動き出す想い
◆◆◆◆◆◆◆
三週間後。
「柴崎!企画部長だけじゃなく、社内中の役職が全員誉めてたぞ」
私は信じられない思いで課長を見上げた。
「ほんとうですか!?ありがとうございます」
正月企画の案件である。
目玉商品のうちのひとつ、『孫から祖母へありがとうを贈ろう』が正式なキャッチコピーに選ばれ、商品であるジュエリーも私がデザインした100パターンの指輪の中から二種類を一課全員で選出し、課長がそれを引っ提げて会議に参加した結果の話である。
「やりましたね!」
「夢輝さん、おめでとう」
「ブライダルヴィーナスのティアラも大成功でしたし、週末は祝賀会やりましょう!」
拍手と共に一課の面々のテンションが上がる。そんな中、課長は皆全員に聞こえるように声を張ると、
「二課のブレスレット、三課のネックレスもかなり良い出来だ。午前中には決定画がアップされるはずだから確認しといてくれ」
皆が返事をし、それぞれのデスクに戻った時、
「良かったですね、夢輝さん」
太一がニッコリ微笑んでいて私を見下ろしていた。
「これで一段落つきましたよね」
「まあね」
私が頷くと、太一はわざとらしく咳払いをした。
「なに」
「なにって、分かってるでしょ?」
私は僅かに息を飲んで太一を見上げた。太一は茶色の瞳を甘く光らせて私を見つめたまま、唇を引き結んでいる。
……実は隆太と焼き肉を食べに行ったのを最後に、二人とはプライベートな付き合いは控えていた。勿論、この度のクリスマス&正月企画のデザインに集中するためだ。良いものをデザインしなければ、私を抜擢してくれた課長をはじめ、それを後押ししてくれた仲間に顔向けできないもの。
「僕、めちゃくちゃ我慢してるんですけど」
私は内心焦りつつも、平静を装いながら言った。
「鮎川くん、あの、その話は後でね」
「じゃあ、今晩空けてください」
「でもほら、週末は皆で祝賀会だから」
「それは別です。あなたと二人だけで食事がしたい」
いつの間にか太一の顔に微笑みはなくなっていて、変わりに凄く馬鹿真面目な表情をして私を見ていた。
「……分かった」
「やった!!」
「もうっ!声が大きいよ!」
「すみません、つい」
「じゃあ、仕事するよ」
白い歯を見せた太一が無邪気だったから、私はおもわず苦笑した。
◆◆◆◆◆
定時後。
「夢輝さん、どうします?一旦帰ってから出掛けるか、このまま行くか」
「帰るの面倒だから、このまま行こう」
私は大通りを目指しながら太一を見上げた。
「じゃあ、ついてきて」
太一はそう言うと、ギュッと私の手を握って歩き出した。この辺りはオフィスが多い。
「ちょっと、太一っ、こんなところで手なんか……」
太一が私を振り向き様にフッと笑った。
「スーツ姿ならちょっと眼を引くかもしれませんけど、この格好ならそう目立ちませんよ」
わが社は営業部と役職以外の社員はスーツを着ない。でも……まるで自覚がないんだよね、太一は。
ほら、きっと背だって180センチはあるだろうし、爽やか系のイケメンだし。みんなに見られてる事に気付いてないのかな。
私は呆れながら太一を見つめた。
「なんですか?」
「自分がカッコいいことに気付いてないの?」
太一は私をマジマジと見つめた後、プッと吹き出した。
「夢輝さんにそんな事言われたら、ますます嬉しいですけど……あなたはまるで鈍い」
「鈍いって……」
そりゃ、鈍いから婚約破棄されちゃったのかも知れないけど……。
私は本当に自分が鈍いのか、鈍くないのかが分からずに眉を寄せた。すると太一が、
「鈍くても鼻血が出ても好きです」
私は一瞬驚いてからキッと太一を睨んだ。
「鼻血はしょうがないでしょう!それにしつこい!」
「あはははは!ごめんごめん。ほら行くよ、夢輝さん」
『ほら行くよ、夢輝さん』
私をそう呼ぶ太一はフワリと微笑んでいて、私の心はいつもポカポカと暖かくなる。ああ、太一は私みたいな女にでも優しい。私に構っている暇があるなら、もっと若くて可愛い子を誘えばいいのに。
そう思った直後、チクンと胸に針を刺されたような痛みが走った。
「ほら早く、夢輝さん」
「……うん」
私は頷くと、太一の手をキュッと握り返した。
◆◆◆◆◆◆
「夢輝さん、僕の部屋来て」
「……へ?」
居酒屋を出た後、手を握りながら太一は長身を屈めて私の瞳を覗き込んだ。
