前編
嗚呼、尊い……。
光源氏さままじ神……。
夕顔ちゃん可愛すぎ語彙溶ける……。
私の脳内は九割方、いやそれ以上、大好きな源氏物語のことで占められている。
寝ても覚めても光源氏さまのことしか考えられないし、起きている間は家にある源氏物語本を何度も何度も読み返しているのだ。
そんな私の名前は……と、本名は名乗らないことにしているので通称を。お父さんが菅原孝標って名前だから、菅原孝標女とでも呼んでくれれば良い。
一応ご先祖様は有名な学者、菅原道真だ。歴史に疎い人でも、一度くらいは聞いたことあるがあるだろう。政治を一生懸命支えてたのに、陰謀で左遷されて怨霊になったあの人。今は神社に祀られている有名人だ。
歳は十三歳で、好きなものはもちろん源氏物語。長い恋愛小説だからって敬遠してる人もいるかもしれないけれど、源氏物語は本当に良い。否、尊い。語り出すと止まらないから、一旦後にしよう。
お父さんの仕事の都合で、私はちょっと前までド田舎の千葉に住んでいた。本当に何も無いところで、私は素敵なことなんて何も知らなかった。
都から遠すぎて本も手に入らず、義母と姉から源氏物語のあらすじを聞いて過ごす毎日だった。ちなみに、義母は私を源氏物語沼に引き込んだ師匠でもある。
元々都で宮仕えをしていた義母は、そこで流行している源氏物語について詳しく教えてくれたのだ。退屈で何にも無い田舎とは違って、源氏物語に描かれる世界はとっても華やか。私はすぐに夢中になった。
もちろんあらすじだけ聞いても源氏物語の良さはよく分かる。
でも義母や姉も全部のあらすじを完璧に覚えている訳ではないし、私はオタクとしてぜひとも原文に触れてみたかった。
源氏物語を読みたすぎて、私は専用の仏像をわざわざ作って毎日全力で拝んでいた。私と同じサイズに作らせた薬師仏ちゃんである。同じ身長だからなかなかの存在感だけど、その分願いを叶える力、ご利益も大きくはず!
都に行けばきっとたくさんの源氏物語本があるから、「私を都に行かせてくださいお願いしますううう!」って仏様にお願いした。そんな私の願いは無事に届いたようで、なんと私は都へ行けることになったのだ!
上京してきて、当初の私は久々会えたに実母もそこそこに、新しい本が近づいた喜びで有頂天になっていた。
一つだけ残念なのは、私の願いを叶えてくれた薬師仏を都に連れて行けなかったこと。等身大サイズの仏像はさすがに大きすぎて、こっそり持ってくることもできなかったのだ。
しかし、それ以上に都に来て嬉しいことがあった。なんとお母さんが私のために、数冊だけだけれど源氏物語本を用意してくれたのである!
本を譲ってもらえるなんて、さすが都。都会最高。そしてお母さんありがとう!!
ついに読める喜びでテンションが爆上がりして、昼も夜も関係なく、私はずーっと数冊の源氏物語ばかり読んでいた。
本当は全巻読みたいけれど、ちょっとでも読めれば私は幸せだった。毎日尊死してるだけで、友達がいない都にいても心は満たされる。
それなのに、幸せな日々は長く続かなかった。大好きだった乳母が、春に流行っていた疫病で亡くなってしまったのである。
私はショックすぎて、何も手につかなくなっていた。
それこそ、推しごとだってできなくなった。あんなに好きだった源氏物語さえ、もう読みたいと思えなくなってしまった。
というのも、私は都で源氏物語にハマりすぎたせいで、病気で田舎に療養に行った乳母のことを放ったらかしにしていたのだ。
推しごとを頑張りすぎて、小さい頃から大切なかけがえのない人を無視するなんて、私はなんてダメな人間なのだろう。これを機に、もうオタクを辞めようと思っていた。
お母さんは私のあまりの落ち込みっぶりを見て、何とかしたいと思ってくれたらしい。
お母さんが知る私の好きなものと言えば、源氏物語しか無い。お母さんは一生懸命源氏物語本を探して、私に見せてくれた。
やっぱり源氏物語本を読むと涙も止まるし、自然と元気が湧いてくる。持つべきものは推しと母。オタクの私が生きるためには、やっぱり推しを摂取しないといけないのだ。
無事に完全復活を遂げた私は、前と同じように源氏物語に没頭する。毎日尊みが限界突破して、危うく昇天しそうになりながら。
特に良かったのは紫の上のシーンだ。紫の上は十歳のときに光源氏さまに見初められたのだけれど、そのシーンが最高に尊い。
二人の出会いを一言で言うと、「偶然から始まる運命の恋」。
将来有望な美少女が、雀の子を従者に逃されちゃってほっぺを真っ赤にして泣いているところとか、想像しただけで可愛すぎる。
そしてそれを偶然見た光源氏さまが、初恋の人に似ていると感じて一目惚れするのだ。
人前で泣くなんて貴族女性としてはあり得ない。だからこそ「おもしれー女」って思った光源氏さまは、紫の上にどんどん惹かれていく。
初恋の人そっくりな将来有望な美少女が、実は中身は破天荒な妹系女子だなんて、これはもう惚れずにはいられない。なんなら私の嫁にしたいくらいだ。
とは言えお母さんが取り寄せてくれた源氏物語本は、たった数冊。もちろんありがたいんだけれど、できることなら続きが読みたい。
私の最推したる光源氏さまの麗し貴族ライフをずっと見守りたいし、紫の上との将来も、他の女の子との出会いもめちゃくちゃ気になる。
家に仕える人に「続き買ってきて〜」と言おうにも、都会暮らしにてんやわんやな状態で源氏物語本なんて探せるわけがない。
お友達に借りて続きを読もうにも、私の都に来てからのお友達は源氏物語本しかいない。
できれば全人類に源氏物語を布教して、全力で最推しの光源氏さまについての愛を語りたいのに、友達がいないせいでそれができない。私は孤独なオタクだった。
続きが読みたい病で発狂しそうな私は、「源氏物語を一巻から読ませてくださいお願いします神様仏様ああ!」と、心の中で祈りまくる。願いが通じれば、きっと読めるはずなのだ。
お寺に行っても他のことはどうでも良くて、とにかく源氏物語のことだけをお祈りした。親が太秦にある広隆寺まで行って泊まり込みで祈願するときも、私は「続きが読みたい!」ということだけをお願いした。
「お寺から帰ったら、家に源氏物語の全巻がある!」なんていう夢のようなことは無く、現実は読んだことの無い巻を見つけるのすら難しい。
やっぱり友達もいない田舎娘の推しごとはそれまでなのか、と悲しんでいたその時。
私の仏様は微笑んだのだ。
後編は本日夜8時に掲載予定です。