あなたのうたになりたい 15
考え事がしたくて一人になったはずなのに、脳みそが回る気配も見せないままソイラテだけが空になって、ズズッと行儀の悪い音がした。カップを振って氷を揺らしてみた。もう一杯コーヒーを飲んだら胃が痛くなりそうだしお酒を飲む気分でもないし、お腹も空いていない。もう少しだけゆっくりしたらおとなしく帰ろう。
そう思っていたのに、スマホに名前が表示された。まだ打ち上げが終わるには早すぎる時間だ。背の高い椅子から降りるときに足がもたついて、隣でパソコンをいじっていた男性に横目で見られた。カップをごみ箱に放り込んで、店員のありがとうございましたーを背に受けながら応答のボタンをタップした。
「……はい」
「美月ちゃん? ケイキに体調悪いって聞いたけど、大丈夫?」
「大丈夫です」
「ほんとに?」
「ほんとですってば。……それより打ち上げ、もう終わったんですか?」
ヨウイチさんの声はクリアに聞こえるけれど、確かに奥のほうはざわめいていた。
「ああ、……俺もそろそろ抜けようかなーって思ってさ」
「主役が途中で抜けちゃ、ダメじゃないですか」
「そんなことない。充分盛り上がってるよ。俺がいなくても」
なにそれ、と口が動いたけれど声はでなかった。手で目を覆う。今度こそ本当に眩暈を覚えた。
「……ねえ、体調が悪いなら無理にとは言えないけど、良かったら今からちょっと付き合ってくれない?」
行けないとは言えなかったし、行くとも言いたくなかった。代わりに行先を尋ねた。電話の向こうでどんな顔をしているのだろう。私を嘲っているのだろうか。見え透いた嘘を吐いた私を。
駅前でタクシーを拾って、指定されたホテルへと向かう。信号に引っかかるたびに、何度も別の行き先を運転手に伝えようとしてやめた。真っ直ぐに前を見てハンドルを握る四十代ぐらいの彼が、余り客との会話を好むようなタイプではないように見受けられたからでもあった。
正面玄関の真ん前にタクシーが止まって、私は慌てて財布からクレジットカードを取り出した。自動で開けられたドアに苛立つくらいに、誰にも見られたくなかった。
「いいよ、俺が出すから」
その声に顔を上げる。車内を覗き込んですぐに数枚の紙幣を運転手に渡してお釣りを受け取るのを拒むと、そのまま私の腕を掴んで車から降ろした。無性に腹が立ったけれど、エレベーターに乗り込むまではなんとか我慢して、そしてドアが閉まった瞬間に腕を振りほどいた。驚いたかのような、傷ついたかのような、捨てられた子犬みたいな寂し気な顔をする。私はできるだけ目にしないように顔を反らした。ずいぶん慣れてますね、なんて嫌味の一つでも言ってやりたいのに、口が動かない。
手も繋がないまま、部屋に辿り着く。いつもなら少しでも居心地の良い空気を作ろうと努力したものだけれど、その気も起きない。沈黙が重たくて気まずい。どうして来てしまったのだろう。酷く疲れた感じがする。
シャワーだけは浴びたのだろうか、ヨウイチさんは暑さを感じさせないさっぱりとした顔をしていた。
「美月ちゃん、お腹空いてない? なんか食べるもん買ってこようか」
「……大丈夫です」
「……体調悪いのに、無理に呼び出してごめん。ちょっと横にでもなってて」
今日会ってから初めてヨウイチさんの顔を正面から見た。やっと目が合うと、彼はにこっと小さく笑って何も言わずに部屋を出ていった。
この間に出ていかないと、どうしようもなくなってしまいそうだった。それなのにドアのほうへ歩こうとすると、涙が込み上げてくる。私は考えることを放棄してベッドに寝転んだ。真っ白な天井を見上げる。私が彼の恋人だったら、まだ良かったのに。そう思った瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。