あなたのうたになりたい 14
チケットとスマホを握りしめて、壁に凭れていた。踊り場ならまだしも、階段のステップで長時間待っていると眩暈を起こしそうだ。一緒に行くと約束していた佳貴が、開場時間に間に合わないかもしれないと連絡を寄越してきた。最近さらにチケットが取りづらくなってきたシルビー。今回は無事入手はできたけれど、整番が良くない。急がなくていいよ、とメッセージを送ったものの、一人でぼんやり待っているのは退屈だ。
周りのファンの子たちの声が嫌でも聞こえてくる。私よりも年下に見えるような人が多い。あの曲が良くて、とかあれがかっこよくて、と語る声には胸の高鳴りが現れている。まるで昔の私と佳貴のようだった。唯一無二の戦友みたいで、目を輝かせながら好きなことを飽きることなく語り続けていた。ゆっくり瞬きをしてから、やっぱりできるだけ急いで、と佳貴にメッセージを送り直した。
整番通りに入場すると、予想通りフロア前方は埋まっていた。無理をすれば多少は前に行けそうでもあったけれど、そこまで頑張る気にもなれなかった。自分の場所を確保できる後方でスマホを見ていると、やっと佳貴が到着した。
「ごめん、遅くなって」
「いいよ。大丈夫だったの? 用事」
「ああ、うん、まあ。大丈夫」
「大丈夫なの、それ?」
佳貴は背伸びをして前方を覗きながら言う。
「てかもっと前行かなくていいの?」
「うん、いいよ。ここで。もうあんまり無理できないの」
「昔だったら何としてでも前行こうとしてたくせに」
二人でよくライブに通っていた高校生の頃。とくにシルビーは私が大好きで、どんなに整番が悪くても何とかして少しでもステージに近いところへ行こうとしていた。今思えばマナーが良くないことだったのかもしれないが、懐かしく思う。今はそこまでの必死さが無い。別に前に行かなくたっていい。メンバーの顔が近くで見られなくたっていい。
はっと息を飲んだ瞬間、フロアの照明が落ちて歓声と拍手が沸き起こった。
バスドラの音が重たく身体の奥のほうを揺らしても、ギターが高低差を一気に駆け抜けていっても、突然雨のような声が降り注いでも私の足は動かなかった。隣にいた女の子がぶつかってきてよろめいた。ステージを照らす色とりどりの激しい照明と鼓膜がじりじりするほどの大音量のせいで幻めく。歓声もメロディーも何もかもが遠い。同じ熱を共有するフロアのなかで私一人だけが取り残されていた。
どうして必死で見ようと、聴こうとしなくなったのだろう。そんなの簡単だ。
私はここにいる他の誰もと違うから。
ここにいる他のひとたちが知らないヨウイチさんを知っているからだ。
貧血が起こる直前のように、砂嵐のようなざらついた音がして視界が白んだ。
でもそんなのもう、ファンとは言えない。
「美月、今日どうしたの?」
佳貴が手渡してきたプラスチック・カップを受け取って、顔を背けた。
「体調でも悪い?」
「うん、ちょっと……」
横でまじかーと残念そうな声が上がる。本当に体調が悪いわけではないけれど、どうしようもなく混乱していた。答えが出なくて悩んでいるというよりは、出てきた答えがあまりにも強引に私の世界を変えていこうとしていることに戸惑っていた。
「この後打ち上げに呼んでもらってるんだけど、どうする?」
ヨウイチさんだけでなく、他のメンバーも参加するのだと言われて誘惑に屈しそうになったけれど、力なく首を横に振った。
「今日はちょっと早めに帰るよ。せっかく誘ってもらったのにごめんね」
「俺は良いけど、まじで大丈夫? シルビーのライブ来てまで体調悪いとか、美月にとったら相当じゃん」
「ほんとにね……」
三十八度近い熱を出しながらライブに来たのに、帰宅すると不思議と平熱に戻っていた事件を思い出して笑おうとしたのに乾いた声が漏れた。顔を上げると驚いた表情の佳貴と目が合った。その口が何か言うより早く、残っていたカルピスを飲み干して立ち上がった。
「ごめん。また連絡するね」
手を軽く振ると、未だ夢心地の観客たちの間を縫って逃げるようにライブハウスを出た。階段を降りていく足音がやけに響く。スニーカーが重たい。もしかしたら本当に体調が悪いのかもしれない。
家に帰りたいというよりもとにかく一人になりたかった。地下鉄に乗って適当な駅で降りて、スタバに入った。喉は乾いていなかったけれどソイラテを頼んで窓際のカウンター席に座る。あてもなくスマホの画面をスクロールしながら、ため息を吐いた。