匿名希望の某関係者(新聞記者アーベル・ザックス)
薄暗い行きつけのバー。私はカウンター席でカクテルを飲んでいた。酒の名前は忘れた。バーテンダーが何か説明していたが。ついでに酒の味も喉を過ぎればもう覚えていない。もとより酒はあまり好きではない。
「なあ、あの新聞の記事。見たかよ」
「ああ。とんでもないことしてくれたよ」
後ろの席にいる男たちが雑談を交わしている。私は不自然にならない程度に背中を傾けて彼らの会話に耳を傾けた。
「エルマー上院議員が政治資金をマフィアに横流ししていたんだろ。最悪だよな」
「元々黒い噂の絶えない奴だったけど、今回で政治家生命も終わりだな」
「政界の勢力図も変わるだろうな。期待できる政治家はフリードリヒ上院議員ぐらいか?」
「あの若手議員か。確かにエルマーの不正疑惑を追及している姿は信頼感が持てるよな」
酒を好まない私がバーに繰り返し来店する理由。それは客の雑談をこうして聞くためだ。人気のないバーでの会話はインタビューでは得られないリアルがある。チビチビと酒を飲みながら今日は3時間ほど客の会話を盗み聞きしていた。大半の客がエルマー上院議員の不祥事に関する話だ。
「会計を頼む」
大方満足した私はバーテンダーに金を支払いバーを後にした。
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「新聞記者アーベル・ザックスさん」
古いアパートへ戻る道中、夜の闇が満ちている路地で名前を呼ばれる。私は火をつけたばかりの煙草を地面に捨てて踵で踏み潰した。人と会話する時に煙草は吸わない。深い意味はないが新聞記者として働き始めてから続けている自身に課したルールだ。
目の前に小柄な影が立っている。黒のローブを着用しており目深に被ったフードで顔を隠している。まるで絵本に登場する魔法使いのような雰囲気だ。体格や声の質から若いことだけは分かる。だが性別を判別することはできなかった。
「やあ、君か」
私は影に話しかける。彼、或いは彼女が何者か。それは分からない。だがそれがどのような存在かだけは理解している。今朝の新聞に掲載されたエルマー上院議員の不祥事。その証拠を提供してくれた匿名希望の情報屋だ。
「君にはお礼を言いたかった。君がくれた情報のおかげでエルマーの不正を暴くことができたんだ。これでエルマーの政界における天下も終わりを迎えるだろう」
「朝刊に掲載された記事のことを話しているなら僕はその情報を渡した覚えはないよ」
情報屋の言葉に困惑する。今朝の記事は確かにこの情報屋から買った情報をもとに製作したものだ。私が返答に困っていると情報屋が口調を変えずに淡々と続ける。
「僕が貴方に渡した情報はエルマー上院議員とフリードリヒ上院議員がマフィアに政治資金を横流ししているというものだ。だが今朝の新聞に掲載されていた記事からはフリードリヒ上院議員の記載が省かれている」
「ああ、そのことか」
情報屋の言いたいことを理解して私は嘆息する。
「その情報は私の判断で削除した」
「なぜ?」
「掲載する必要がないからさ」
妙なところに拘る情報屋に戸惑いながらも私は「君の情報にもあっただろ」と答える。
「フリードリヒ上院議員ははめられたんだ。自身の不正を厳しく追及してくる目障りな若手。その彼を潰そうと画策したエルマー上院議員によってね。エルマー上院議員はフリードリヒ上院議員の秘書を買収して、マフィアとの関係を強引に築かせたんだ」
「確かに僕はそう話した」
「ひどい騙し討ちだよ。そんなことでフリードリヒ上院議員の経歴に傷をつけるのは忍びない。彼は将来を期待されている政界のホープだ。下らないケチが付かないよう私の判断で掲載を取りやめたのさ」
この説明で納得するだろうと考えていた。だが情報屋の反応はその予想に反していた。
「僕が貴方から受けた依頼は特定マフィアに関与した政治家の名前とその証拠だ。そして僕はその依頼に対して、エルマー上院議員とフリードリヒ上院議員の情報を提供した」
「あ、ああ。だからさっきも話したように不要な情報はこちらで削除して――」
「貴方が手を加えたのなら、それはもう僕の提供した情報とは違う」
情報屋の声から僅かな苛立ちが覗く。
「情報に過不足なんてない。提供されたそれが完成された情報であり、そこに手を加えた時点で、それは元の情報とはまるで異なる別の情報になる。古物商の取り扱う絵画がその傷に至るまで作品の一部であるようにね。君は僕の作品に手を加えた。それは決して許されないことだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
情報屋の苛立ちに私は少々戸惑いながら弁明する。
「そんな大袈裟なものじゃない。情報の一部を敢えて話さなかっただけだ。嘘を吐いているわけでもない。情報に手を加えたなどと人聞きの悪いことは止めてくれ」
