。
今も車一台、ヨロイ一傀体の影も見当たらない。海浜警備隊の方術甲冑と界獣が交戦しているのだろう。時折、遠く東の方からGyiiaaaAAA……と苦鳴のような咆哮が聞こえる。
そんな音に気を取られていたせいなのか。ナオキが気づいた時には、もうその二人の人影はかなり大きくなっていた。
「すみませーん!」
街灯に照らされて少年が駆けてくる。その隣には、パーカーのフードを目深に被った小柄な少女がいた。
避難者だ。こんな時間まで何処で何を? そんな疑問がナオキの頭を過ぎるが、今はそんなことを考えている場合じゃない。
「怪我人か?」
同僚の須永が、同じ光景を見て言う。
言われて見れば、少年は誰かを背負っていた。
「行ってくる!」言いおいて、ナオキは少年たちに向かって駆け出す。「君たち、大丈夫かい!?」
声をかけながら近づくと、見えてくる。少年は十代半ばくらい。少女はフードのせいで顔は見えないが、同い年くらいか。少年の背で、老婆が目を閉じている。
「はい!」利発そうな少年が、息切れしながら答えた。「僕らは、大丈夫です。お婆さんも、眠ってるだけで……」
「手伝おう」ナオキは少年から老婆を譲り受け、背負う。少年たちを先にゲート行かせようと、振り返って「君たちは先にゲートへ」
行ってくれ、と言いかけて彼は言葉を止めた。
振り向いた先には、人影一つなかった。
* * * * *
仁木さんのお婆さんをシェルターの係の人に預けた途端、赤毛の少女は「行こう」とケイに耳打ちするなり、彼の手を掴んで駆け出した。
つんのめりそうになりながら、ケイも慌てて一緒に坂を駆け下りる。道を曲がって進んでまた曲がって、着いたのはシーソーと鉄棒、ベンチが一つあるだけの小さな公園だった。
ふぅ、と息をついてケイはベンチに腰掛けた。呼吸を整えながら隣を見れば、彼女もフードを上げて大きく息をついている。急にどうしたというのだろう。ケイの頭に疑問が過ぎる。つられて付いてきたけれど、別にあのままシェルターに避難してもよかったのではなかろうかと思う。
「どうしたのさ、急に」なので、ケイは疑問をそのまま口にした。「シェルターに保護してもらっても、よかったんじゃないかな。君はその……」
ミスティックレイス。それも異国の。普通に考えれば、田舎者のケイでも超VIPだとわかる。こんな状況だ。公的機関だって真っ先に保護してくれるだろうと思える。
「そう、ボクは"コレ"だからさ」少女は赤いくせ毛を軽く指で引っ張ってから、尖った右耳の先をちょんとつつく。「騒ぎになるのは嫌なんだ。今ここにいるのは、お忍びというやつでね」
ブリタニア連合のミスティックレイスは、尖った耳の美貌の男女が多い。その姿と立ち居振る舞いは、海外産ファンタジー作品に慣れ親しんだニホン人に、物語の妖精種族エルフの姿を彷彿とさせた。そのためEUのミスティックレイス戦乙女と並んで、ブリタニアの妖精たちはニホンでは高い人気がある。今では国内外のファン向けに写真集なども出版されているくらいだ。
かつての首都圏、統京二三区も今は昔。田舎のネリマ市くんだりに、ブリタニアの妖精美少女が現れれば、ちょっとした騒ぎになるのは確実だ。
「お忍び、かあ」
そんなこともあるのだろうとケイは納得する。ちょっと釈然としないような気がしなくもなかったが、相手は人類の救済者の一人だ。汎人である僕など思いもよらない事情もあるのだろう。
「それにさ」少女はベンチから立ち上がると、ケイの右手を両手で持って引っ張った。「今のこの街で一番安全な場所は、キミとボクがいるここだよ。我が騎士」
手を引かれてケイは立ち上がる。その右手首で、銀の小輪が連なる腕輪がチャリンと音を鳴らす。
