72 銀の女王
「やっぱり――あなたは驚かないのね」
大人のベルナデッタ――仮に女王と呼ぶが――はこちらに向き直る。
地面にへたり込んで荒い息を吐いている子供のベルナデッタを一瞥すると、俺に向かって、笑う。
「煌剣を渡された時、違和感があって、ずっと考えていたんだ。もしかして俺とコーデリアの関係と同じような存在がいるんじゃないかって思ったら……腑に落ちた。そういう事もあるのかなってさ」
レリオスが持つ能力は奴の固有魔法以外はグリモワールから盗み取った物だ。
だからベルナデッタはコーデリアの傷の対処の仕方を、知っていたんじゃないのだろうか。
それは、過去に自分が自分に、そんな処置をしたからだ。
「……そう。じゃあ黒衛。あなたは『そっちの私』があなたに煌剣を渡した理由も、理解しているのよね?」
……。
そう。ベルナデッタは、一度も煌剣でレリオスを斬れとは言わなかったんだ。
これでしかレリオスを倒せないというわけじゃない。彼女が俺に煌剣を渡したその理由はその先にある。
その時、必要になるから私の思うように使えと……そうベルナデッタは言ったんだ。
レリオスを斬り、彼女を縛る全ての枷を破壊した後で、解放されるのはベルナデッタただ一人。
それを――ベルナデッタはレリオスよりも恐れたんだ。
アルベリアを焼き払った事に、ベルナデッタは何を思ったのか。
自身の所業に恐れ、彼女が切り離したのは彼女自身だ。
ベルナデッタの――憎しみや怒り、絶望、恐怖――それから多分、自由への渇望。
だから彼女は自分で自分を牢獄へと閉じ込め、永遠の番人となった。
「その子は――どうせ煌剣を渡さなければいけない理由さえ覚えていなかったのでしょうが――それって……どうなのかしらね?」
「あ……」
銀髪の女王の言葉に、ベルナデッタは目に見えて狼狽した。
「よく覚えてもいないのに――自分の後始末を頼むなんて。それはアンゼリカとの約束でしょう?」
女王は侮蔑の眼差しをベルナデッタに向ける。
ベルナデッタは、打ちひしがれたかのように、地面にへたり込んだまま、動けずにいる。
「確かに……あなたは安心でしょうけれどね。コーデリアと黒衛のリンクだって、私達がいなくなっても――二人の魔法行使能力があれば充分継続できるでしょうし。アルベリアにも中々いない程、優秀な二人ですもの」
「く、黒衛。わ、私は……」
「黒衛……そんな娘は放っておきなさい。ねえ? 私はあなたを騙すような事は嫌だから、はっきり伝えるわよ? でも、あなたはもう解っているんでしょうけれど。ええ。簡単な話よ」
小首を傾げて艶然と女王は微笑む。傍らのベルナデッタがびくりと身体を竦めた。
「私達は繋がっているのだから、私の死はその子の死。その逆も然り。だから――」
「使わない」
彼女の言葉を遮った。
もしベルナデッタが解放された時。
女王を止めるのならば、ベルナデッタを殺すのが簡単で、確実だと。
そう俺に伝えようとしたんだ。
レリオスを倒して枷から解放された女王を止める為に、それをしろと。
そんな……そんな使い方。誰がするものか。絶対に。絶対にしない。
ベルナデッタが……そして、女王が俺に期待する、そんな思惑通りには動いてやらない。
煌剣オクシディウス。皇を焼く剣。
東の最果てより出でて、天の頂きに座し、やがて約束の地に沈む。
王の一生を日の出から日没になぞらえて、繁栄と、栄華。そしていつか至る堕落と滅亡を約束する。
意味を破壊する、魔術師殺しの剣。アルベリアの王族を弑する為の剣だ。
女王は不思議そうに首を傾げた。
「――では、あなたはレリオスを殺さない、と? なら用はないわ。その愚かな娘と一緒に帰りなさい」
それきり興味を失ったかのように、女王は俺に背を向ける。
だけど、そんな訳にはいかないんだ。
「……聞いてくれ、ベルナデッタ」
「お話をする為に、呼んだと思っているの? 何故私が今あなたと会おうと思ったのか、理解している?」
