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第十七章 一休みして、それから。


 そのあとのことは、覚えていない。

 マキウチさんが珍しいくらい、大声で叫んでいたのは、覚えている。だけどそのあと、何をしたのか覚えていない。気づいた時には、帰宅して自室のベッドの上だった。

 どうやって帰ったんだっけ。まず、どうして帰ってきてるんだっけ。

 「ただいま……リーちゃん?どうしたの?体調悪かった?気づかなくてごめんね」

 お母さんの声。どう答えよう、でも、わたしもよくわからない。よろよろと起きて、リビングに向かった。母は何か、メモを読んでいた。そして私が立っていることに気付いて、目を潤ませて抱き着いてきた。子どもの時以来だ、母にこんなことをされるのは。

 「リーちゃん、怖かったね……」

 そう言われて、少しずつ思い出した。そうだ――――――はねられたのは、カノウさんだった。カノウさんが頭から血を流しているのを見て、マキウチさんは絶叫した。その時は、まだ――――――。

 思い出そうとして、頭が真っ白になった。ただ、涙があふれるだけ。子どもみたいに、母にすがって号泣した。明日、行った時にカノウさんの席ががらんとしているのを想像したら、ますます涙が止まらなかった。

 落ち着いて、母に職場の人が事故にあった、とだけ伝えた。母が読んでいたメモは、どうやらわたしを送り届けた時にマキウチさんが置いていったらしい。わたしがろくに説明できまいと判断したみたいだ。うん、それは正しい。

 「マキウチさんが、明日休んでいいって。金曜日だから、三連休になるでしょう?ゆっくり休ませてあげてくださいって」

 お母さんも三連休だから、熱海とかいっちゃう?と明るい声で聞かれた。そうしよう。お母さんと旅行って、そういえば行ったことないし。うん、とうなずくとじゃあ準備しようか、と母はいつもの笑顔でわたしを促した。

 三連休だから、二泊三日。さてどう詰めようか。結局使わないまま、クローゼットにしまったキャリーケースを出した。服や要りそうなものをぎゅっと詰め込む。

 いいの?あんたこれじゃあ、マキウチさんにまた辞めろって言われるよ。

 頭の中で、そんな声がした。うん、言われるだろうなあ。月曜日、開口一番。向いてないよね、辞めなよって。元より言われているし。実際、向いてないのかも……。そんなことを考えていたら、スマートフォンが着信音を鳴らした。画面にはまさに、今考えていた人・マキウチさんの名前が映し出された。反射で出た。

 「あ、あの、キジョウです。カノウさんは」

 「キジョウさんさあ、お母さんと旅行計画でうきうきしているとこ悪いけど、月曜日は喪服で来てね。ちゃんとしたのないなら、黒ワンピとかでいいんだけど」

 ……泣くな。マキウチさんの声は冷静だったが、よく聞くとなんとなく鼻が詰まったような声。喪服なら、ある。クソ親父の葬儀で着たのが。一応念のために着れるか確認しておこう。わかりました、となるたけ冷静そうに聞こえる声を作って返事をした。

 「……カノウちゃんは無事だよ。あいつ、肉だるまだからしぶといの。喪服は別件。月曜日にまた話す。ごめんね、変な誤解させちゃって。でもそれなら俺、温泉とかどうですか、とかお母さんに言わないから」

 楽しみに水差すような真似するほど野暮じゃないんだよ、と話す声の調子はいつも通りに聞こえる。電話の向こうで、リョウマ、早く玉ねぎ切ってよ、と中年女性の声が聞こえてきた。……マキウチさん、実家暮らしなのかな?

 「今日俺も早上がりだからさ。もののついでで実家に顔見せに行ったらこき使われてまいっちゃうよ。キジョウさんも、お母さんのお手伝いちゃんとしなよ」

 そう言って電話は切れた。……とりあえずカノウさんが無事ならよかった。そのことに安堵するけど、じゃあ喪服ってなんだ、と別の疑問が生まれる。潜入捜査とか?……考えたところでわからないので、荷造りに専念することにした。

 殺し屋になったからには、今回みたいに仲間が傷つくことも、考えないといけないんだ。本当なら、普通の日常と地続きのはずの仕事。だけど、殺し屋の日常は、本当はきっと、もっと殺伐としてて、血みどろなんだ。……だって、人の命を奪うんだもの。

 だったら覚悟しろ、リエ。お母さんには、一生秘密。殺し屋のキジョウリエと、普通の一般人のキジョウリエは、同じだけど同じじゃないんだ。

 馬鹿のことを、殺さないと。リリアちゃんやオガワさんのためにも。わたしが前を向くためにも。あいつの始末はわたしがつける。きっと、カミサマが与えた試練なのだ、これは。 

