2-1 シェルターにて
灼けつくような痛みが引いて、中川アカネはようやく目を開けることができた。つい先ほどまで腕を足を頭を顔を、肌と性器を、ヤスリで削ぐような痛みが全身を隈なく覆い尽くしていたのだ。その痛みのひどさは言い表しようもなく、思い出すだけで背を嫌な汗が流れるような気がする。
まず目に入ったのは、橙色の夕焼けの空。頭と背がひどく硬く冷たい。アカネは自分が仰向けに倒れていることに気づいて、手を着いて体を起こした。寝起きのようにぼうっとする頭を軽く振って、記憶を辿る。今日は確か大学を休んで、遺伝子調整者対象の年に一度の定期健診に行ったのだ。私は不完全発現者だから、一般の健康診断だけでいい。もう必要ない。そう両親には言っているのに、無料だし受けてきなさい、減るもんじゃないんだし、そんなことを言われて毎年受けている。
別に今更、高い能力や形質が発現したところで、何をどうする気もなかった。子どもの頃は悩んだこともあったけれど、両親も友だちも変わらず接してくれた。大学で知り合った彼とも、先月、結納を済ませたばかりだ。
もう今回で最後にしよう。今日はそう思って家を出て、シンジュクにある健診センターに向かったのだ。いつもどおりの身体測定から体力測定、採血、ペーパーテスト……そう、ストレスチェックの一環だとかで、絵を見るテストを受けて。
その後の記憶が、曖昧だった。
どうやってここに来たのか。どうしてここにいるのか。そもそもここは何処なのか?
だんだん意識がはっきりしてくる。ここは大きな建物の下。左を向けば、大きな曲面の壁がある。つん、と鼻を衝くにおいはなんだろう。鉄錆に似たそれは、壁の上の方から漂っている気がする。
アカネは壁を見上げ、徐々にその視線を降ろす。高く巨大に聳える建造物は、いつもは遠くから眺めるだけの、都市防衛システムの建物の一つなのか。そのはるか高みの頂から目の前の地面まで、何かを引きずったような赤い粘液の跡がべっとりと貼りついていた。
ぞわ……と背筋を怖気が襲う。無意識に、アカネはリングを嵌めた左手を右手で包んだ。シルバーのリングは彼と選んだもので、触れると暖かな気持ちが胸に溢れてくる。心細い時や寒い時、アカネはよくそうしていた。
しかし今日は、妙に手触りが変だった。アカネはその違和感に、手元を見て
「キャアアアアァァァァッ!?」悲鳴を上げた。アカネは自身の目で見たものが信じられず、ぎゅっと目を閉じまた開く。「あれ?」
そこには何の変哲もない、自身の両手があるだけだ。左手薬指のリングも変わらずそこにある。
はぁと大きくため息をついて、アカネは頭を振った。気のせいだ。寝ぼけていて、妙な夢の続きを見たのだと自身を納得させる。あんなもの、本当なわけがない。
私の手が、赤黒く蠢く太い蚯蚓の塊のようになっているなんて、在り得ない。
とにかくここを離れよう。離れて呼吸を整えて、彼に、コウジに電話して話を聞いてもらおう。そう思ってアカネが振り向くと、また在り得ない光景がそこにあった。
帽子と制服の男が一人、胸から血を流して倒れている。その横に、黒いパンツスーツの女が立っていた。
女は色濃い大きなサングラスをかけていて、更には逆光で表情はおろか年齢もわかり難い。彼女は見事な銀髪を一つに編んで背に流し、サングラスの奥からこちらを見つめていた。
右手に、穂先鋭い銀の鎗を携えて。
凶器と、胸から血を流して倒れた男。
アカネはその連想に導かれるままに、銀髪の女に背を向け一目散に駆け出した。
* * * * *