「情報を意図的に伏せることも立派な改竄なんだよ。どんな情報でも一部を都合よく切り取れば印象操作なんて容易だ。それはもう正確な情報とはほど遠いただの妄言になる」
「君の情報をそのまま掲載するわけにはいかなかったんだ。フリードリヒ上院議員に落ち度がないことは明確だ。だが世間には理屈の通じない愚か者もいるんだよ。そんな連中に標的にされて正しいことをしているフリードリヒ上院議員が失墜したら問題だろ」
「問題?」
「違うかい? 余計な情報を加えることで正しい人が正当に評価されないのはおかしいだろ。君が言うように私が掲載した情報は正確ではなかったかも知れない。だがそれで社会が正しい道を選択できるのなら、私がしたことはそれほど非難されることか。むしろ私がしたことは正義と呼べるものではないのか」
情報屋が沈黙する。果たして納得してくれたのか。私は口を閉ざして情報屋からの返答を待った。十秒。二十秒が経過。そしてきっかり三十秒経過して情報屋が口を開く。
「正義か。貴方は自分のしたことが正義だと信じているわけだね」
「も、もちろんだ。私はこの社会がより良いモノになるために常に動いている」
「だったら貴方に聞くよ。果たしてこの世の中に、自分が悪だと信じて動いている人間がいるのかな?」
情報屋の言葉。その意味が分からず私は声を詰まらせた。困惑する私に情報屋が容赦なく言葉を投げつけてくる。
「自分が悪だと信じて行動している人間がいるだろうか。例えばエルマー上院議員。彼はマフィアに政治資金を横流しして力を得た。彼はそんな自分を悪だと信じていたのかな。自分はどうしようもない悪だと考えながらマフィアに資金を提供していたのだろうか」
「……どういう意味だ?」
「僕はそうは思わない。彼は自分を悪だなんて微塵も考えてない。法を犯しても彼は現行法にこそ不備があると考えるだろう。マフィアに金を流すのも彼はそれを効率的な投資だと考えるだろう。若手を罠に嵌めるのも彼は邪魔者に制裁を加えたのだと考えるだろう。全ては優秀な自分が権力を手にするためであり、彼はそれを正義だと考えるだろう」
「そんな……そんな身勝手な正義などあるわけないだろ!」
情報屋の滅茶苦茶な言い分につい口調が強くなる。だが情報屋の舌鋒は止まらない。
「彼の正義が身勝手だというのなら、君の正義もまた身勝手なものじゃないのかな?」
「彼と一緒にしないでくれ! 僕は社会のために動いている! 大勢の人の幸せを願っている! そんな私の正義が身勝手なことなんてあるものか!」
「とても身勝手だよ。だって貴方は、貴方の信じる未来を押しつけているんだからね」
一瞬息が詰まる。私の動揺を見越してか情報屋が間を空けずに追撃を仕掛ける。
「貴方は自分の信じる未来こそが正しくて、それ以外の未来は正しくないと言っているんだよ。これが身勝手でなくて何なんだい? 貴方とエルマー上院議員の正義に根本的な違いなんてない」
「ち、違う! 私の正義は他人を救う! エルマー上院議員の利己的なものとは違う!」
「利己的であれば悪で、利他的であれば正義だと? その価値観はなにを基準にしているのかな? 善悪なんてものは時代や地域により変わる。そんな曖昧なものを基準して君は自身の正当性を主張するわけだ」
「なん――」
「人類はこれまで歴史上、様々な汚点を残して生きている。魔女狩りを始めとする不当裁判や奴隷制度による人種差別。これらは現代において絶対的な悪とされている。だけど当時の彼らはそれこそが絶対的な正義だと信じて行動していたはずだ。だからこそ彼らはあれほどに――残虐になれたのさ。君の掲げる正義とやらも、数百年後の未来では、口に出すのも憚れる醜悪なものとして語り継がれているかも知れないね」
「ば、馬鹿な! そんな話があるか! それら歴史的な過ちを反省して人類は成長しているんだ!」
「人類は成長なんかしていない。ただ盲目的に信じるものが時代とともに変化しただけさ。宗教か科学か。絶対的な善悪なんてものはこの世に存在しないんだよ。だから僕は正しさを大義として掲げる言葉を決して信用しない」
情報屋が静かに嘆息する。
「僕たちの行動はつまるところエゴに過ぎないんだ。自分が成り上がるために他人を陥れることも、自分の信じた未来に他人を誘導することも、全ては自分の欲を満たすための行動でしかない。それを否定するわけじゃない。だがそれをするなら正義なんて曖昧な言葉を使うべきじゃない。自分の振る舞いが身勝手なエゴだと自覚して突き進むべきだ」
情報屋がこちらに背中を向ける。
「世界中の人間を敵に回そうとも、歴史上に汚点として名を残そうとも、そのエゴを実現しようとする覚悟のある人間だけが時代を作る資格がある。貴方にその覚悟があるのなら何も言わない。だがそうでないのなら情報を作為的に操作するのは止めたほうがいい」
「……君にはその覚悟があるのか?」
つい口を突いた疑問。情報屋は間を空けずに答えた。
「ないよ。だから僕はしがない情報屋なんだ」
そして情報屋が路地の闇に消えた。