足音
◆prologue◆
どうしようもない悲しみと、やりきれない思いを抱えながらも
私はまた明日を夢見る
◆◆◆◆◆◆
「用意はいい?行くわよ」
「……わ、わかった」
キラッとした瞳でこちらを見た親友の麻美に私、柴崎夢輝はぎこちなく返事を返して深呼吸をした。
週末。
場所は東京駅中央口付近。
夏の日暮れは遅く、午後七時でも十分明るい。
オフィス街から駅へ向かう人の数も多く、週末独特の浮き足だったような雰囲気がそこやかしこでみうけられる。
私は見失うまいと、愛しい彼の背中……東郷秋人の広い背中を凝視しながら歩を進めた。オフィス街にある彼の会社からずっとつけているが、今のところ彼に怪しい素振りはない。
「メトロかな?それともタクシー?」
「接待だって言ってたからタクシーじゃないかな」
「独りで?!普通、他に誰かいるでしょ?部下のひとりも連れないで接待っていうのも怪しくない?」
「…………」
「まあ、鈍いアンタがこんな思いきった行動に出る気になったんだもんね、彼も油断しまくりでボロが出てきたっつー感じか」
モロ図星で、私は何も言えないままグッと言葉に詰まった。
……そう。どうして私が付き合って一年になる恋人、東郷秋人を尾行していたかと言うと……それは徐々に生まれた彼への疑惑のせいであった。
◆◆◆◆◆
一ヶ月前。
「えーっ、式場見学にいく約束でしょ?!」
私は眉を寄せて恋人である、東郷秋人を見上げた。
土曜日の朝である。
「悪い!急に会社から呼び出しかかっちゃってさ。週明けのプレゼンまでにもうひとプラン練らなきゃならない。チームの中の一人がいい案持っててさ、それに手を加えようと思ってるんだけど、丸々2日はどうしてもかかってしまうから、今から出勤して泊まり込みで形にするよ」
「……そう……」
飲みかけのスープをテーブルに置き、パンをひとかじりして秋人は席を立つと、
「来週の週末はなんとか都合つけるよ」
秋人は私をチラリと見てそう言うと、足早にリビングを出て出社する用意を始めた。その均整のとれた後ろ姿を見つめていると、一抹の不安が脳裏をよぎった。
まさか……秋人は心変わりしたんじゃないだろうか。昨日、何だかよそよそしかったし、スマホばかり気にしてたし。
背筋がゾクッとした。やだ、怖い。この歳で捨てられたら、人生終わる。私は今37歳だ。いつも実年齢よりかなり若く見られるが、実際は歴としたアラフォーである。
独身だと言うと、たまに『今まで何してたの?』というような視線を感じる瞬間があるけど、何してたかって言うと……。
二十代はアッと言う間に過ぎ去っていった。人並みに恋もしたけど、結婚には至らなかった。結婚するなら頼れる男がいい。尊敬できる男じゃないと、もっと言うなら自分よりも仕事のデキるハイスペックな男じゃないと結婚する意味がないと思っていた。
だって結婚していずれ妊娠、出産となると、旦那の世話に加えて育児が増えるのだ。旦那が自分より頼りないなんて有り得ない。大きな息子が増えるなんてゾッとするもの。
それに、デートの度に仕事のミスを愚痴るような男も嫌。
なんていう風に、あれやこれやと譲れない項目が増えていく度に将来を見据えての相手選びに疲れ、特定の恋人を作らない内に気がつくと二十代後半から三十代前半が過ぎ去っていたというわけだ。
当時の私はお互いに私生活に踏み込みすぎず、寂しい時だけ傍に寄り添う男がいたら十分だったのだ。
ところがそんな私の前に、初めて結婚したいと思う男……東郷秋人が現れた。
秋人とは仕事で知り合った。わが社は20代向けのジュエリーをデザインし、製造販売している。最近では大手ネット通販会社とも契約し、スマホが普及したこともあって売り上げは徐々にではあるが右肩上がりだ。
そんな中、業界トップクラスのアパレル企業『SLCF』が、ファッションとジュエリーのセット専門通販雑誌の創刊にあたり、ジュエリー部門の契約会社をオーディション方式で選出するという企画が持ち上がった。