イシガミ町シェルターのメインホールに、近隣の市民たちが集まっていた。保護シート敷きの広い空間は、平時は体育館として開放されている。市民たちは慣れたもので、各々好きなように集まってパイプ椅子に座ったり、あるいは床に直に座って寛いでいる。ネリマ市民にとってシェルターへの避難は訓練を含めてよくあることで、緊張感はあまりない。今夜の非常食は何だろうなどと呑気に話す者たちもいる。制服姿の学生たちなどは、避難翌日の休校を心待ちにして浮かれているくらいだ。
八重垣カコがホールの壁に掲示された時計を見上げると、ちょうど一七時半を回ったところだった。腹も空くわけやなーと、鞄のポケットからポッキーの箱を取り出す。少し待てば役所の職員が非常食を配り出すんはわかっとるけどな、うちらは食べ盛りの中等部生。少しくらいええやろ。
一本くわえたところで、よく知る顔が小走りに駆けてくるのが見えた。ロングテールの栗毛が跳ねている。兄のタケヤやケイ、メイハと同じ高等部一年の大倉マキだ。かつてメイハから彼女を紹介された時、カコは驚いたものだ。人見知りというか、基本的に妹と御幡家の面々以外に無関心なメイハが、ケイを介さずに友人になったと言うのだ。どんな珍獣? と思うたことは今でも言えへんな。
「カコっち~」マキはカコの両肩に手を置くと、泣きながら縋りつくように抱きしめる。「怖かったよぉ~」
カコは年上の友人をあやすように、その背をポンポンと軽く叩くとポッキーの箱を差し出した。「あー小芝居はええから。どないしたん?」
「いや聞いてよカコっち」泣き真似を止め、マキはカコの手の箱からポッキーつまむ。「界獣だよ界獣。すっげぇ近くで見ちゃったよ。もうバスの窓際、あたしの目の前まで来てさ。でもって霧が……って、あれ? カコっち一人? タケは?」
「兄ちゃんはトヨシマジョウのシェルターだって電話もろた。うち、今日は学校残って勉強会やったんで、遅うなってな。アーやんと一緒にメーやんのヨロイに乗せてもろうて……」
「メイもいんの?」
カコはポッキーの先で、背後のちょっと先を指し示す。「メーやんアーやんならそこにおるで」
マキがポッキーの先に目を遣ると、そこには、両手をスカートのポケットに突っ込んで落ち着きなく歩き回るメイハと、パイプ椅子に座って虚ろな瞳で天井を見上げるアヤハがいた。
いつもちょっと不思議系ぽいアヤハはともかく、いつも超然としているメイハのこんな姿をマキは見たことがない。「ど、どうしちゃったの? 二人とも」
「ケーやんと連絡つかんのや」カコはポッキーの先で宙にくるくる円を描く。「サクラオカのシェルター向かったいう話やから、大丈夫やと思うんよ。でもまあ、二人にとってケーやんは特別やからなあ」
この街で玖成姉妹と御幡ケイの友人として、兄と並んで長く過ごしているカコは、メイハとアヤハがケイに向ける感情を何となく察していた。家族愛や兄妹愛と呼ぶには色づいていて、でも普通の中高生の恋愛感情かというと、また少し違うように思う。ただ、姉妹とケイの関りを少しだけ知っている身としては、そんな想いの在り方も不思議ではないと思えるのだ。ケイの父が玖成姉妹の未成年後見人だとかで、家族同然に暮らしていることは当人たちから聞いている。どうしてそうなったかについては、よく知らない。ただかつて一度だけ、メイハが言ったことがあった。「なあに、出来損ないだから棄てられただけだ」と。
聞いて楽しい話ではないのは確実なので、詳しくは訊けないし訊くつもりもない。過去にろくでもないことがあったことだけは確かなのだろう。それでも、血のつながりもないのに、しっかり家族をやっているのだ。余人のわからぬ強い絆があることは、普段の態度を見るだけでもわかる。つーか距離が近いんや距離が。特にメーやんケーやん。互いの弁当のおかずつつき合うなんて、付き合うててもそうそうやらへんやろ。