こちらに背を向けたまま、彼女は冷たく答える。
彼女が確かめたかったのは、俺にベルナデッタを斬れるかどうかという覚悟だ。
それが出来なければレリオスは封印で済ませるべきなのだと、彼女はそう思っている。
ベルナデッタは外には出ない。外を――恐れているから。
女王の抱える憎しみが、怒りが、絶望が、誰かを殺めてしまうのではないかと。
そうすれば。タガが外れてしまえば、もう止まれない。
上澄みを掠め取っただけのレリオスなんて、比べ物にならないほどの災禍となるだろう。
レリオスを倒してしまえば、彼女には復讐する相手さえもういなくなってしまうのだから。
彼女が怒りや憎悪を抱いた時というのは――その向かう先は、人間そのものという事になる。
だから。
そんな思いを切り離して、奥底に封印した。
全部切り捨てて。忘れて。
ベルナデッタは自分が変わらないように、その場に留めたんだ。
だから「その先に行ってしまった」目の前の彼女とは、容姿が違う。
過去にベルナデッタのパートナーだったアンゼリカが、何故レリオスを封印しただけで終わらせたのか。
アンゼリカは――こうなると解っていてもベルナデッタを手にかける事なんて出来なかったんだ。
そしてベルナデッタを止めようにも……アンゼリカでは届かない。だから女王の切り離しと記憶の封印は、ベルナデッタが望んだ事。
ベルナデッタが自らの死を選べないのは……グリモワールを強制的にでも維持させる為の枷なのだろう。
じゃあ何故、女王が俺に会おうとするのか。
それは……俺がどんな答えを返すにしても、今なら俺がいなくなっても大丈夫だからだ。
俺をこの場に留め、閉じ込めて。夢を見せて外に出さない。
そうすればきっと、コーデリアが後を引き継いで、分身を倒すだろう。
すると、どうなるのか。
どうにも、ならない。
そこでお話全部が終わるだけだ。
コーデリアは崩壊しないし、存在規模の関係でも、俺が飲み込まれて消える事はない。
彼女は俺を解放してコーデリアの前から去り、レリオスは封印されたまま残される。
いつかレリオスを封印から解こうとする者が現れるとしても、それは今すぐじゃないだろう。少なくとも魔竜の残した傷痕が、語られなくなるぐらいまでは。
だけど。
「……それじゃ、ベルナデッタはずっと一人のままだろう。そんなのは、我慢がならない」
女王は、何か信じられない物を聞いたという顔で、振り返る。
それは驚きの表情。
思っても見なかった、と。
「黒、衛……」
傍らのベルナデッタも、私を見上げてくる。
「そんな事は――頼んでいないのだけれど? あなたはそんな娘を、助けるの?」
そうだ。ベルナデッタは自分自身を助けてくれなんて言わない。
きっと彼女は自分自身を許していないんだろう。
騙された自分を。アルベリアを焼き払った自分を。
だからこれは、俺が決めた事だ。
「俺が、そうしたいから、そうするだけだ。死なせない。一人にも、しない」
「そんな事が……あなたに出来るとでも? ……無理よ」
女王は、首を横に振る。
そうして顔を上げた時、彼女は何か――愛おしげなものを見るような笑みを浮かべていた。
「なら、こうしましょう。捕まえた場合は最後の分身を倒したら、解放しようと思っていたけれど。そんな子じゃなく……私と、ずっと一緒にいましょう? それならあなたの望みも叶うわよね?」
「ベルナデッタ! そういう事じゃないんだ! 話を――!」
女王の両手に、光の粒子が集まる。傍らのベルナデッタが血相を変えた。
「おやすみなさい、黒衛。良い夢を」
「~~ッ!」
両手を広げると全方位に閃光が広がった。避けるスペースも何もあったもんじゃない。魔力障壁を展開して受けるのがやっとだった。
「ぐっ!」
着弾の瞬間、重い魔力の衝撃を受ける。身体ごと後ろに押された。
光の波が通り過ぎると一瞬で暗黒の景色が、馴染みのある風景になっていた。
これは電、車? なんで電車の中なんだ?
