1:夜闇に舞う白桜
「そこの強姦魔、ハァ、ハァ……止まりなさい!」
ベッタリと黒が張り付いた空の下、乱立する木造家屋の壁に取り付けられた照明は橙色の光を発している。黒色の夜空、橙色に染まる街中の一本の大通りから、横に逸れた、薄暗い裏路地を、桜柄が刺繍された着物を着た女性が、肩で息を切り、直走っている。
長距離を走ってきたのか、はたまた短距離を全力か、どちらかは分からないが呼吸を荒くしており、酷使中の肺にさらに追い込みをかけるように怒号を飛ばしながら、一人の男を追っている最中だ。
「待っ……ああっ、もう! 逃げ足速すぎ」
先輩は何してんのよ、と女性は切れ切れの息のままにぼやき、駆ける脚を止めることなく、着物の右袖を右手で掴み、そのまま口元に寄せた。
「先輩。……先輩? おーいボク先ぱーい、可愛い後輩からの通信でーすよー」まるで着物の袖口を無線機かのように扱う女性は、器用なことに、声色をワントーン上げた猫なで声を出している。
「……」
しばらく無言の間を作る女性。無線機を介した相手からの返答を待っているかのようで、だがしかし、待てども返答が返ってこない。「あのバカッ」と悪態をつき、袖から手を離す。海のように深い青色の瞳が細くなる。「制服に通信術式が組み込まれてる意味ないじゃん」
こうなれば一人で逃亡者を捕まえて見せる、というような意気込みでも湧いたのか、女性が歯を食いしばる。
と、一向に縮まらない目先十メートルの位置を走る犯人が、クンと右の通路に進路変更し、駆け込む。入り組んだ小路地を使って追跡してくる女性を撒こうと考えたのだろう。だが十メートル後ろを走る女性を撒くなど困難に等しく、しかも。
「――ッアア!」逃亡者は悲鳴を上げる。曲がった右の路地は、袋小路だったのだ。
「ハァ、ハァ……袋のネズミね」女性も同じ路地に駆け込んで、勝ちを確信する。肩で息をする彼女は二度の深呼吸で息を整え、腰に巻いているベルトのホルスターから一丁の銃を取り出し、銃口を男に向ける。「動くな」
女性が身に着けている制服は、裾から襟元を黒から紅のグラデーションカラーに染めた着物で、裾には、白色の桜柄が描かれており、美しい仕上がりといえるだろう。なのだが、着物を締める帯は細く、銃のホルスターや小物を携帯するポーチが取り付けられているため、着物にはミスマッチが過ぎる帯、もといベルトだった。
灯りが限りなく少ないがため、闇の割合が多い袋小路で、うううと唸る男に対して銃を突きつけている冷酷な目の彼女。恰好、ポーズ、表情を混ぜ合わせ、恐ろしいオーラを漂わせている。
「逃げられるとでも思った? 三人の女性を傷つけておいて、それはクズが過ぎんのよ。田中湊明。強制わいせつの罪で逮捕する」
片手に握った銃の引き金に、指をかける。もう片手で、二の腕に巻いてある腕章をグイッと見せつける。自分の身分を提示するかのように。
「……フゥ、フゥ、フゥ」男――田中の息が荒くなりはじめる。「へ、へへへ」銃口を突きつけられてから呻くだけだった田中が、突如、気味の悪い笑い声を発した。不審に思った女性が、眉根を寄せる。