今、メイハは冬眠に失敗して飢えた熊のように、険しい顔でうろうろと落ち着きなく歩き回っている。時に苛々とポケットからケータイを出しては、バッテリー切れを確認して、しまう。そんなことを繰り返して。
その有様をみてカコは思う。いや冬眠に失敗した熊なんて見たことあらへんけどな。こわい顔して美人が台無しや。声かけようとする若いもんが、ほんまにあかんもん見た感じで回れ右しとるやん。アヤハはアヤハで何もない宙を見つめながら、小さく呟くように「兄さん、ダメですそのままでは……」とか何とか言っている。脳内ケーやんと話しとるんか。こっちもあかん。
カコはポケットから自分のケータイを出すと、ものは試しと御幡ケイの番号を呼び出しかけてみた。プルルと呼び出し音が三度鳴った後『カコちゃん、どうしたの?』
至極あっさりケイが出た。
「あ、ケーやん」
カコが言うが早いか、血相変えたメイハが殺到してきた。
「貸せカコ!」
「ちょっ、今、ハンズフリーに切り替えるからちょい待ちいって痛い痛い!」カコはケータイをメイハに握られた左手から右手に移すと、ボタンを操作してテーブルに置いた。「と、これでOKや。まったく、痣んなったらどないするんや」
「すまん。聞こえるか? ケイ?」
ちょっとの間の後、ケイから応答が返ってきた。
『メイハ? 大丈夫? アヤハもいる?』
「大丈夫かはこっちの台詞だ!」メイハがケータイのスピーカーに向かって怒鳴る。「今まで連絡も寄越さずどこで何してた!?」
耳元であれはうるさかろうなあ。カコが荒ぶるメイハを眺めていると、音もなく近づく影がある。
「兄さん、わたしもいま「そんなことより今どこにいる?」
話を遮られ、アヤハが憮然と口を噤む。
『アヤハもいるね。聞こえてるからメイハ、声落として。…ちゃんとサクラオカのシェルターにいるから』
「無事なんだな?」安堵したのか、メイハの語気が少し穏やかになる。「でもどうしてケータイに出なかったんだ? ヨロイの方にもつながらなかったぞ」
『ちょっと人助けして寄り道してて、ヨロイが壊れてケータイにも出られなうわっ『我が騎士、何してんのさ』ちょっと黙っててすぐ終わるから』
唐突に意味の通じなくなった通話に一瞬、知らない声が混じって聞こえたのは気のせいではないらしい。メイハもアヤハも怪訝な顔をしている。知らん女の声やったな、と思いながらカコはポッキーを齧った。
『大丈夫、大丈夫だから『8時の方向、また一匹。少しでかいよ!』ちゃんと帰るからっ、じゃあ切るよ!』
「おいケイ! 何して……」
通話はケイによって切られ、カコのケータイはツーツーと無機質な電子音を鳴らすばかり。
「ま、元気そうでよかったじゃん」微妙な沈黙の間を破ったのは、マキだった。「ミハタっち、なんだかちょっと楽しそうだったし。大丈夫っしょ、ってなんであたしを睨むのさメイ」
「兄さん、まるっきりの嘘をついてるわけじゃないみたいですけど」静かな声は穏やかに、地の底深くから染み出すように。冷たくじっとりと。「何者でしょうか? そばにいる女」
嗚呼、メーやんに続いてアーやんまであかんもんになってもうた。アヤハは一見物静かだが、ケイに対する感情は姉と大差ないことをカコは知っている。どないするんやケーやん。帰ったら宥めるの大変やで。ま、傍から見てる分にはおもろいけどな。
「まあまあ二人とも、飴ちゃんでも舐めて落ち着き」
甘いもんはストレスに効く言うし。カコはブレザーのポケットから飴の袋を取り出した。