わが社も何とか参戦を果たし、私はチームリーダーとして部下を連れ、イチオシの商品を引っ提げて『SLCF』に乗り込んだ。その審査員兼バイヤーが、秋人だったのだ。
秋人は素敵だった。今でもよく覚えている。
『株式会社A&Eです。どうぞよろしくお願い致します』
そう言って一礼した私達を優しい眼差しで見つめ、商品のコンセプトを説明する私の話に熱心に耳を傾けていた秋人を。
秋人からデートに誘われた時は、天にも上る気分だった。
交際がスタートし、同い年という点でも、結婚を視野にいれた交際だと理解していた。そしてその半年後、突然のプロポーズ。
あんなに面倒だと思っていた結婚を、秋人となら体験してみたいと真剣に思った。秋人は美形だし、頭脳明晰で仕事も出来る。申し分ない相手である。嬉しいことに式場選びも秋人から誘ってきた。結婚式って色々面倒なのに、彼がまるでノータッチだって親友がボヤいてたけど、私たちの場合は多分大丈夫だろうなー、なんて思った。だから式場の見学も、私は凄く楽しみにしていたのだ。なのに……。
ここ最近、秋人の様子がどうも変だ。
あまり眼を合わそうとしなくなった上に、ハグやキスもしなくなった。
おまけにスマホをロックするようになったし、夕食後は私を避けるように寝室へ閉じこもる。
一度など心配して寝室へ見に行くと、急に開いたドアに驚いた上、秋人はスマホを手から取り落とした。その画面は紛れもなく無料通信アプリで、明らかに彼は誰かと文字で会話中だった。
焦った彼の顔が次第に怒りを含んだ顔つきに変わったのを、今も鮮明に覚えている。
それ以来なんだかんだと理由をつけて、秋人は結婚に関する物事から逃れようとし始めたのだ。
これは何かある。
いくら鈍感な私でも不安で夜も眠れず、親友である麻美に相談する運びとなったのだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
そして現在。
「いい?!何見ても取り乱すんじゃないわよ」
麻美の言葉に私はゴクリと喉を鳴らした。
「わ、分かってる。彼がゲイだったとしても冷静でいる」
ところが数分後、ゲイであってくれた方が気が楽だったと言わざるを得ない事態が私を襲った。
人波を縫うように駅へと向かっていく秋人に、突然背の高い激細の女性が抱き付いたのだ。
へっ!?
ドキンと胸が鳴った私をよそに、秋人が女性に向き直ると顔を近づけてキスをした。
膝上までのフレアワンピース一枚をサラリと着こなした、遠目にも分かる美人だった。女性は完全に秋人にもたれ掛かっている。
吸い込まれるように駅に消えていく人々の中、二人だけが動かなかった。
「しっかりしな!」
麻美が私の肩を抱いて、低い声でそう言った。
「……分かってる」
声が震えるのを止める事が出来なかった。
「どうする?!タクシー乗り場に行くみたいだけど……追いかける?!」
「いや、もう十分……」
それから瞬時に仕方がないと思ってしまった。遠目でもすぐに分かった。私、彼女に負けてる。スタイルも、若さも。
呆然とする私に麻美は言い放った。
「こういうことは早く判るに越したことない。アンタを裏切った彼は人生最大のミスを犯したね。さあ、もう行こう。私が傍にいるから泣くなり暴れるなり好きになさい。全部私が受け止めてあげるから」
私はそう言ってくれた麻美を見て呟くように問いかけた。
「私が……悪いのかな」
喧騒と光に満ち溢れていた街の風景が、瞬く間に灰色に変わった。どうしようもなく悲しくて苦しくて、なによりとても惨めだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「あんたどうすんのよ。あれからもう二週間だよ?!」
私はジョッキをテーブルに置くや否や、眉を寄せた麻美を見てガックリとうなだれた。
「どうしたらいいか、分かんない……」
「はあっ?!二股かけられてんだよ?!」
私は手元に視線を落として、頷いた。
「それは、分かってる」
実はあの日、秋人を尾行し彼がスレンダー美女と抱き合ってキスしていた現場を押さえたにも関わらず、私は彼となんの話し合いもしていなかった。麻美はそんな私の気が知れないのか、とうとう痺れを切らして私を連行した。
