あなたのうたになりたい 08
電車に乗り込んで、交換しておいたラインで佳貴に感謝とどれだけ嬉しかったかという思いの丈を連ねたメッセージを作成していた。
その瞬間画面がふっと暗くなって、心臓が激しく跳ねた。登録されていないナンバーが表示されている。そう言えばさっき連絡先を交換していた。一生掛けることも掛かってくることもないだろうと思ったことと酔っぱらっていたせいで、登録をしていなかった。うそだ。こんなことが起こるはずがない。そう思いながら緑の丸いボタンをタップした。
「はい。美月です」
口元を覆ってできるだけ小さな声で呟いた。
「俺だけどさ、良かったら今から飲み直さない?」
そのとき自分が何と返事をしたのか思い出せない。でも次の駅で地下鉄を下りて、タクシーに飛び乗っていた。言われた場所へ向かう車窓から、夜の街の明かりを見つめた。
もう少しだけ夢を見ても許されるだろうか。一生に一度、今夜だけ。そう分かっているなら、夢を見ていてもいいだろうか。
指定された場所はさっき別れた場所からほど近いカフェバーだった。木製のドアを引いて開ける。店内は薄暗くて壁際の間接照明とテーブルの上のキャンドルの炎が煌めいていた。一名様ですか、と声を掛けてくる店員に待ち合わせをしていることを告げるのとほぼ同時だった。
「美月ちゃん」
声をしたほうを見ると、ヨウイチさんが手を挙げている。店員に軽く頭を下げて足早に席へと向かった。
「お待たせしてごめんなさい」
「いいよいいよ。俺が急に呼び出したんだしね」
足元のバスケットにバッグを入れていると、ヨウイチさんがメニューをこちらに向けてくれた。
「なんでも好きなもの頼んで」
「ヨウイチさんは何飲んでるんですか?」
「なんだっけな。青りんごとなんかのサングリア」
「なんかって」
ふふっと笑いが零れる。初対面の衝撃を乗り越えたせいか、緊張のあまり話せなくなるということは無くなっていた。心臓はゆっくりと大きな音を立てて鳴っている。ヨウイチさんも釣られて照れたように笑った。
「忘れちゃった。普段は居酒屋で生ばっかだから」
「そうなんですか? 凄くお洒落なバーでよく分かんないカクテルとか飲んでそうですよ」
「ない、ない」
結局私はオレンジとりんごが入った赤ワインベースのサングリアを注文して、改めて乾杯をした。
「お洒落なお店知ってたんですね」
「帰ろうと思ったらたまたま通りがかったんだよ」
キャンドルの明かりと影がゆらゆらと揺らめいてヨウイチさんを映す。砂漠で見る陽炎みたいな実体のない映像のようにも見えて、黙ってサングリアに口を付けた。
「ケイキのライブとか見に行ってるの?」
「今のバンドは全然。ずっと連絡取ってなかったんです」
「そうなの?」
「大学辞めてから高校の集まりにも来なくなって、SNS系も全部やめちゃって。誰も、……ケイキの行方を知らなくって。ほぼほぼ失踪状態だったんですよ」
「そうだったんだ。まあ身一つで上京して来たってのは聞いてたけど」
「連絡取れなくなってからそれまでやってたバンドも解散してたってことを聞いたから、まさか変なことになってないでしょうね、とは思ってましたけどね」
佳貴と音信不通になってから、それまで二人で行っていたライブや彼が出演していたライブハウスに何度か一人で足を運んだ。そうしている間にばったりとどこかで会えるのではないかと期待していたのだ。繋がらなくなった電話番号を鳴らし続けるよりもよっぽど可能性がある気がしていた。
「そういえばどうやってケイキと知り合ったんですか?」
「フェスだよ」
「フェス?」
「そうそう。向こうでインディーズのバンドがメインで出演するフェスがあって、メジャー行ってるバンドも数組出られるんだけど、俺たちも出させてもらったんだよね。そこにケイキの前のバンドも出てたんだよ」
「出てた……?」
「今のバンド、だいぶメンバー変わったんだよ。その頃からいるのはケイキとボーカルのやつだけ。タクヤ……、ボーカルもこっち出身だから、帰ってきて組み直したんじゃないかな」
「なんでわざわざ東京まで出てったのに帰って来たんでしょう」
「まー、それはいろいろとね」
ヨウイチさんがことばを濁してグラスを傾けた。
「でもこっちでも充分チャンスはあるよ。ライブハウスもフェスも多いし、盛り上がってるなって感じる。地元を出るのはもう少し後でも全然遅くない気がするけどな。もっと固定のファン付けてからでも」
「あ、なんかプロっぽい発言ですね」
私が指摘するとヨウイチさんはぱっと顔を上げて、そして眉根を下げた。
「そんなんじゃないよ」
こうして面と向かって話をしているとさっきまでステージの上にいた人だとは思えなくなってくる。こんな史上の幸福を味わわされて、果たして私は現実に戻れるのだろうか。落差を思って苦笑した。
私たちは何度かお酒をお代わりしながら、静かにゆっくりと話を続けた。今日初めてことばを交わしたとは到底思えないぐらいに次から次へと話したいことも聞きたいことも溢れてきた。ヨウイチさんの話は全て興味深かったし、彼は私の話をしっかりと聞いてくれた。不思議と波長が合うような感覚があった。
彼が私が長年憧れていたシルビーのボーカリストでなければ、とっくに惚れていただろう。
例えばここが海辺なら、朝日が昇るまでずっと二人で話していられただろう。
閉店の時間を迎えて、私たちはバーを出た。お会計はまたヨウイチさんが持ってくれた。お酒も料理も美味しかったし何より雰囲気が素敵だった。必ずまた来ようと決めた。
終電はとっくに終わり、周りの飲食店もほとんど閉まっているような時間帯。都会ではなかなか感じられないような静けさが身に迫ってきて、急に身体の中心に穴が開いた。風が通り抜けていくようなこの感覚を、なんと呼ぶのだろう。