「……僕のお勧めのDVDがあるし、美味しいスパークリングワインがあるんです。一緒に飲みながら見ましょう」
「だ、けど……」
戸惑う私にニッコリと微笑んで、太一は続けた。
「まだ、7時だし。いいでしょう?」
……いいけどダメだというか、なんかどう答えていいのかまるで分からない。だってなんだか信じられないし、からかわれてたりして……ドッキリとか。
太一といるとほのぼのする感じで、凄く安心する。だからといってそれを勘違いしたくない。
「夢輝さんは、僕といるのが嫌ですか?」
私はマジマジと太一を見つめた。
「嫌じゃないけど戸惑ってる」
「どうして戸惑ってるんですか?」
惨めだけど……言うしかない。
「だから、私みたいな年上のアラフォーに構う暇があるなら、もっと若くて可愛くて太一に似合う子がいっぱい」
「まただ」
私の言葉を遮るなり、太一は私を甘く睨むと素早く抱き寄せた。
「夢輝さん、僕は貴方にちゃんと告白したでしょう?」
たちまち心臓が喧しく脈打つ。
「好きなんだ。夢輝さんが」
そう言った太一の顔は真剣で、私は息を飲んだ。
「あなたにキスがしたい」
抱き寄せられて、仰け反るように見上げる私に彼は続けた。
「なんでそんな可愛い顔するんですか?」
太一は私を見る眼を細めながら、その形のよい口を引き続き開いた。
「もう少し、僕とキスしたいって気持ちを隠してるあなたに付き合ってあげてもいいかなと思ってましたが……もう限界です」
「あ、あの……っ」
私の返事も聞かず、太一は私にキスをした。間近に感じる太一の体温と柔らかい唇。その短いキスは優しくて、それでいて少しだけ強引で、胸が踊るようなキスだった。
……そうだ。確かに私はキスしたかった、太一と。
ふと回りを見て道行く人の視線を感じると、私は太一の胸をトンと叩いた。
「人が見てる」
クスッと笑うと太一はいっそう私を抱き締めた。
「あなたが悪いんです」
それから一旦言葉を切ってから、太一は再びこう言った。
「好きです、夢輝さん」
ああ、もう。
「……ありがと……」
「じゃあ、僕の部屋へ来てくれますか?」
「……うん……」
私は照れながらも頷いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「ちょっと部屋に寄りたいから、太一は先に帰ってて。すぐ行くから」
私がエレベーターの中でそう言うと、彼は首をかしげた。
「じゃあ、僕も行きます」
「いいよ、このまま乗ってて。先に仕事の資料を部屋に置いてきたいの」
今日の鞄は資料で重いから、一度部屋に寄って、鞄ごと置きたかったのだ。同じマンション内だし、スマホだけで問題ないし。
「じゃあ後で」
私は太一に手を振るとエレベーターを降りた。……服も部屋着に着替えたいな。玄関の電気も点けずにパンプスを脱ぐと、私はリビングに向かいながら上着を脱いだ。
それからダイニングの椅子に着ていた服をバサッと掛けると、ソファの背もたれに引っ掛けたままの部屋着を取ろうと、リビングの明かりをつけた。
「きゃあっ!」
明かりがついた直後、ソファに座る人物の存在に心臓が縮み上がり、思わず私は悲鳴をあげた。
「……夢輝……」
秋人だった。ソファに秋人が座っていたのだ。それもひどく疲れた顔をして。
前屈みになって両膝に肘を付き、頭を抱えるようにしながら秋人はゆっくりと私を見た。
「……なにしてんの」
何故ここに秋人がいるのか目まぐるしく脳内で考えようとするが、まるで分からない。
……鍵は返してもらったのに。朝家を出る時、確かに鍵をかけた。ということは……。
「まだ、スペアを持ってたの?……返して」
秋人はユラッと立ち上がると私を上から下まで見つめた。下着姿を凄く後悔したけど、部屋着は秋人のいるソファの背もたれだ。
「これ着るんだろ?」
秋人は私の視線の先を見て、部屋着を手に取ると私に近寄ろうとした。
反射的に一歩下がった私を見て、秋人が僅かに眼を細める。
「……なんだよ」
言葉の端に苛立ちを含ませ、彼は私にもう一歩近付いた。
怖い。秋人の眼が。
私は出来るだけさりげなく踵を返すと、廊下へ出て寝室のドアを開けた。それから慌ててタンスを開けると一番上の服を手に取り広げる。
……早く着なきゃ。
「きゃあっ!」
その時、後ろから抱き締められて、私は思わず悲鳴をあげて身を屈めた。
「夢輝、やっぱり俺にはお前しかいない。俺とやり直してくれ」
な、んですって……?
