匿名希望の某関係者(新米警官デボラ・ゼーバルト)【前編】
「デボラ・ゼーバルト。ちょっとおとり調査をしてくれないか?」
ブルクベック警察署生活安全課。そこに半年前に配属された新米警官である私は、上司のその発言に耳を疑った。おとり調査ってあの映画とかでよく見る奴だろうか? 警官とはいえ刑事課でもない自分にとっては聞き慣れない言葉だ。
「おとり調査って何です?」
朝食の代わりに食べていたクッキーをかじりながら上司に尋ねる。上司の話を聞くような態度ではないが、そのあたりこの上司は緩い。私の疑問にぷっくりと膨らんだお腹をさすりながら上司が溜息混じりに答える。
「週刊誌のフォレストタイムズを知っているな。その記者に成りすましてある男――女かも知れんが――接触してもらいたい。状況によってはその人物を確保する」
「その人物とは誰ですか?」
「匿名希望の某関係者」
何だそれは? 私はその疑問を口にはせず表情だけで上司に伝えた。私の無言の問い掛けに上司が禿げかけた頭をポリポリ掻く。
「先日フォレストタイムズに掲載された記事の情報源となった人物だ。何でもブルクベックを拠点に活動している情報屋らしい」
「情報屋って……そんな映画みたいな人が実在するんですか?」
警官になれば裏社会で生きる人間と接触する機会もある。就職前はそう考えていたが、実際にそう言った人物と関わるようことなどこれまでなかった。刑事課の人間ならばまだしも、生活安全課では裏社会の接触は存外少なかったりする。
「映画のような情報屋とは少し違うな。実際のそいつらは――ただの妄言屋が」
皮肉気な上司の言葉に首を傾げる。上司が溜息を吐いて言葉を続けた。
「詰まらないデタラメばかりを吹聴しているということだ。そんな情報を買うような記者も記者だが、そんなデタラメで金を貰えるなどまったくいい商売だよ」
「……今回はどんなデタラメの情報を流したんです?」
「キルヒホフ上院議員の不正選挙だ」
キルヒホフ上院議員。まだ若いながら幅広い年代層から支持されている政治家であり、黒い噂が絶えない政治の世界においては珍しくクリーンなイメージのある人物だ。大物政治家に対しても臆さず追及する姿がテレビで幾度も放送されており、誠実だろう彼が詰まらない不正を働くとは思えない。
「キルヒホフ上院議員が有権者に賄賂を渡して票を買ったというのだ。もちろん事実無根だがね。彼の当選は立候補時点でほぼほぼ確定していた。不正を働く必要すらない」
上司の言葉に頷きながらも、私は困惑して尋ねる。
「どうして警察がその情報屋――妄言屋を探すんです? それがひどい嘘だとしても、刑事事件というわけでもありませんし、警察が介入する必要はないと思いますが」
「これが一般人ならばそうだ。だが今回は将来を期待された政治家さんだからな」
上司が肩をすくめながら言葉を続ける。
「仮に事実無根だろうと裁判となれば悪印象はぬぐえない。しかしだからと捨ておくわけにもいかない。ゆえに警察への協力を内密に要請してきたわけだ」
「逮捕の根拠はどうするんですか?」
雑誌にデタラメの情報を流す。迷惑極まりないがそれ自体を罪に問うことはできない。言論の自由と言うやつだ。
「理由はどうとでもするさ。もとより情報屋を起訴することが目的じゃない。キルヒホフ上院議員の要望は情報屋との話し合いだ。もっとも情報屋が話し合いに応じず駄々をこねるようならその先は分からんがね」
「……どうして生活安全課の私たちが?」
「詰まらない情報で小遣い稼ぎする小物が相手だ。刑事課の連中が出ることもないだろう。君をおとり捜査官として選んだのは――」
上司が一拍の間を空けてから言う。
「若い女性である君なら、相手も警戒しないだろうと考えたからだな」
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とりあえず雑誌記者っぽい恰好をして、私はその匿名希望の情報屋が現れるというバーを訪れた。そして丁度約束の時間、私の隣の席に一人の人物が腰掛ける。
「フォレストタイムズの記者だな」
目深にかぶったフードの所為で顔は見えないが、その声質から男性であると分かる。長身の細身。私は小さく頷きながら男に茶封筒を差し出した。男が差し出された茶封筒を受け取りその中身を確認する。フードの奥で男がニヤリと笑い茶封筒を懐にしまった。
「これが約束の情報だ」
今度は男が茶封筒を差し出してくる。私は男から茶封筒を受け取り、その茶封筒に入れられていた資料を取りだした。黙したまま内容を確認する。そして私は息を呑む。
「これは――」
男が差し出してきた資料には、キルヒホフ上院議員と反社会的勢力の金銭的つながりを示す内容が記載されていた。だがそのような事実はあり得ない。キルヒホフ上院議員は反社会的勢力を撲滅しようと率先して声を上げていた議員の一人だ。この情報屋がデタラメを流していることは理解していたが、だとしてもこれはあまりに素っ頓狂すぎる。
「これで取引は完了だ。今後の連絡はこれまで通り――」
私は椅子から立ち上がりフードの男の腕を掴んで捻じり上げた。「ぐがっ!?」と苦悶の声を漏らして反射的に抵抗する男。だが荒事には不慣れなのか大した脅威でもない。私は男の足を払うと男を倒して組み敷いた。
