恋し月
習作
涼しさを纏った風に愛撫されたススキの穂から鳴るのは、とても優しい音だった。穂と穂が擦れ合う音は心地の良い響きで、縁側に座り月見をするのには十分過ぎる肴だ
帰郷の途中、母に言われて私達は田舎の亡き祖父母の家を片付ける序でに、数週間だけこの田舎に住まう事にしたのだ
祖父母の家は木造の古めかしい家で鶯張りでもない床が、直ぐにでも壊れてしまいそうな音を立てている上に、生活するには不便な環境だった
ガスや電気が一切通っていない生活というのは、最初こそ新鮮味を覚えて楽しんではいたが、何度も続くと負担でしかなかった
今こうしてススキの穂の音に耳を傾ける事が出来るのは、夫が月見酒をしようと言ってくれたからだった
慌ただしく慣れる事のない家事を終えて、近所で催された秋の収穫祭の帰途に買った日本酒をお猪口につぐ
漸く一日を終えるのだと思うと肩の荷が下りたかの様に、腹の底から大きな溜息が漏れた
横に胡座をかいて座る、祖父の残したこれもまた古めかしい甚平を羽織った夫は、お猪口の酒に映える月を見ていた
水面に映る満月は夫の力加減によって出来る波に揺れて、その不確定な存在は夫を楽しませた
田舎は都会の様な地上の光を孕んでいないので空が非常に美しい、ということは昔何度も母に聞かされた事だった
子供の頃はそんな事よりか月見団子の方が重要だったものだが、今ではこうして五感から感じとれる自然を楽しんでいる
酒に映える偽物の月を夫は一口で飲み込み、空を仰ぐ。私も夫と同じ様に本物の月を見上げた
月の下半分は淡い黒色の雲に隠れている。闇の中に咲く白い光は、雲に溶けて、白紙に垂らした墨のように滲んでいた
辺りに散在する星々は主役である月を立たせる為にか、今日ばかりは輝きを控えめにしている様に思えた
「夏目漱石がI love youを月が綺麗ですねと訳してから、私の口からは安易に月が綺麗だ、などと言えなくなってしまった」
夫は冗談交じりに笑みを含めながらそう言った。月は過去から現在まで美の象徴で有り続けたのだと、夫は付け足す
空になって月の消えたお猪口に日本酒を注ぐ。波紋に揺れる月が再び現れた
儚い存在だ。雲の波間に隠れてしまえば消えてしまう
月光は太陽の様に強い物などでは決してなく、ふとした瞬間には目の前から消えてしまう存在
若年夫婦である私達も、いつしかふとこの世から消えてしまうのだろうか
何処と無く感じる寂寥感が私の心を小さく揺らす。若干の不安の一片が妙に閊えた
普段とは違う雰囲気に正座をしていた。足が痺れて来たので横座りに体制をなおす
「……紫月、お前なら月が綺麗ですねと言われたら何と返す」
酒の入ったお猪口を小さな円を描くように回して夫は呟いた。独り言のようなそれを私が聞き漏らす事はなかった
意外な質問だった。意外なのは質問の内容もだが、質問をしてくること自体が思い掛けない事だったのだ
小説家である夫は宙空を睨めつけているが、その実常に考え事をしているのだ
話によればその場その場を心の中で描写してみたりだとか、私には到底理解し切れない哲学などに思い耽っているようで
しかしそれでも私に質問をしてくることは一切と言っていいほど無かった
探し物は見つかるまで自分で探し続けるし、両手に物を持って横着しようと声をかける事も無い
人に頼るのが嫌いだと言う、その夫が、あの夫が私に質問など
「……そうですねえ。今日の様な満月でしたら、いつか貴方の目から消えてしまいますが、宜しいですか、なんて」
少し感傷的な答えだな、と自分で考えておきながらに思う。しかし、こうやって二人で安らかに月を見ることが後どれだけ有るだろうか
木の床に指で円を描く。何度も何度も、繰り返して行く内に夢中になっていた
月が綺麗ですね、と訊かれてその光が消えてしまうのに、という返事は果たしてあっていたのだろうか
夫はその返答に一つ頷いて、そのままじっと偽物の月を眺めている。私は夫の表情が何処か残念そうに見えた
「……私は、紫月よ、子供の頃から月が好きでな。よくこうして酒こそ飲んではいなかったが、親父の横で秋の夜長に月を眺めていたんだ
その時からだ、月に恋し続けたのは」
夫が語り出した、ということは説教だろうか。私はただただ小さく頷き続けた
夫の田舎は東北の方にある、丁度同じ様にススキが家の縁側の近くにある自然に溢れた場所だ
夫から見るこの月は過去の月と同じ様な物なのだろうか、そんな事私には分からなかった
「好きで好きでたまらなかったんだ。漆黒に浮かぶ儚い白を纏うあの月光が私の目に染みて、失恋でもしたかのように泣いた
手を伸ばした事だってある。だけど届かないんだ。その度になんだか悲しくなってな
……確かに紫月の答えは的確なのかもしれないな、人は何れ死んでこの世から消えてしまう
だがな、それでもあの月が美しい様に、その美しさを愛した様に、俺はずっと紫月を愛し続けたいんだ
例え何方かが死んでしまったとしても、愛し合えたのなら俺はそれでいい」
「……そう、ですか」
思わず俯いて顔を月光の影に隠してしまった。夫の方に顔を見せる事なんてとてもではないが出来なかった。顔が燃えている
素っ気ない返事が出たのは、恥じらいを見せないつもりでの事だったのだが、ここまで耳が真っ赤になっていれば本末転倒だ
夫は含み笑いをして私の頭を二度三度、優しく叩いた
「だから余計な心配なんぞ要らん。紫月は俺の恋した紫月でいたらいいのだ──なんて、そう、酔った勢いで言って見ただけだ」
空を仰ぐ。月が私の眼に映った。夫の恋した月。空は限りなく澄み渡った玲瓏な闇に、燦然と輝く真ん丸の月光を抱いていた