嫌悪感が身体中に広がって、秋人に対する怒りが生まれる。
「離して」
秋人はゆっくりと腕を解くと私の肩に手を置いた。
その手をさりげなく払いながら私は秋人に向き直り、しっかりとした口調で告げた。
「秋人、私達はもう終わったんだよ。婚約破棄したのは秋人でしょ?」
秋人は私を虚ろな瞳で見下ろすと、呟くように言った。
「あの女……リアナはモデルだし、うちの会社SLCFの社長令嬢なんだよ。……俺をその気にさせるだけさせておいて、『婚約破棄したの!?私はそんな重い関係望んでない。親が決めたんだけど、お見合いも控えてるし』なんて言いやがって」
秋人の瞳は血走っていて、私は初めて見る彼の形相に眼を見張った。
「いくら連絡しても会ってもくれない」
憎々しげな秋人の口調は、私の知っている彼じゃないようだ。いや、一年の交際期間のうちにまだ見ていなかった一面なのか。
「秋人。それは秋人と彼女の問題でしょ?私には関係ない」
私は手早く服を着ると、彼の脇をすり抜けて寝室のドアに手をかけた。
「もう帰って」
「待てよ!あんなガキのどこがいいんだよ?!」
太一の事だとすぐに分かった。
私の腕を掴み、秋人は荒っぽく引き寄せた。私はそれが嫌でたまらず、秋人を睨んだ。
「やめて!それに秋人に関係ないでしょ」
「お前、恥ずかしくないのかよ、あんな若い男に入れあげて。あのガキにしたら、歳上のキャリアウーマンを味見したかっただけなんじゃないのか?どうせすぐに捨てられる」
怒りで全身が震えた。
ヨリを戻したいと言いつつ、私を蔑み太一の人間性を否定する秋人に我慢ならない。
「秋人に太一の何が分かるの?!自分が若い女に走って婚約破棄した最低男だからって、彼まで一緒にしないで」
たちまち秋人の顔に怒りが生まれて、彼は私を睨み据えた。
「お前みたいなババア、誰が相手にするかよ」
言うなり私の首に両手をかけギュッと力を込めると、秋人はニヤッと笑った。
……正気じゃない。
「秋人……苦しい……」
気道を塞がれる感覚に、パニックになる。
「ババアでも、抱いてもらえるだけ有り難く思え」
言い終えないうちに、秋人は私をベッドに押し倒し、太股の上に座って自由を奪うと上着を脱ぎ始めた。
首から秋人の手が離れた瞬間、私は急いで空気を吸い込んだ。
布団に手が絡まってしまって、焦りのあまり秋人に抵抗出来ない。
「秋人、やめて!!誰か助けて!!」
「思いきりイカせてやるから力抜けよ……」
「いやあっ!!」
その時バタンと玄関ドアの開く音と、太一の大声が響いた。
「夢輝さんっ!!」
ああ、太一、太一。来てくれたんだ。私は涙が出そうになるのをこらえながら、声の限り叫んだ。
「太一、助けてっ!!寝室!」
秋人の身体の上から見えた太一の眼は怒りに満ちていて、私は初めて見る太一の表情に眼を見張った。
同じ間取りの太一には寝室の場所がすぐに分かったらしく、
「夢輝を放せっ!」
私に馬乗りになった秋人を、太一は投げ飛ばした。
ガツンと秋人の身体が床と壁にぶつかり、それでも太一は崩れ落ちた秋人の胸ぐらを掴んで、その頬を殴り飛ばした。
「ううっ……」
秋人の身体が派手に倒れる。なんだか動きが鈍い。今になって初めて、私は秋人が泥酔しているのに気付いた。自分自身がお酒を飲んでいたから、酒臭さに気付かなかったのだ。
「夢輝さん、大丈夫ですか」