それは星辰装甲〈夜明けの風〉が、形を変えたものだった。界獣との戦いを終えた後、ケイがヨロイの要領で除装を行うと、たちまち星辰装甲は消え、右手首の腕輪だけが残った。「それは〈夜明けの風〉そのものというよりは、収納倉庫の鍵みたいなものさ」と赤毛の少女は言っていた。
差し迫った困難を打開して、ケイは〈夜明けの風〉の返却を申し出た。もともと緊急避難的に手にすることを決めたのだ。今となっては身に余る力だと思うから。
「本当にありがとう、助かったよ」言ってケイは腕輪を差し出した。「今はもう、これは返すべきだよね」
すると彼女は小首を傾げ、ひどく不思議そうに目を丸くした。「え、なんで?」
「え?」とケイも同じく返してしまう。何だか色々認識の食い違いがあるみたいだ。だからケイは順を追って説明してみた。「これ、すごく高価なものだよね。ニホンの甲種方術甲冑とかよりすごいものだよね」
界獣の脅威からニホンを護る、海浜警備隊に配備されている甲種方術甲冑は一傀体、首都キョウトで戸建ての家が五戸買える額は下らないと報道されている。
その甲種方術甲冑より、ケイにはこの〈夜明けの風〉がはるかに高性能に思えた。自身の体を操るのと変わらぬ反応と運動性、界獣を一撃で屠る武器。それらは、ケイがテレビ放送や新聞雑誌で知る限りにおいてだが、この国の最新鋭の甲種方術甲冑にすらないものだ。
「そうだね。ニホンの方術甲冑なんかとは比べようもないね」
あっさり言う少女に、ケイは食い下がる。
「僕、お金ないよ」
「いらないよ。そんなもの」
「僕は、ただのニホンの学生だよ」
「そうだね。そうだったね」
ケイの言葉に短く返しながら、赤毛の少女はにやにやと笑みを深くしてゆく。
あれ、ひょっとして僕、からかわれてる? ケイが気づいたのを察したのか、少女はようやく言葉を紡ぎだす。
「キミは、妖精の剣を得る対価を既に支払い済みだよ」少女は、腕輪をケイの腕に嵌めなおした。「だから〈夜明けの風〉はキミのもの。このボクによる無期限サポート付き。お得だね!」
「でも……」
言い募ろうとするケイを両手のひらで遮って、赤毛の少女は目を閉じる。内なる何かを探すように。あるいは思い出すように。
「あるべきものが、あるべき場所に辿り着いただけ。勇気と冒険に応えることは、私たち湖の貴婦人にとって存在理由そのもの。それを奪わないで。それに……」
言葉を切って瞼をやや上げ、少女は半眼の眼差しでケイを見つめて、告げた。
「すぐにまた、必要になるから」
また、必要になる。その言葉に押し切られるように、ケイは腕輪を、妖精の剣を受け取った。本当に良いのだろうかという思いは、まだあった。けれど、ここで簡単に放り出すこともしたくなかった。今は、キミがいい、と言ってくれた彼女の選択、剣を取った自分の選択、その先をもう少しだけ見てみたい。
赤毛の少女はケイの前で、両手を広げて踊るようにくるくると回りながらシーソーに駆け登る。
「ボクが支援し、キミの駆る〈夜明けの風〉は、ブリタニアとニホンの武装祭器の中では最高位の戦力さ。世界最高!」
言った瞬間、少女を端に乗せたシーソーは重力に引かれてガタンと落ちた。
「…って言いたいところなんだけど、EUの不死戦士や先住民国家群(First Nations)の精霊装者にはヤバイのがいるし、USAの古の対神兵器群も未知数だし……世界一って断言できないのが悲しいところだよ」
競技会か、せめて撃破スコアの公表でもあればねー。あ、アングリアの黒騎士のヤツがいやがったか。と語る姿は楽し気で。
