掌篇集
七月に死んだ蝉の話
通学路になっている大通りを、住宅街の方へ一本逸れた、細い路地裏でのことだった。
門からずっと蹴り続けていた小石がそこへ入ってしまったから、慌てて、後を追いかけた。コンクリートの灰色のブロックを積み上げた塀で両側を挟まれて、ひと一人が通るのが精一杯の狭い道だった。転がっていった小石は塀の下へあるのがすぐに見えたのだけど、その手前に、仰向けに蝉が死んでいた。
近づいても羽音を立てず、運動靴のつま先でつついてみても無反応だったから、本当に死んでいるのだと分かって、俺はしゃがみこんで、その蝉の死体をまじまじと見つめた。胸から生えた六本の脚はわずかに曲がった状態で固まって、もう動かないようだった。細かい毛が生えているようなのはなんの為だろう。蝉の脚も筋肉で曲がるのだろうか。ならばこれも死後硬直というのだろうか。そんなことをぐるぐると考えた。
そっと、壊してしまわないように蝉の死体をひっくり返した。透明な羽は折り畳まれれ背中を覆い隠していたけれども、右の羽は何故だか、半分ぐらい欠けていた。それへ俺はひどく納得した。ああ、だからこの蝉はこうして死んだのだ。死んでしまったのだ。死んでしまったから飛べないのでなくて、飛べないから死んだのだ。
「俺と、一緒だね」
語りかけても、死んだ虫の目は濁ったまま、どこを見つめているのかも定かでない様子のままだった。
僕らの背中の後ろへ、じくじくと蝉が鳴いている。
安全ピンと両面テープで世界を救った話
白いカーテンが破れてしまったのを安全ピンでつなぎ合わせて、黒と緑が裏表のカーテンを、両面テープで貼り合わせた。両方のカーテンを閉ざしてしまえば、教室はただ、スクリーンの光だけで淡く照らされていた。
「これで、良かったの」
先輩。そう言う前に、先輩が大きくうなずいたから、俺は何も言うことがなくなって、先輩が見ている方へ目を逸らした。スクリーンのへは、裸の男女が睦み合う姿が映し出されている。
セーラー服を着て髪を短く刈り込んだ先輩は、じっとスクリーンを見つめている。閉ざしきった部屋の中は暑いから、浅黒い肌には汗が浮かんで、膨らんだ胸に落ちていく。目の毒だった。
「これで、良かったんだ」
先輩のハスキーな声が呟いた。言い聞かせるようだった。何もかもたこだらけの手のひらへ握りつぶして飲み込もうとする声だった。握りつぶせなくて固形のまま、先輩の喉へつっかかったものがスクリーンの上へ溢れ出ている。そう思った。
それを全部カーテンの中へ閉ざしきって、俺は、確かに先輩を守れたような気がしている。
魚の口から世界を覗く話
夢を見た。
海の中を歩いている夢だった。水面から差し込む日光がカーテンのようにたなびいて、眼前へ揺らめいている。まばたきをして息を吐けば、気泡がぷくぷくとのぼっていくのに、へこんだ分吸い込んだのに、不思議と息は苦しくなかった。
海月が群れて浮かんでいるのが見える。鰯が一匹、青い腹を見せながら頭上を通過していった。赤い鯛の大群が正面から突っ切って、鼻先を水流がかすめた。
大きな鯨が腹から血を流しながら沈んでいく。見下ろした水底は深く、暗くて果てがない。赤い血でさざめく海水は濁って、それが目に染みた。まばたきを繰り返す内に鯨の白い腹は、暗い水底に溶けて、見えなくなってしまった。
赤黒い血溜まりから、一匹の魚がのぼってくる。鱗を虹色に輝かせた美しい魚だ。血溜まりから生まれたとは思えない。近づいてくるにつれて、魚がひどく大きいことが分かる。今さっき沈んでいった鯨ほども大きいのでないか。
「ああ、生まれ変わったのか」
良かったなあ。笑えばふくりと、気泡が水面へのぼっていく。
魚は僕の正面へ立ち止まり、まぶたをゆっくりと、ゆっくりと、上下させた。そうして、口をかぽりと大きくあける。そこに広がっているのは、さっき見下ろした、暗いくらい血溜まりだった。
それで、目が覚めた。はじめに、錆びた鉄のにおいがした。こびりついて乾いた液体でかたくなった布団には、俺独りきりだった。