「うん、大丈夫」
「怖かったでしょう。こっちにおいで」
「太一っ」
私は太一に抱きついて、その身体に頬を寄せた。
「太一、太一」
太一は私を抱き締めて背中をさすると、額にキスをしてから身を離した。
「秋人さん。これ以上夢輝に付きまとわないでいただきたい。今後のあなたの行動次第では夢輝は法的処置も検討することになるでしょう。あなたも社会的地位を失いたくはないんじゃないですか?!」
秋人は、ギュッと眼を閉じて項垂れた。
◆◆◆◆◆
「本当に泊めてもらっていいの?」
「大歓迎です」
秋人に鍵は返してもらったものの、太一は私が自分の部屋で寝るのを断固として反対した。
「鍵を付け替えるまではダメです」
「近々不動産屋さんにお願いするよ」
「明日、電話してください。あなたがまた危ない目に遭うのなんて耐えられない」
「うん。ありがとう」
あの後、秋人は少し酔いが覚めたのか、自分のしたことを凄く後悔した様子だった。何度も私に頭を下げる秋人は、もはや私が愛した彼とは大きくかけ離れていて、私はこれ以上彼を責める気になれなかった。
秋人も辛かったんだろうなと思って。
けれど、彼が私に言った言葉が深く胸に突き刺さったのは事実だ。
『 お前みたいなババア、誰が相手にするかよ』
『ババアでも、抱いてもらえるだけ有り難く思え』
なんとひどい言葉なんだろう。私は自分に放たれた残酷な言葉に、思わず顔を覆った。その時、
「夢輝さん」
太一が柔らかく私を呼んだ。
「何を言われたか知りませんが、気にすることはありません」
「……気にするよ、太一」
泣くまいと思うのに、どうして涙が溢れてしまうのだろう。
「私みたいなババア、誰も相手にしないって。 ババアでも、抱いてもらえるだけ有り難く思えって……」
「夢輝さん」
太一が私を強く抱いた。
「夢輝さん、そんなの酔っ払いの戯言だ。あなたは本当に素敵な人です」
涼しげな眼を真っ直ぐに私に向けて、太一は切な気に顔を寄せた。
ああ。自分を包んでいた靄が徐々に薄くなっていく感覚。受け止めるのが怖かったけど、今は太一の想いに答えたい。それから、今までの太一との出来事が脳裏を駆け巡る。
いつの間にか私は、太一がいない毎日なんて考えられなくなっていたようだ。
私は観念して認めた。
完全に太一を好きだと。
「……太一」
私は太一の首に両腕を絡めた。
「ん?」
太一の優しい笑顔。彼のリビングで抱き合って、至近距離から見つめ合う私達。
「太一、私、太一が好きだよ」
「……え」
「助けてもらった恩から言ってるんじゃないよ。ほんとうに太一が好きになったの」
眉をあげて私を見つめ、ポカンとした太一に私はギュッと抱き付いた。
「や……やったぁ」
耳元で彼が呟くようにそう言った。
「やったぁ!」
顔を離して私の瞳を覗き込むと、太一は私に問いかけた。
「じゃあ……僕と付き合ってくれますか」
「太一が私でいいなら、付き合いたい」
「やったあ!」
その心から嬉しそうな太一の声を聞いて、私は泣きながら笑った。
「夢輝さん、ありがとう」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
太一が大きな手で私の涙を拭うと、斜めに頬を傾けた。フワリと柔らかい太一の唇に、私はゆっくりと眼を閉じた。
この時の私は嬉しくて幸せで、太一のキスに夢中だった。