そう、いつもの居酒屋『れん』に。
「話し合いしなきゃ先に進めないでしょうがっ。どうせ彼はまた週末毎に家空けてるんでしょ」
その通りだ。近頃じゃ、まともに顔を会わせる日もない。
「……怖いんだよね、私」
ガヤガヤと騒がしい店内で呟くようにそう言った私の言葉を、麻美は聞き逃さなかった。
「分かるよ。怖いのは分かる。プロポーズもされてそんなデカイ指輪もらってるのに彼が心変わり、もしくは浮気なんてね」
ハートの形の心臓に、ジャックナイフが突き刺さった画が頭に浮かんだ。麻美は続ける。
「けどね、こうしてる間にも時間はどんどん過ぎていくの。もうあんたは十分考えたでしょ?!後は彼の気持ちをちゃんと聞くしかないじゃないの」
「うん……」
頭では理解している。けれど私は、あんな現場を見てしまっても秋人と別れたくないのだ。だってプロポーズもされたし、お互いの両親との顔合わせも済ませている。
なにより、私の37歳という年齢。
子供だって欲しい。
なのにここにきて、この一年が無駄になるなんて怖くて怖くて仕方がない。これから先、秋人みたいな素敵な男に巡り会う確率なんか低いし、段々歳を取ってシミやシワが増えていく。
男は若い女のがいいに決まってるもん。だから秋人だって、あんな若い美女に……。
だったら、見て見ぬふりをしていようか。けれど、別れ話を先延ばしにされた挙げ句に結婚が白紙になるともっとダメージを受ける。
予定通り秋人と結婚したとしても、浮気をされ続ける人生が待っているのかもしれない。
どちらも怖い。怖くて秋人と話し合いなんて出来ない。
「麻美なら、」
「私なら、さっさと別れる!」
麻美が私の言葉に被せながらピシャリと言ってのけた。その時、麻美のスマホが鳴った。
「おっと、呼び出しだ。……はい、池田です。斎藤さんね、わかりました」
麻美は産科医だ。ここから徒歩3分の産婦人科に勤めている。
「行くわ。前置胎盤で入院中の患者が破水したみたい。そろそろだと思ってたんだよね」
だから、酒じゃなくて烏龍茶をジョッキで飲んでたのか。
「頑張ってね」
「あんたもね!」
麻美は私にキラッと光るような視線を投げて、居酒屋『れん』を後にした。そんな麻美の後ろ姿を見ながら、私は深すぎる溜め息をついた。ああ、麻美は綺麗だな。
彼女は私と同じ独身アラフォーで、いわゆるシングルマザーというやつだ。大変な時期もあったのに、麻美はいつも前向きで輝いている。
じゃあ……私は?私は……全然ダメだ。輝いてない。怖くて恋人に向き合えない、独身アラフォー女。
空になったジョッキを置くと、私は立ち上がった。店を出るとすぐにスマホが鳴った。秋人からLINEだ。
『急に出張になった。月曜に帰るよ』
「……どうせあの美女のところでしょ」
私はスマホの画面に向かってそう呟くと踵を返した。秋人の香りがする、あの家にいたくなかったのだ。その時、
「きゃあっ!」
「うわあっ!」
「ご、ごめんなさいっ!」
しりもちをついた私は、焦って立ち上がりながら目の前の男性を見上げた。スマホを見ながら急に方向変換して歩き出したため、私は真後ろにいた人にぶつかってしまったのだ。たとえ相手が男性でビクともせず、自分が後ろに吹っ飛んだとしても、私に非があるのには代わりない。
「あの、お怪我はないですか」
そう言った私を見て、男性は息を飲んだ。
「あなたの方が……あの、鼻血が」
「えっ?!嘘っ!」
サアッと血の気が引いた。いや、血の気が引くというか出ちゃってるらしいけど。反射的に鼻に手をやると、指にベッタリと血がついた。嘘でしょ、やだっ……!
鼻血なんか、幼稚園の時以来出てない。やだやだ、どうすりゃいいの、分かんない。通りすがりの人々はジロジロ見てくるし、ぶつかった時に吹っ飛んだカバンとスマホが……。
公衆の面前で独身アラフォー女が、鼻血!!しかも予期せぬ鼻血に、応急処置が思い浮かばない。は、は、鼻をつまむ……どのへんをー!?