空へ金魚を飼う話
見てよ、ほら、ほら。彼の人差し指が空を示しながら、言う。指差す先には、夏らしく、もくもくと立ちのぼった入道雲があった。べったりとした青色と、立体的な白色の境目を、彼の人差し指は差している。
「金魚が」
「金魚?」
「そう。ああ、また隠れて、見えなくなった」
そう言う彼はちっとも残念そうじゃなかった。またすぐに出てくるのを知っているのか、わくわくしながら、入道雲の端を見上げているようだった。
「いつの間に金魚なんて見つけたの」
「うん? 君も一緒に行ったじゃない。祭りの縁日の屋台でさ、っていうか、君が掬ってくれたんじゃないか金魚」
「そうだったかしら」
「そうだよ。大切に、金魚鉢で飼っていたのに、大きくなりすぎちゃったから」
仕方がなかったんだ。赤信号の手前で立ち止まると、車椅子の車輪がきゅっと音を立てた。横断歩道の上を沢山の車が行き交っている。それを見ながら、手を離したら楽になるのかしら、なんて考えが頭を過ぎって、可笑しかった。
「何。そんなにおかしい?」
「うん、うん……そうね」
おかしいわ。返しながら、私の両手は車椅子のブレーキを強く握っている。赤い影が、横断歩道の縞模様の上にゆらゆらと、泳いでいる。
向日葵が燃える話
その家の庭には、たくさんの向日葵が咲いとった。物干し竿を引っ掛けた向こう側に、赤土を敷き詰めた花壇があって、その中いっぱいに向日葵が植わっとった。僕の背丈よりも大きい向日葵は、いつも僕へ背を向けて、太陽を追いかけとるように見えた。
「春は向日葵が好きなの」
「他の花よりは好きかもなあ。分かりやすいやん」
「そうかなあ……俺は、苦手」
「へえ。ちしゃが苦手やて、めずらし」
「俺も苦手なもんぐらいあるよ」
その家の次男坊は、花壇を眺める僕の側に立って、そんなことを言いよった。僕の感想は心からのもので、食べ物にすらなんの好き嫌いも言わん子ぉが、こんな花ごときを苦手と称するのは、どうにも面白いと思うた。
ちしゃの手が向日葵の花弁へ触れた。僕より四つは年下で、まだ思春期になりたてやのに、ちしゃの背丈は僕をゆうに越えて、向日葵よりも高いほどやった。きっとまだまだ大きくなるやろう。
「向日葵って、枯れても立ったまんまでしょ。種抱えて、茶色い花びら垂らしてさ……俺はそれが苦手だよ」
「なんで」
「自分で考えてよ。春、大人じゃん」
「大学生を大人とは言わん」
僕が返すとちしゃはそうかなあと首を傾げながら花壇に沿って歩いた。比較してるんがここの長男とやったらやめてほしい。あれは、規格外。
ちしゃが、向日葵の前で立ち止まる。そして、泣き出しそうな風に顔をくしゃりと歪めた。
「それに、こんな風な色もするでしょ。だから、苦手」
僕はちしゃと同じ側へまわった。向日葵の花は太陽を追いかけて、背を曲げている。僕はその中の、ちしゃの見ている向日葵を見上げた。
この色も、俺は苦手。もう一度、ちしゃが言う。その向日葵は、他の黄色が偽物やと言わんばかりの、鮮烈な、あまりに鮮烈な赤色で、花壇の一角を彩り、咲いていた。
キャラメル一粒で命を買う話
駅前に男が一匹棄てられていた。
広場の隅のベンチの横に、ボロボロの段ボール箱が置いてあって、ボサボサの黒髪の男が一匹、その中へ膝を抱えて座っていた。段ボール箱にはかすれた油性ペンで「拾ってください」と書いてある。
「すてられたの、あなた」
聞いても男は何を言われているのかまるで分かっていないみたいで、コテンと首を傾げて私を見上げていた。声をかけてもらったのがただただうれしいのかなんなのか、長い前髪の下のまなざしが、きらきらと輝いている。
広場には沢山ひとが居るのに、まるで私にしかこの男が見えていないようだった。本当は見えているのに、無視をしているだけかもしれない。だって、見るからに危ないもの。得体が、知れないもの。それでも私が話しかけたのは、そうなっても良いと思ったからだった。
