あなたのうたになりたい 17
「俺、やっぱもう一回東京行くことにした」
佳貴にそう告げられたとき、自分が何と返事をしたのか全く覚えていなかった。良いんじゃない、とか、頑張れ、とか言ったような気がする。行かないで、とはきっと言わなかったのだろう。音楽だけじゃなくて芸術の道で真剣に勝負しようと思うなら、やはり地方より首都圏のほうがチャンスが多いような気がする。佳貴にはずっと夢を追い続けていてほしかった。
一緒に並んで夢を見たつもりになっても、それは私の夢じゃない。
お盆休み前の残業ラッシュを耐え抜いて、今日から九日間の大型連休が始まる。地元を出ていった友だちと飲みに行くことくらいしか今のところは予定が無いけれど、たまには何もせず一人でゆっくり本を読むのも良いかもしれない。でもどうせこの髪型にしたのなら、外を歩いて誰かの視線を浴びないともったいないような気もする。
昨日の仕事終わりに予約していた美容院に行った。何度も確認をされたけれど、私は意見を曲げずに、胸まであった髪をばっさりと切ってブリーチを何回かして、濃い緑色を入れた。今の私の髪の毛は黄みを帯びた緑色をしている。
これならすれ違っても、もう二度と彼は私だと気づかないだろう。それどころか私がどんな街に住んでいるのかもどんな仕事をしていているのかも、苗字すらも知らない。
私だってそうだ。彼のことは電話番号とほくろの在りかくらいしか、知らない。
厚いカーテンの隙間から真夏の鋭い日差しが差し込んでくる。昨夜から付けっぱなしにしていた冷房のせいでちょっと度が過ぎるほどに寒いけれど、良い天気だと感じられる余裕があった。勢いよくカーテンを開けた。それだけで部屋の温度が上昇する。
iphoneとスピーカーをBluetoothで繋いで、シルビーのアルバムを再生した。
やっぱりどこにも私はいない。そんなことにがっかりする自分に、がっかりしてしまった。彼はきっと私を愛していたわけじゃない。たまたま足を運んだ街に私がいただけだ。
そして私も彼を愛していたわけじゃなかった。
私が愛していたのはシルビーのヨウイチなのだ。
最後の曲が終わり、部屋は再び静まり返る。今ごろまた新しい曲を作っているのだろうか。
私は、彼のうたになってみたかった。
だけどそんなものになることはできずに、きっとまたあのフロアで精いっぱい背伸びをして、必死に手を伸ばすのだろう。