頭が真っ白になって分からなくて、ただただ私は掌で顔を隠した。その時、
「おいで」
ぶつかった男性が、私を引き寄せた。
「これで、押さえてて」
そう言って彼は、濃い色のハンカチを私に手渡した。それから優しい笑顔で、
「大丈夫、大丈夫だよ」
「きゃああっ」
急にフワリと身体が浮いて、私は思わず彼にしがみついた。
「あの、あの私、」
「大丈夫だから、僕を信じて」
僕を信じて……?
その言葉に思わず眼を見開く。……あなたを?信じる?
私は至近距離から男性を凝視した。中高な上品な顔立ちで、優しく甘い瞳が凄く魅力的だ。か……カッコいいし、可愛い。穏やかな笑顔は、私の心をフワリと軽くしてくれた。
「信じて……いいの?」
彼の真意を見極めようとして私は思わず問いかけたが、すぐにかぶりを振った。多分秋人を疑い続けていたから、疲れていたんだと思う。
「ご、めんなさい、私、」
「信じていいよ」
男らしいのに可愛い彼が、クスッと笑った。
「もう、何の心配もない」
ツーッと涙の伝う感覚がした。何の心配もないと、ずっと言って欲しかったから。そう、ずっと前から。急に身体が重く感じて、クラリと目眩がした。
「私、柴崎夢輝……夢が輝くで、ゆめき……」
鼻血を流しながら自己紹介なんて随分変だけど、ひどく目眩がしてこのまま眠ってしまいそうだった。
「夢輝、大丈夫だから。僕がそばにいるから」
なんて嬉しい言葉なんだろう。
「うん」
私は頷いて眼を閉じた。スウッと意識が遠退く感覚。
後にも先にもこんな経験は初めてだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「夢輝」
あ……秋人が帰ってきた。
「夢輝」
頭も瞼も重いけど、取り敢えず返事をしなきゃ。
「秋人、お帰り。ちょっと待ってね、すぐにご飯の用意……」
そう言った私の額に、彼はチュッとキスをして、
「いいんだ。ゆっくりお休み」
「いいの……?じゃあ、もっとキスをして」
「いいよ」
フワリと空気が動いて、唇に柔らかい感覚が広がる。
ああ、幸せ。
私は口を開けて彼を迎える準備をした。
「……もっと」
「……夢輝、」
秋人の大きな手が、私の背中に回る。ギュッと抱き締められるこの感覚。
「秋人……私でごめんね」
謝ってしまう自分が情けなくて、またしても涙がこぼれた。年を取ると涙腺ユルくなるなんてきくけど、こういう感じなのか。
それどころか、鼻からも……。鼻から……。鼻……血……。そうだ、私、鼻血が出たんだ。血は……止まってる。あれ、あの後どうなったんだ?ちょっと待って、ここはどこなんだろう。
自分の家じゃないのは分かる。軽い夏布団はやたらと気持ちいい。いや、夏布団はこの際どうだっていいんだけど……。
怖くて動けなくなり、私は硬直した。その時、
「夢輝」
……秋人の声じゃない。ということは……今キスしたのも、秋人じゃなくて……どなた?