ああ――こっちに来てからの事を長い夢だったと思わせて――俺に夢を見ている事も気付かせずに、眠らせ続ける為か。プリグリをやっていて電車内で寝落ちしていたなんて筋書きだろう。
支配して夢を見せるというのは――違和感や記憶や感情まで――都合の良いように塗り潰していくと言う事。
囚われて、抵抗が可能だとは思えない。恐らく彼女は……完璧な精度で仮想現実を構築するだろう。
「凄いわ……。私の領域の中で、今のを防げるのね。普通なら、何も出来ずに終わってしまうでしょうに」
彼女の口調には純粋な称賛と驚きの色があった。
確かに。これは――ヤバい。担い手であってもチャージなんかしている余裕はないだろう。
普通の魔法使いやモンスターだって、まともに受ける事も出来ずに強制的に夢に囚われるに違いない。
「あなたなら今のだけでも分かったかも知れないけど……良い事を教えてあげるわ。私は確かにこの空間に封印されているし、外に出られないけれどね。隔離空間の内部は独自のルールで動いているから、色々な枷から解放されているのよ? だって、私のストレスを適度に解消しなければならないものね?」
彼女は笑って言うが……そんなのは良い事でも、何でもない。
それはつまり、ここでなら彼女は全力を振るえる、という意味だからだ。
全力というか――この場所は彼女の領域そのもの。蜘蛛の巣にかかった蝶を囚えるような作業。
或いは、表でなら抵抗の術もあるのかも知れないが……。
「だからあなたも、今のように抵抗は出来る。けれど何発まで耐えられるかしら?」
彼女の周囲に光の粒子が集まっていく。一つ二つじゃない。
軽く一〇以上の――おいおい。あれの、全部がさっきの魔法と同じか?
障壁を分厚くして、衝撃を逃がしやすい形を取る。だが、このままじゃどう考えてもジリ貧だ。何か手を、考えないと。
「――やめて!」
その時、私の横で蹲って胸を押さえていたベルナデッタが、叫んだ。
ベルナデッタの悲鳴にも似た呼びかけに――女王は不愉快そうに眉を顰める。
「あなたが『私』を止められるなら――最初から分かれたりなんかしなかったでしょう?」
「――ごめん、なさい。謝っても謝り切れないけれど、でも黒衛は……黒衛は帰してあげて」
ベルナデッタは、肩で大きく息を吐きながら、女王に懇願する。女王は苛立ちを隠そうともせずに歯噛みした。
「あなたも――私の癖に。私の考えている事はあなたの心の内の裏返しでもあるのよ?」
「知ってる……」
「なら私の行動原理を理解する事ね。黒衛は――帰さない。コーデリアやクローベルも……あの子達が望むのなら黒衛と一緒にいさせてあげる。勿論、分身を倒した後でだけど」
……そう、か。
「ごめん、ベルナデッタ」
「どう、して、黒衛が謝るの?」
「俺は、さ。ベルナデッタにも外に出て欲しかったんだ。皆と少しずつ一緒にいてくれる時間を作って欲しいって。そうすれば――あの子だって、人と関わりを持ちたいって思うかも知れない。そう考えていたんだ。でも、逆に、ベルナデッタを苦しめていたのかも知れない。だとしたら、ごめん」
「そんな、事――」
「でもさ」
俺はベルナデッタを見据えて、言う。
「後悔してないし、止める気も無い。レリオスを倒してもベルナデッタが救われないなんて、絶対に認めない。庭園の中じゃなくて。俺達と一緒に生きてくれ」
「……」
ベルナデッタは俯いて……。それから顔を上げた。
その目に、力が戻っている。
手を振るうと女王の背後に浮かんでいた光点が霧散していく。
女王の表情に憤怒が張り付いた。
「……今更――あなたが私の邪魔をするの? 記憶ごと封印して逃げ回っていたような、卑怯者の怖がりが」
「何とでも言って。あなたなんか、もう怖くないわ。話して駄目なら、守りたい物の為には戦うしかない。こんな愚かな私でも、学んだのよ」
