奥様と呼ばないで
「奥様、お、く、さ、ま」
メイド長に呼ばれても返事はしない。
「わたくしその様に呼ばれたくありませんの。わたくしには両親につけてもらったルーナという名前がございます。先程も申した通りそう呼んで貰いたいの。どうしてもダメかしら?」
お願い。と首を傾げて言われると流石のメイド長も嫌とは言えない様で
「こ、こほん。ルーナ様。大変言いにくいのですが、旦那様のお客様が参られた様で、その、どうされますか? 追い出す事も可能ですが……」
お客様? あぁ! あの方が来たのね。結婚式の次の日に早速呼ぶなんて愛されているのね。
「まぁ、追い出すなんて! ご挨拶に行きますわ」
「おくさ、っとルーナ様自らご挨拶へですか!」
驚くメイド長にハッキリと伝える。
「えぇ、侯爵様の大事な方ですもの。ご挨拶を差し上げないと失礼にあたるでしょう? これからこの邸に住むのだから」
ジョゼフの昔からの恋人と聞いた。どんな方なのか見てみたい。っていう好奇心の方が勝っちゃったわ。
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応接室へと行くとそこにはジョゼフと恋人がいた。何やら言い争っているみたい。
執事長や周りにメイド達もいるのに何をそんなに揉めているのだか……あ、夫婦喧嘩は犬も食わないとかって諺があるから仲裁は無意味ね。ずっと夫婦の様な関係だった。と言う事。
「……あ、ルーナ」
こちらに気がつき声をかけるジョゼフ。
「こちらの方が侯爵様の恋人ですのね? はじめまして、わたくしは昨日からこちらでお世話になっておりますルーナと申しますわ。お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「ルーナ、お世話って言うのは、どうかと、」
ジョゼフが何かを言いかけて、前に出てきた女の人。おいくつくらいかしら? ジョゼフと同じ位に見えた。胸元はあからさまにぱっくりと開いていて、男性はきっとこう言う女性が好きなんだわ……そう思った。
「奥様はじめまして。私はアグネスと申します。今日からお世話になります。以後お見知り置きを」
にこっと笑う目元のホクロがとても印象的。黒い長い髪の毛は妖艶で大人の女性と言った感じね。私とは正反対。
「はい。侯爵様から聞いておりますわ。わたくしの事は気軽にルーナとお呼びください。ところで何を揉めていらしたのでしょう? お伺いしてもよろしいですか?」
メイド達の困った顔を見て、理由だけでも聞いてみた。明らかにトラブルよね?
「あの、ルーナ、大した事ではないんだ、だから気にしないで欲しい」
なぜか慌ててそんな事を言うジョゼフ。聞くのはこの人達じゃなさそうね。それなら……
「執事長、何か問題がありまして? わたくしには聞かせられないお話ですか?」
チラッと執事長がジョゼフを見るが、ジョゼフは観念したかの様に肩を落とした。
「旦那様のお客様がお過ごしになる場所についてでございます。離れは嫌だと仰いまして、部屋をどうするかと言う問題が起きております」
「まぁ! この邸には離れがあるのね?」
メイド長が窓の近くに寄り手を指す方向を見る。離れと言っても一軒家の様な大きさ。白い壁に濃い緑の屋根が上品だ。
「すてきな建物ですのね。わたくしまだこの邸の事をよく知らないので、あのような離れがあるとは存じませんでしたわ」
広い敷地内ですもの。見て回りたいわね。
「お客様は本邸で過ごされたいと仰っておりまして、旦那様は奥様が快適に過ごす為に、それは困ると断っております」
ジョゼフはキッと執事を睨むが執事はシラッとした顔をしていた。どっちに良い顔をしたいのかしら? 優先はアグネスでしょうに……
「まぁ、わたくしの事は気になさらなくても宜しかったのに。アグネス様と仰いましたよね? どうぞ本邸でお過ごしください。お部屋はたくさんありますでしょう? アグネス様が過ごしやすい様に、わたくしが離れでお世話になりますわ。それで解決という事にしませんか?」
にこりと笑うルーナ。家庭内いえ敷地内別居ね。何かあれば(ないに越した事はない)すぐに本邸に来られるし、ジョゼフに会わずに済むしいい事尽くめじゃない!
「ダメだ! 私の妻はルーナだからそれは出来ない!」
「そうです、奥様には本邸にいてもらわないといけません」
「ルーナ様が離れなんて困ります」
そんなに反対しなくても……
「侯爵様。契約①を実行いたします」
「……それなら私は契約④だ!」
「ねぇ何の話をしているの? ルーナさんがいいって言ってんだからそれで良いじゃないの!」
「アグネス様の仰る通りです。二対一ですので、わたくしは離れに行きます。家具の搬送準備をお願いしますわ」
パンっと手を叩いて、笑顔で応じる。
「……ルーナ!」
「お二人の邪魔は一切いたしません。それでは失礼しますわ。離れを見てきますわね」
うん。これでいい! 離れで暮らす事によりジョゼフの顔もアグネスの顔も見ないで済む! 契約までの一年間離れでしっかり稼ごう! 明日から私の事業を手伝ってくれる使用人も来る。
「へー。結構広いのねぇ。使用人部屋もあるし、キッチンも広ーい。うん、良いわね。ところで……この趣味の悪い家具を早くあちらに持って行く様に頼んでくれる?」
「はい、お嬢様」
お嬢様と私を呼ぶ侍女は私が実家から連れてきた。と言うかついて来た。スージーという二十歳の侍女だ。私が十歳の時から付いてくれていて頼りになるお姉さんと言う感じ。
私がジョゼフからの手紙で胸を痛めている時にスージーは何も言わず寄り添ってくれた。一人で泣いていたはずなのにスージーには分かったみたい。
よく慰めて貰ったし、唯一離縁する事も知っている信頼のおける侍女だ。
それからあっという間に引っ越しは完了。侯爵様が訪ねて来たと言うので、応接室に通した。
「すまないルーナ! なんとかして本邸に戻れる様にするから、」
「何を言ってますの? 侯爵様からアグネス様を邸に招くと聞いていましたので謝る必要はございませんわ。わたくしの事はお気になさらずに」
「そんな事が出来るほど私は冷血ではない!」
この人何を言っているのかしら?
「それでは冷血になってくださいな。契約内容は遂行しましょう。お互いそう言う約束ですから。お話は以上ですか?」
「……ルーナ」
「アグネス様がお待ちですよ? まだこちらに来て間もないでしょうし、一緒にいてあげてくださいね」
スージーに扉を開けさせ帰ってもらう様に促した。
……早く帰れっての。