ふとケイは気づく。あれ、僕と彼女、なんだかなし崩し的に一緒にいることが前提になってない? 彼女、国際的VIP。僕、普通の高等部の学生。星辰装甲の件もだけれど、今のこの状況、問題だらけどころか問題しかない。
これからどうするのか、どうしたいのか。話そうとケイが口を開きかけたその時、くきゅぅと小さな音が鳴った。ケイではない、少女の方から。
「……聞こえた?」
心なしか、顔を赤くした少女が言う。何と答えたらよいものか。一五歳の少年には難題だ。
「えーと、お腹すいたね」
「我が騎士、減点」
「なんでさ!」
「貴婦人の苦境には、騎士はいたわりの心を持つべきだよ。そこは『いいえ何も、我がとうときひと』とか気の利いた台詞で、貴婦人の名誉を守らないと」
そういえば僕はいつの間に騎士になったのだろう。剣を抜いた時にノリで気障な台詞を言ったのが原因かな、とケイは思うも、口には出さずに飲み込んだ。このやりとりと関係が、くすぐったくもちょっと楽しかったから。
「でもまあ、僕もお腹が空いたよ」
ケイはズボンのポケットからケータイを出して時刻を確認する。現在一九時を少し過ぎたところ。普段なら御幡家でもとうに夕食の時間だ。小さな液晶画面を見れば、メールと着信が数知れず。メイハとアヤハだ。後で返信入れなきゃな、と思う。
「で、だ。時に我が騎士」赤毛の少女はずずいとケイに迫る。「ボクは今夜、ネリマ市庁舎前のホテルを予約してたんだ」
「そうなんだ」
観光資源も大した産業もないネリマ市だが、バス駅のある市庁舎前の周りではホテルがいくつか営業している。しかし今日の緊急事態では、ホテルのスタッフも皆、シェルターに避難済みだろう。警戒態勢が解除されるのは、訓練ではないのなら最短でも明日の朝になる。営業再開はその後になるわけで、つまり……
期待に満ちた琥珀色の瞳が、剣のように細い月の明りを受けてケイを見つめている。
何をするにも考えるにも、今夜はもう人も行政もまともに動かない。時間も時間だ。ケイは期待されているであろう言葉を口にする。「粗末な我が家ですが、よろしいでしょうか? レイディ」
「もちろんです」我が意を得たり、と小さな貴婦人は芝居がかった言葉で返す。「案内なさい、我が騎士」
「ここからだと30分くらい歩くけど、いいかな?」
距離と道のりを見積もりながら、ケイは訊く。ヨロイがあれば十分もかからない距離だったが、徒歩で且つ陸路しか進めないので仕方がない。ああ、後で壊したヨロイを回収しに行かなきゃなと思う。メイハがヨロイを貸してくれるか不安だ。
「構わないよ。歩きたい気分だし」ケイを見つめながら、少女は後ろ歩きに歩き出す。「〈夜明けの風〉を使えば早いけど、それで海浜警備隊に見つかるのも面倒だしね」
二人、公園を出て歩き出す。通りには誰一人おらず、時々、界獣のものと思しき咆哮が遠く彼方から聞こえてくる。
そこでケイは、肝心なことを訊いていなかったことを思い出す。界獣に追われてから今の今まで、目が回るような時間を過ごして、二人で苦境を超えてきて、なんだかんだと自然に話ができてしまっていて、大事なことを忘れていた。
「あのさ、訊いてもいいかな」
ケイの問いかけに、赤毛の少女は小首をかしげる。
「何だい? 我が騎士」
「えーと、その前に」ケイは歩きながら背筋を伸ばし、少し姿勢を正してから言った。「僕の名前は、御幡ケイ。失礼じゃなければ、名前を教えてほしいな、なんて」
「あ!」少女は一瞬、呆気に取られたように目を丸くすると勢いよく話し出す。「ボクもすっかり忘れていたよ! そうだね。お互いの名前、名乗ってなかったよね」
そこで少女は立ち止まって居住まいを正すと、あの泉の世界で見せたような、右足を後ろに下げる小さなお辞儀をしてから言った。「ボクの名前はウルスラ。後に家族名が続くけど、長ったらしいからウルスラだけでいいよ。サー・ミハタケイ、でいいのかな?」