「……笑わせるわ。元々の本体はあなたでも……この姿を見れば瞭然でしょう。今や、力関係は私の方が上。支配率の綱引きで、私に勝てるとでも?」
ベルナデッタは、女王の言葉を無視して、私に言う。
「始まりの魔法は私が抑える。だから、お願い……。あの子の力を殺いで」
「ベルナデッタ……」
「私も、もう逃げない。私自身と戦う。あなたが思い描く未来の糸束を、手繰り寄せられるように」
ベルナデッタは肩で息をしている。
今、対峙しているだけでもベルナデッタは体力や魔力や精神力を削られているわけだ。
「なら――俺が前に出て、彼女の魔法を受けて行けば」
ベルナデッタは頷く。その分ベルナデッタの負担だって減らせるってわけだ。
「私は支配率とルールの維持で余裕がないから……攻撃には回れそうにないけど――こっちに来る攻撃ぐらいはどうにかするから」
女王はベルナデッタの言葉に、鼻を鳴らす。
ベルナデッタの怒りや憎しみを、俺が受けて殺ぐ事が出来るというのなら、そこに否やはない。
女王は彼女を見据える俺達に一瞥をくれて笑う。
「面白い――事を言うわね。始まりの魔法を使わせなければ、どうにかなると言っているように聞こえるけれど?」
「どうにか……? 私達は勝つわ。負けるはずがない」
さて――。ここまでベルナデッタに信頼されちゃ、期待に応えないわけにはいかないな。
ベルナデッタは言う。
「あの子と支配率の争いをしている今、ここのルールは現実世界に準じるけれど――オクシディウス以外では致命傷にならないし、すぐ再生するから……あの子も私だから、なんて余計な気を回さず全力でね」
「そりゃ安心だな。だけど、それは遠慮する」
「黒衛も……大概よね」
「ベルナデッタには負けるよ」
軽口を叩くが、それは向こうも手加減無しで来れるって事だ。
女王は冷たい瞳で笑うと、ベルナデッタの言葉を継いだ。
「だけれど、疑似的な死は与えられる。意識を奪うか、心をへし折って抵抗出来なくするか。そうすれば私の勝ち。その後で黒衛は、私と夢を見るの。ずっと、ずっと一緒よ?」
要するに殺されたり行動不能にされたら、負けってわけだ。
いつもとする事も、出来る事も何も変わらない。
死なない分マシ、とは思わない。そんな緩んだ気構えで止められる相手ではない。
それにだ。
結局の所、彼女の暴走を止められる者がいないというのが問題なのだから……そうでない事を認めさせればいいと言う事になる。まず、そこから始めるしかない。
……なんだ。整理してみれば、単純な話じゃないか。
ベルナデッタも干渉出来るこの空間――勝機は十分にある。
「言いたい事があるんだろ。聞いてやるから、全部ぶちまけてくれ」
女王と対峙すると、彼女は俺に向かって優しい笑みを向けて来た。
「黒衛は私の思いを……受け止めてくれると言うのね?」
「ああ。聞かせてくれ」
「良いわ。聞かせてあげる……」
彼女は俯いて自分の肩を抱く。
歯を食いしばり、呪詛の言葉を紡いだ。
「私は――人間なんか嫌い」
同時に、凄まじいまでの魔力が周囲に放射される。
「……嘘を吐いて盗んでいく。笑いながら誰かを傷付ける。誰かの幸せを妬んで焼いて踏み躙っては奪っていく。力が欲しくてグリモワールにすり寄ってくる人達が嫌い。あんなに……あんなに、あんなにッ! 何度も何度もお願いしたのにッ! みんなを、誰一人助けてくれなかったッ! どうして嘘を吐くの? どうして誰も来てくれないの? どうして私は一人にならなきゃいけないの? 皆、嫌いよ! 嫌い。嫌い、嫌い嫌い嫌い嫌い――ッ!」
物理的な――圧力さえ感じる程の魔力。それが彼女の感情のうねりと共に高まっていくのが感じられた。
ベルナデッタはそんな彼女を見て涙を零す。そして、願う。
「お願い……。私を、助けて黒衛」
「――任せてくれ」
それは。
初めて彼女から放たれた、彼女自身の助けを請う言葉かも知れない。




