後編
それは、田舎から上京してきた私のおばさんのところに遊びに行った日のこと。
おばさんとは小さい頃に会ったきりで、会うのは久しぶりだった。
おばさんは私を見て「あらぁ大きくなって。とっても可愛く成長したのねぇ」なんて言って、とっても可愛がってくれた。
それだけでも嬉しいのに、である。帰り際に、おばさんは私にこう言った。
「何かプレゼントをあげるわ。勉強の本よりも、あなたが読みたがっていると聞いたアレにしましょうか」
そう言っておばさんは、箱にぎっしり入った源氏物語本の五十冊以上をフルセットでプレゼントしてくれたのだ!!ヤッターーー!!!
しかも源氏物語以外の物語本まで袋いっぱいに詰めてくれて、おばさん大好き。ありがとう愛してる!
私のことをめちゃくちゃよく分かって考えてくれてるし、帰り道ではそのまま昇天するんじゃないかってくらい幸せだった。
今までは部分ごとにしか読めなかった源氏物語を、最初からじっくり読める。しかも全巻家にある。この喜びは、同類のオタクにしか分からないものに違いない。
しかも私を邪魔する人は誰もいないのだ。家に帰ると同時に、私は部屋で寝っ転がって、早速箱の中から一巻を取り出した。
完結に言うと、源氏物語は最初から最高だった。紫式部先生こそが、私にとっての神様であり仏様。
まず一番初めに書かれた、光源氏さまのお父さまである帝と、その妃のお母さまの恋物語の時点で既にしんどい。
光源氏さまのお母さまは桐壺の更衣という、身分は低いけれど由緒あるお家のお嬢様。他の身分の高い妃にいじめられながらも、帝の愛を一心に受けるのだ。
最終的に嫉妬されまくって病気で亡くなってしまうのだけれど、そんな儚げなところもまた尊い。
そして何より彼女は、光源氏さまを産んでくださった偉大なるお母さまだ。本当に感謝してもしてもし切れない。
身分が高くて優しくて女性の扱いもよく分かってて、何より顔が良い。ああ光源氏さま、生まれてきてくれてありがとう!
源氏物語を読んでいられるなら、現実世界で帝にプロポーズされても正直どうでもいいくらい。
私の王子様は光源氏さまただ一人。
源氏物語沼に浸かっていられることは、私にとっては皇后になるよりもずっとずっと嬉しくて幸せでありがたいことだ。
昼間はずっと、夜も寝落ちするまで源氏物語本を読んでいる。繰り返し読んだからもう覚えちゃって、何も見なくてもすらすら言える。それほどまでに、源氏物語は沼だった。
そんなこんなで毎日源氏物語本を読むだけの至福の生活を送り、生き生きと推しごとを楽しんでいたある夜。
夢の中に、黄色い服を着た清潔感溢れるイケメンな僧が出てきた。
思わず「光源氏さまには遠く及ばないけど、こいつもなかなか顔が良い……」と、私は少しの間彼に見惚れていた。
いけない、私としたことが、つい浮気してしまいそうになった。
夢にまで出てきて何だろう、もしかして私に告白?!
ごめんなさい、私にはもう光源氏さまがいるのよ……と返す妄想までしたところで、イケメン僧は静かに、一言口を開いた。
「さっさと勉強しろ」
……この坊主!ハゲ!
私だって勉強が必要なのは分かってるけれど、推しごとより私に必要なものは他にあろうか、いや、無い。
だいたい黄色い服なんて、バカっぽくて見てられない。ちょっと面が良いだけで偉そうにして。夢の中の存在でしかないくせに、一体何様のつもりなのか。バーカバーカ。
私の中で彼の評価が見事にひっくり返るが、いくらイケメンでも言っていいことといけないことがある。彼は私に言ってはいけないことを言ったのだ。
もしかしたら彼は、源氏物語の良さを知らないだけなのかもしれない。もしそうなら私が全身全霊、粉骨砕身の覚悟で布教をするのだけれど、こんな頭の固そうな坊主に尊みなんて分かるわけがない。
私は心の中で悪態を吐きまくって、目が覚めてからも夢のことは誰にも話さなかった。
もちろん、言われたような勉強もしない。あんな堅物ハゲ野郎の言葉になんて、従うもんですか。
私にとっては源氏物語が全て。これ以上に尊いものなんて、他に無い。
私はまだ田舎から出てきたばっかりの芋女だし、冴えない普通の女の子だ。けれどあと少し成長したら、きっと物語に出てくるような美人に生まれ変わるのだろう。
例えばそう、光源氏さまに愛された私の推し、夕顔ちゃんみたいな。宇治の大将っていう人に愛された、浮き舟の姫君みたいな感じでも良い。
夕顔ちゃんは登場回数は少ないけれど、ふわふわ系の可愛い美人さんである。庶民のエリアにあるお家に住んでいるような人なのに、おっとりしてて上品で、朗らかな性格。貴族女性の鏡みたいな人だ。
まさに、白くて可憐な夕顔の名前を持つにピッタリのキャラである。名は体を表すとよく言うけれど、本当にその通りだ。
そんな夕顔ちゃんに光源氏さまも夢中で、変装して素性を隠してまで会いに行くほど。めちゃくちゃ愛が深いと思うし、そのエピソードだけで私はお米のご飯を五杯はいける。
そんな素敵な恋をしてみたいし、夕顔ちゃんみたいに素敵な王子様に愛されたい。
嫁にしたいと言うよりは、私も夕顔ちゃんみたいな女性になりたいと思うような、そんな推しである。はあ、夕顔ちゃんが可愛くて尊くて毎日幸せ。しんどすぎる。
だからこそ夕顔ちゃんが儚く美しいまま亡くなった巻を初めて読んだときには、私の中の全私が咽び泣いた。いや、今でも泣ける。
死亡フラグが出てきた時点でもしかして……っていう悪い予感はあったけれど、それでも推しの死は辛すぎた。
でも逆に、夕顔ちゃんがしわくちゃのおばあさんになるところを私は見たくない。花は美しい姿のまま散った方が綺麗なのだ。
だからこそ夕顔ちゃんの死はちゃんと意味のあるものだったし、紫式部先生は本当によく考えていると思う。
それに、私の最推しである光源氏さまは今もちゃんと生きている。彼が幸せになるまでは全力で見届けるのがオタクの使命だと思うし、義務だ。
そう自分に言い聞かせて、私は再び源氏物語本を手に取った。
いつか夕顔ちゃんのように成長した私に、馬に乗ってやってきた光源氏さまはこう囁くのだ。
「俺のこと、もっと近くで見てみない……?」
私はそんな日を夢見て、今日も推しごとに精を出す。
数十年後の私が、「ああー夢女子痛い。勉強しないで脳内お花畑とか、ほんと黒歴史だわ……」と頭を抱えていることなんて、今の私には全く関係無いことだった。