「あの、ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」
私はそう言って身を起こすと、ベッドの上で正座をした。途端にクラリとして身体が傾く。
「あ、れ」
「あぶな……」
ギュッと眼を閉じて衝撃を受け止めようとしたけど、咄嗟に手を伸ばして頭をかばってくれた彼の胸に私は反動で飛び込んでしまった。
「う、わ」
彼はまさか私がそんな勢いで胸に飛び込んでくるなんて想定外だったらしく、反射的に片手で後ろに手をついたものの、そこにベッドはなかった。
ガツン!ドサッ!と無惨な音が響く。
つくづく優しい人なんだろうと思った。二人もろともベッドから転がり落ちたというのに、彼はそれでも出来るだけ私を衝撃から庇ってくれていたから。
抱き合ったまま至近距離で見つめ合ったら、彼がクスクスと笑った。
やっぱりあの時の彼だ。部屋のライトの下で見る彼は、更に素敵だった。
綺麗な眉の下の二重の眼はキリッとしているのに、茶色の瞳は大きくてあどけない。上品な口元も頬のラインも、男らしいのに甘い雰囲気が漂っている。
「あ、あの、重ね重ね本当にごめんなさい、あの、私、」
こんな男前に覆い被さった挙げ句に見つめ合うなんて、正気じゃ無理だ。
「夢輝」
「は、はい」
「鼻血止まって良かったね」
最悪だ。
こんな男前に鼻血を見せた上、流血したまま気絶して部屋で介抱されるなんて。
もう、泣きたい。いや、そういや泣いた。泣いて……キスをしてしまったような……。
私は呆然として彼を見つめた。見たところ、二十代後半というところだろうか。今時の若者という感じで、細身体型。
やだ、どうしよう。こんな若い子に、私、なんてことを。なんだっけほら、痴漢の対義語。痴女だ……痴女だとか、思われちゃったんじゃないだろうか。
ヤバイ。私は焦って彼の上から飛び退くと、あたりを見回しベッドにかけてあったカバンを引き寄せた。それから名刺を取り出し彼に差し出すと、深々と頭を下げる。
「これ、私の連絡先です。本当にすみませんでした。あの、もしも服やお布団を汚していたら全部弁償いたします。それと、後日改めてお礼に伺ってもよろしいでしょうか?」
マシンガンのように捲し立てたのが余裕のなさを物語っていて、恥ずかしくて恥ずかしくて、私は顔を上げることが出来なかった。
「じゃあ……頂きます」
立ち上がって彼はそう言うと、私の手から両手で名刺を受け取って、じっと見つめた。
「夢輝、僕の名刺も受け取って」
彼はそう言うと、私に自分の名刺を差し出した。オズオズとそれを受け取り、眼を通した私は思わず息を飲んだ。
だって、株式会社A&Eと書いてあったから。
「デサイン一課……鮎川太一……」
何の冗談だ。わが社には、デザイン課が一課から三課まである。そして私はデザイン一課だ。
「嘘でしょ?」
私は僅かに首を振りながら彼……鮎川太一を見上げた。
「来月から株式会社A&Eに入社するんだ。ヘッドハンティングされちゃって」
またしてもクラリと目眩がした。
「おっと夢輝、大丈夫?」
「来月からって、あと数日で来月ですけど」
私が呆然としながらもなんとかそう言うと、鮎川太一はニッコリと微笑んだ。
「鮎川太一と申します。柴崎夢輝チームリーダー、どうぞよろしくお願いします」
こんなこと、ある?!課長からは何も知らされていないのに。
いや。課長は正直言ってどん臭い。これくらい、あり得る。けど、これごときでギャーギャー言っていいのは二十代までだ。独身アラフォー女がガタガタいっちゃカッコ悪い。
私は咳払いすると身を正し、鮎川太一を見上げて微笑んだ。
「こちらこそ、ご一緒に働けるのが凄く楽しみです。どうぞよろしくお願いします」
すると、鮎川太一がクスリと笑った。
「あー、こんな可愛い人と働けるなんて、幸せ」
やだ、からかわれてる。独身アラフォーで、鼻血出して気絶する女が可愛いわけがない。早く立ち去りたかった。
「……じゃあ、私はそろそろ失礼します。また後日伺います」
私はそう言って立ち上がり、玄関へと向かった。しばらく歩を進めながら、ようやく首をかしげる。あれ?!
心臓がドキッと脈打つ。
こ、この間取りは……。いや、マンションなんて似たような間取りも多数あるだろう。ましてや部屋数が同じなら……でも……似すぎてませんか?
私は冷や汗の出る思いで靴を履くと、鮎川太一に一礼して玄関を出た。
それから迷うことなくエレベーターに向かい、試しに10階のボタンを押す。
……やっぱり……。エレベーターを降りてやっと確信した。ここは、私のマンションだ。マンション内に入ってしまえばどこにも『サンシャインレフト』とは表示してなかった。もしかしたら壁のどこかに書いてあるかもしれないけれど、一階のエントランスでしか見たことがない。
「……やっぱり」
私はそう呟くとバッグからカギを取り出して玄関ドアを開けた。慣れ親しんだ室内が視界に広がる。予想通り秋人は居なかった。
見えない何かの足音を感じ、私は溜め息をついた。