「そっか、あっちの国ではニホンの名前と姓名が逆なんだね」サーはともかく、とケイは訂正する。「僕はケイ。ミハタは、名字、家名、Family nameになるのかな」
「ケイ……けい、 Kay、Cei」ウルスラは、その名を何度も噛むように繰り返すと「Cai Hir! いい名だね! 実にいい名前だよ!」
興奮した面持ちでケイに飛びかかり、両手を彼の首に回して抱き着いた。
「うわっ」急な重さを受けて少しよろけながら、ケイはウルスラを抱き留める。野の花のような甘やかな香りと、やわらかく暖かな感触に耳と頬が熱くなる。「ちょ、ウルスラ?」
「そう、ボクはUrsula!」ウルスラはケイの耳に口を寄せて告げた。花咲くような笑みを浮かべて。「これからよろしくね! 我が騎士 Sir Cai!!」
* * * * *
剣のような月を背に、銀の鎗が淡い光の尾を引いて閃く。鎗は少年の胸の中央を貫き、次いで人だった異形を穿ってビルの壁面に縫い留めた。
胸の穴から盛大に鮮血を迸らせ、少年は仰向けに倒れ伏す。ごぽりと口から溢れる血が、彼の褐色の肌を赤く塗ってゆく。
トヨシマジョウ公園駅前のビルの谷間に、風のように降り立つ姿が一つ。パンツスーツ姿の少女が、長い銀色の髪束を靡かせ駆けてゆく。一直線に、倒れた少年の元へ。大きな翡翠色の瞳に涙を溜めて。
壁に固定された異形は、その赤黒い蚯蚓めいた触手の束をかき集める。束はやがて人の頭と手足のような形を成して、崩れて、成して、崩れてを繰り返す。まるで人の形に戻ろうとするかのように。しかしすぐにその動きは緩慢になり……停まった。
かつん、と小さな金属の輪が落ち転がってゆく。壁に突き立った鎗を残して。
ぼろぼろと崩れて消えてゆく異形を余所に、少女は膝を着き少年を抱え起こした。
少年の胸から飛び散った血は、アスファルトとビルの壁に赤い前衛画を描き、彼の口からはなお鮮血が溢れる。目の焦点は合わず、かひゅーかひゅーと塞がる気道を確保せんと動く喉の力が、徐々に失われてゆく。
「ごめんネ、ごめんネ、痛いヨネ……」
たどたどしいニホン語で謝りながら、少女は少年の胸にその白い手を当てた。血とともに流れ落ちる命を、留めようとでもするかのように。瞬く間に手は真っ赤に染まり、やがて少女のスーツを浸す。どこか潮に似た血臭のなかで、少女は額を少年の胸に押し付けことばを紡いだ。余人に聞こえぬ調に乗せて。それはニホン語でもブリタニア語でもない異国のことば。歌と祈りが分かたれる前の、古い古い願いの形。高みのものへの訴えと、対価を示しての取引の形。
カッと蹄鉄を鳴らして、少女の背後に黒い鋼の馬が舞い降りる。黒馬は少女に耳を寄せると、首を横に振りヒヒンと一声いなないた。よせ、とでも言うかのように。
しかし少女はなおもことばを紡ぐ。黒馬のいななきに対し、静かに首を振りながら、血にまみれながら歌うように祈る。やがて声は小さくなり、ことばは「―yr」の音を最後に消えてゆく。
少女は血で汚れた顔を上げ、涙を湛えた翡翠色の瞳で夜空を見上げた。その目の光に、業火のような怒りが閃く。しかしそれは一瞬のこと。瞬きの間に、怒りの火は鎮まり鈍色の悲しみが取って代わる。
そして少女は抱えた少年に目を落とした。その視線にあるのは慈しみと悲しみと、ほんの少しだけ願いに似た何か。
「ごめんネ……」
謝りながら、少女はスーツの懐から黄金色の小瓶を出す。ほんの僅かな逡巡の後、小瓶の中身を口に含むと、翡翠色の目を閉じて、血を吐きこぼす少年の唇に自身の唇を重ね合わせた。