 手は少し震えている。これは、武者震いというやつなのだ、と己を鼓舞した。今のわたしの役目は、お母さんと楽しく、温泉旅行をすることだ。そこで頭を切り替えて、月曜日からの『日常』に備えること。乗り切れ、この三日は、普通のごく一般女性として過ごすんだ。

 母から、宿をどうしようかと呼ばれた。旅館もいいけど、こういうのも素敵じゃない、と見せられたのは、アンティーク調の部屋が大変素敵なホテルだった。いわゆるお姫様ベッドが鎮座し、家具も濃厚な雰囲気を漂わせている。うわー、女子なら一度は憧れるやつだ。ほかにも、素敵な宿の写真をたくさん二人で見た。くっ、全部泊まりたい。

 ふっと、こういう日常は、いったい何度送れるんだろう、と思った。だけど今は、考えたって仕方ない。まるで少女に帰ったように楽しそうな母の横顔を見ながら、わたしは心の中で、お母さんごめん、と謝った。


 温泉は大変気持ちよかった。帰り道、新幹線のグリーン車で足を延ばしながら、明日から仕事か、と考えた。ここまでの三日が、非日常すぎて現実味がない。でも、月曜日は、黒い服で……。喪服をこっそり、クローゼットの奥から移動しておいたけど。

 母ははしゃいで疲れたのか、寝息を立てている。母が寝ているのを見るのは、久しぶり……いや、まじまじと見たのは、初めてかもしれない。ああ、お母さんってこんな無防備で寝るんだな。その顔を見ていたら、わたしはかえって寝れなかった。

 日常は、簡単に崩れる。カノウさんの事故を見て、本当に今更思い知った。……トラックにはねられて死なないカノウさんは、ちょっと頑丈すぎると思うけど。でも、そうじゃなきゃやってられないってことかな……。万年運動音痴だけど、何かジムとか入った方がいいかな。

 「リーちゃんが……いい人と……結婚できますように……ふふふ」

 母の寝言に、肩がはねた。同じことを、わたしは昨日、神社で聞いた。熱海エリアでは有名な神社らしく、人が多かった。そこで、二人でお参りした時、母は小声で願いをつぶやいていたのだ。その願いは、叶えてあげられるかどうか。マキウチさんとどうこう、というのは脇においても、こんな仕事じゃあ、ねえ……。

 外を見ると、すっかり暗くなっている。もう、冬だもんな。温泉が気持ちいい時期だもん。そりゃ、暗くなりますよ。普通の電車なら、たぶん窓の外に、街明かりがぽつぽつと見えたんだろう。でも生憎、今通っているところは壁がそびえて、何も見えない。暗いから、自分の顔がはっきり見える。

 ……あの頃よりは、生きてる人の顔かな?

 前職を辞める後押しは、推しの引退とあの馬鹿との破綻。でも、きっかけは、久々に会った友人から言われた言葉だった。リエ、あんた視認みたいな顔だよ。そんなこと言われたから、わたしはショックだった。そして、別れた後、いわゆる店のウィンドウに映る自分の顔を見て、二度目のショックを受けた。誰よこれ。わたし、なのに。

 死んだ人より悪い、と思った。若くして亡くなった伯母の死に顔は、眠ってるようにしか見えなかった。あれはきっと、綺麗にしてもらったのだろうけど……。その死に顔を思えば、そこに移っていた私の顔は、ひどいものだった。よく生きてたな、と思う。結局そこから辞めるまではずるずる働いていたけど、あの言葉がずっと引っかかってたんだな。

 あの時の顔よりはまし。やってる仕事は、やばいけど。でも、お金の心配はしなくていいからな……。

 マキウチさんに認めてほしいっていうのは、仕事そのものへのモチベーション、ってことになるのかな。少なくとも、前職でそんなことは思わなかった。誰かに認めてほしい、なんて。むしろあそこの奴らとは、極力関わりたくなかった。

 「君が妹と同じ名前で、ちょっと似てるから。お兄ちゃんとしては、こんな仕事じゃなくて、もっと堅気なことしてほしいわけさ」

 そう思ってもらえるってことは、好かれてるってことなんだと思うけど。でも、それ以上に……。いや今わたし何を考えた。そういうのは捨てろって言ってるでしょ、リエ!ともかく、それはあいつをぶっ殺してからだ。

 大丈夫、大丈夫。明日は明日の風が吹く、っていうし。単調な景色を見ていたら、何となく瞼が重くなってきた。嫌ねるな、寝ちゃだめだ……。しかし、睡魔には逆らえず、わたしの意識は暗転した。

 


 

 

 

 

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