「な、なにしやがる!?」
「うるさい! 大人しくしなさい!」
男の頭からフードを引き剥がす。そこに現れたのは無精ひげを生やしたやつれた男だった。怯えた様子の男を睨みつけながら懐から警察手帳を取り出す。
「警察よ! アナタを署まで連行する!」
「け、警察だと!? 何だって警察が!?」
狼狽する男。だがその疑問になどいちいち答えてやるつもりもない。私は掴んでいた男の腕をさらにねじり上げると、その男の手首に手錠を掛けようとした。だがここで男が「ま、待ってくれ!」と声を荒げる。
「ち、違うんだ! お、俺は何の関係もないんだ! 誤解なんだよ!」
「黙れと言ったはずよ! 詳しい話は後で聞いてあげる! 今は大人しくしなさい!」
「だから違うんだって! 俺は知らねえ奴に頼まれただけなんだよ!」
思わず手錠を持つ手が止まった。組み敷かれた男が半泣きの状態でさらに言う。
「ここで酒飲んでたら知らねえ奴に話し掛けられて、アンタにその茶封筒を渡せってそう言われたんだ! 飲みの代金を全額払ってくれるって言うからよ!」
「……その人は今どこに――」
男に尋ねようとしたところで、バーの隅にいた人物が突如立ち上がり店の奥へと駆けて行った。姿をよく確認できなかったが今しがた店の奥に消えた何者かが男を身代わりにした人物に違いない。私は舌打ちをして裏口に逃げた何者かを追いかけた。
この店はすでに警官により包囲されている。店の裏口から外に出たところで待機していた警官に拘束されるはずだ。だがここで裏口とは反対方向のドアが開閉される音が聞こえた。私はぎょっとしながらも聞こえてきた音へと向かう。向かった先には男女兼用のトイレがあった。
「まさか――」
慌ててトイレのドアを開ける。便座が一つだけの狭い個室。そこにある窓が無造作に開かれていた。逃げた何者かはこの窓から外に抜け出したようだ。
「どうなっているの!? まるで警察の包囲網を読んでいるみたいじゃない」
愚痴りながら窓から外に這い出す。それにしても窓が狭い。自分の体格でギリギリ外に出られるくらいだ。逃げ出した何者かは少なくとも大柄な人物ではないらしい。
外に出てすぐに周囲に視線を巡らせる。するとすぐ近くに頭上からぶら下がっている奇妙な紐を見つけた。ぶらぶらと揺れている紐に何かを察して頭上を見上げる。するとそこには紐をよじ登りながら建物の屋上へと這い上がる一つの影があった。
「こんなものまで――」
やはり間違いない。この何者かは警察の動きを完全に読んでいる。私は困惑しながらも紐を掴んでよじ登り始めた。運動は得意だがそれでもかなりの重労働だ。「ひーひー」と息を荒げながらも何とか屋上へとたどり着く。そして――
隣のビルの屋上に小柄な影を見つけた。
「ここまで追ってくるなんて根性あるね」
小さな影が可笑しそうに言う。中性的な声にフードで隠された顔。小柄な体躯に大きな黒のローブ。その姿はまるで絵本に登場する魔法使いを彷彿とさせた。
「ぜえ……か……観念しなさい……」
息も絶え絶えに言う。明らかな強がりに聞こえたのか。小柄な影がクスクスと笑う。
「もう動けそうもないけど? まあ僕としても綺麗なお姉さんに追われるのは嫌いじゃない。なんならお姉さんの息が整うまで少し待っていてあげようか?」
「っ……ふざけてるのアナタ?」
「僕は大まじめだよ。もっとも捕まるのは困るから最終的には逃げさせてもらうけど」
「絶対に……ぜえ……逃がさないから……」
「強がっちゃって。可愛いな。でもまあ無理はしないことだね。そもそも僕は警察に追われるようなことをしていない。所詮は政治家連中の我儘だ。僕を取り逃がしたからと君が責任を感じる必要なんてないんだよ」
一体どこまでこちらの事情を把握しているのか。小柄なその人物に言いようのない不気味さを覚えながらも私は吐き捨てるように言った。
「確かにアナタは法的に罪になるようなことはしていないかも知れない……だからって……根も葉もない話を流して社会を混乱させるなんて……許されることじゃないわ」
「根も葉もない話?」
小柄な人物が首を傾げる。私はおどけるようなその態度に苛立ちを覚えた。
「そうでしょ? 何の証拠もなく他人を貶めるような情報を流すなんて最低よ」
「なるほどね。それじゃあサービスしてあげようかな」
小柄な人物が両手をおもむろにかざす。何のつもりか。そう思った矢先、ローブの裾から大量の封筒やら紙切れやらが出てきた。唖然とするこちらに小柄な人物が陽気に言う。
「キルヒホフ上院議員の一連の不祥事。それを決定づける証拠だよ。本当はオプションで別料金が掛かるんだけどね。お姉さんの頑張りに免じて無料で提供してあげる」
不祥事の証拠。そんなまさか。あり得ない。キルヒホフ上院議員の不祥事はデタラメだ。デタラメの証拠などあるはずない。
「この情報をどう扱うかはお姉さんに任せるよ。上司に報告するも良し。自分で握りつぶすも良し。好きにしてね。それじゃあ僕は新手が来ないうちに逃げさせてもらうよ」
小柄な人物がそう言って、建物の屋上を飛び移りながら視界から消えた。