あなたのうたになりたい 09
斜め前にいるヨウイチさんにどう声を掛けようか迷った。
「……今日はありがとうございました。ご馳走にまでなっちゃって」
社交辞令みたいな常套句しか出てこなかった。横顔を思い切って見上げる。どうせなら目に焼き付けておきたい。とっておきの思い出として。
「いいよ。俺も楽しかったから。……タクシー呼ぼうか」
「はい」
頷いてみたけれど、慣れない土地でそんなことまでさせるのは心苦しくて、スマホでタクシー会社を検索して電話を掛けた。
「すぐに来てくれるみたいです」
「そっか」
さっきまでとは打って変わって会話が続かなかった。漂うぎこちなさに悲しくなってくる。
「ホテル近いんですよね? ヨウイチさんを送って、そのまま私の家まで行ってもらいます」
「いいよ。そんなん」
「タクシー代ぐらい持たせてください。二軒ともご馳走になっちゃったんですから」
ここから市外の私の家までタクシーを使ったら一万円近くいくだろう。普段だったら絶対にそんな贅沢はしないけれど、今日は全く苦にならなかった。
二人で黙ってタクシーを待つ。言いたいことがたくさんあるような気がしたけれど、一つもことばになりそうになかった。
「……明日朝早い?」
ぽつん、と雨粒みたいな声が降ってきた。
「……明日は仕事、休みなので」
声が震えた。それどころか身体の奥から震えが込み上げてきた。
「もう少しだけ、付き合ってくれない?」
頷く覚悟を決めるのに時間は掛からなかった。ゆっくりと首を縦に振る。
やがてやって来たタクシーに乗り込む。黙って車窓を眺めた。ドライバーは二人の間に流れる微妙な空気に気づいているのかもしれず、何も話しかけてはこなかった。さっきまでの他愛もないお喋りの時間がこのための布石だったとしても、全く構わなかった。
到着したビジネスホテルの前でも、結局ヨウイチさんは私にお金を出させてはくれなかった。フロントを通り抜けてエレベーターへ。ドアが閉まった瞬間、ふいに目が合って泣きそうになった。目が潤んでいたことに気づかれたと悟った途端、視界が埋まった。唇に柔らかい感触があった。泣いちゃいけない。自分に言い聞かせた。女の涙は男を冷めさせるといつか聞いたことがある。背に手を回す時間もなくエレベーターは七階に到着した。どちらからともなく指先を絡めて、廊下を早足で進んだ。
ドアを後ろ手に閉めて、もう一度キスをした。どうしようもない。自分の理性が機能していかなくなっていくのを感じていた。初夏の夜。肌は若干汗ばんでいる。シャワーを浴びたかったけれど、その時間さえ惜しいような気もした。
なんとかベッドに辿り着いて、お互いの服を脱がせ合った。私は馬鹿な女かもしれない。もしかしたら彼には恋人がいるかもしれない。それどころか各地に私みたいな女がいるかもしれない。それでもいい。ずっと焦がれていたひとが目の前にいて、それどころか身体に触れ合っている。本当は長い間こんな場面を夢見ていたのかもしれない。
一生に一夜だけでも、こんな夢のような幸福に溺れてしまいたかった。
ヨウイチさんはしばらく私の上で呼吸を整えてから、身体を離した。横を向くと彼もこっちを見ていて目が合った。私の乱れた長い髪に触れる。遠慮を忘れて身を寄せても、拒絶はされなかった。ヨウイチさんより早く起きよう。シャワーを浴びて化粧を直さないと。頭ではそう思いながら、充足感と疲労とそして少しの寂しさに引きずられるように眠りに落ちた。
浅い眠りから目を覚ますと目じりがひりひりした。私はまだ彼の腕の中にいた。寝息を感じるくらいの距離にヨウイチさんの顔があって、堪え切れずに泣いた。
起こさないようにそっとベッドから抜け出してシャワーを浴びてメイクを整えた。服や下着は仕方ないからもともと身に付けていたものを着た。濡れた髪のままベッドの端に腰かけて、寝顔を見ていた。カーテンの向こうから次第に光が差し込んでくる。このシーンを忘れたくない。
やがて目を覚ましたヨウイチさんと目が合った。
「……おはよう」
掠れた声に愛しさに似た感情が込み上げてきて、どうしようもなかった。
「おはようございます」
彼は眼鏡を探して時計を確認して、もう一度枕に顔を伏せた。
「あー起きたくないな」
そう言いながらも重たそうに身体を起こした。
「時間までに行かないと本気で置いてかれるからな……」
バスルームに消える後姿に、寝癖がぴょんと跳ねているのを見つけて一人で笑った。だけど次の瞬間にはもうどのタイミングで出ていくのが正解なのかと思案し始めていた。髪はだいぶ乾いてきていた。家まで帰るだけならこれぐらいでも外を歩けるかな。床に置き去りにしてあったバッグを拾う。スマホを確認したけれど、とくに大事な連絡は来ていなかった。ふう、と息を吐く。シャワーの音が止む前に出ていったほうがスマートなのだろうか。だけどそれじゃあまりにも、素っ気なさすぎる。悩んでいる間にバスルームのドアが開く音がして、思わず姿勢を整えた。パジャマ代わりに持ってきていたのだろうか、Tシャツと薄いハーフパンツという格好で首からタオルを提げていた。不意に心臓が高鳴って、思わず目を反らした。
神様は昨夜から今朝にかけて、一生分の幸福を一気に私に与えてくれたのかもしれなかった。
もう大丈夫。なんとなくそう思った。
「ヨウイチさん、私そろそろ行きますね」
「あれ、なんか用事あった?」
「違いますけど、ヨウイチさんが遅刻しちゃうといけないので」
「遅刻しないよー。遅刻しないように今頑張って準備しようとしてるんだよ」
彼はそう言いながら白いタオルを頭から被った。ごく自然に笑みが込み上げてきて、ベッドから立ち上がった。
「ほんとにそろそろ行きます。……昨日はほんとに、ありがとうございました。忙しいと思いますけど、身体には気を付けてくださいね」
ヨウイチさんが真っ直ぐにこっちを見ていることに気が付いて、心なしか胸が疼いた。何も言えなかったし、何も言われなかった。
「それじゃあ」
それだけ言って振り返らずに部屋を出た。オートロックのドアがばたん、と音を立てて閉まる。その場に座り込んでしまいたかった。一瞬で視界が滲む。エレベーターまで走った。1のボタンを押して、すかさず閉まるボタンも押した。くぐもった声が漏れる。大丈夫。泣く必要なんてない。どうしようもないくらい、幸せだった。だからいい。