男は動かない。私はホットパンツのポケットへ手をいれた。取り出せるのは、柔らかくなった銀紙の包み、ひとつきり。それを男へ差し出して、首を傾げる。
「キャラメル、好き?」
膝を抱えていた男の腕が私にのばされる。その指先から、銀色の刃が滑り落ちるのが見えた。
笹舟をため池へ浮かべる話
たましいをのせていくんだよと、その舟の作り方を俺へ教えてくれたひとは、笑っていた。そのひというのは祖母だった。祖母はあの谷間の狭い空の下で、そんなことを覚えながら月日を暮らしてきたのだった。
たましいをのせるのだから、ていねいにつくりなさいねと、祖母は俺へ葉っぱの選び方から教えてくれたものだった。端が茶色く萎れているのはだめ、茎が細く弱いのはだめ。だから俺は、丈夫な葉っぱだけを茎からちぎり取ることが出来る。
葉っぱの両端を、真ん中で合わせるようにして折り曲げる。折り曲げた部分へ、葉脈に沿って二本の切り込みを入れ、端と端とを組み合わせる。手のひらに乗せて目の高さまで持ち上げれば、舟の形が出来上がっていた。
今日は、五つの舟を持っていく。灰色の石の立ち並ぶ広場を抜けた先には、緑に濁った貯水池がある。随分と長い間使われていないその池の水面へ、舟を浮かべる。それから、手近なところの小石を拾って一つずつ、舟へと乗せた。
たましいをのせてしずんでいくのだから、ていねいにじょうぶにつくらないと。祖母の声を思い出しながら、俺は祈る。どうかみなそこにさいわいあれと。
雛のからすを鳥籠へいれる話
死体の下で残飯を漁って生きているのは何も鼠や烏だけじゃなくて人間だってそうやって生きることは出来るんだと気付かされたのはまだ肌寒い初春のことで、攫ってきた手負いの獣は新芽が緑を吹き出した今に至っても傷を癒そうとはせずに、たった一人庇護者と定めたこどもの側をついて回っている。ついて回っているはずだった。
手負いの獣はひとりきりで物干し竿の下にうずくまっていた。知りもしないだろう自分と同じ名を持つ青色を見上げながら、膝を抱えて顔だけあげていた。俺が近づいてもいつものように逃げ出さなかったし、かといってこちらを向くわけではなかったが、庇護者の手を離れた手負いの獣は、俺が思っていたよりもずっと、寂しがりやのようだった。その場所は、あのこどもがいつも使っている場所だ。
「空」
声をかければようやくこちらを向いた。こけた頬の上の黒い目は力なく見開かれて、底知れぬ光が俺をとらえている。
「帰ろうか」
しゃがみ込んで抱え上げるのに、細い腕は細い脚はぴくりとも動かなかった。大きな目から一筋涙が流れている。その意味もこの獣は知らないのだろうと思う。
見上げた空の端だけ赤く、赤く、燃えていた。
絵の具で塗ったような青空に綿あめをちぎって入道雲にする話
バケツに入れた青い絵の具をコンクリートの灰色へぶちまけた。しぶきで制服が汚れるけれど、気にしない。白いセーラー服に青色が飛び散っているのを見ると、いっそ楽しくなってくる。そうだ、私は楽しいんだ。くすくすと小さかった笑い声はすぐに大声になった。
楽しいなあ、楽しいなあ。くるくる回りながら、次のバケツの絵の具も壁へぶちまける。さっきと微妙にちがう青色は、青色に重なるといっそう深い青色になる。でもまだだ。まだ足りない!
用意したバケツを、順番に空にする。ステップを踏みながら、くるりくるりとターンしながら、バシャバシャと絵の具が歌う。飛び散った青色を踏んで私は踊る。
でもそんなこと、慣れていないからすぐ疲れてしまって、私は地面にしゃがみこんだ。肩で息をしながら見つめる壁は一面の青空だった。色んな青が重なって綺麗なのに、まだ何か違う。何か。何だろう。首を傾げてみるけどいいアイディアは分からない。
「木下ー」
呼ぶ声に振り向けば青色に走る一筋の白。あ、これだと、納得して。
「縁日で綿あめ買ってきたけど、食うべー?」
日に焼けた黒い腕が握っている白いあめが、欲しくてたまらなくなったから、私はすっくと立ち上がって、裸足で彼のところまで走っていく。