20 赤晶竜イグニッド
――『ソレ』は自分がどういう経緯で生まれたのかを知らない。
ただ何をすべきかだけは知っていた。
そういう性質を持つモノだった。
自らの存在理由に興味はないが、すぐにしたい事は見つかった。
腹が減っていたからだ。
鳥や獣や魔物。目に付くものを片っ端から喰らいながら、本能に任せて自らの居るべき場所、在るべき処を探す。
最も美味かったのは毛のない猿だ。肉の柔らかさもさる事ながら、生きたまま食らう時の鳴き声が一匹一匹個性的で面白い。
魔物は大きな者、強い者ほど美味いのに、裸の猿は少しだけルールが違う。取るに足らない脆弱さだが、どれも違う味で例外なく美味い。ただ、少し食べるとすぐに全体が逃げ出して、あっという間に数が少なくなってしまうのが不満だった。
殺戮と暴食の果てに彼が辿り着いたのは、どこか山の中だ。
山中に潜んだと言う意味ではない。
穴を見つけてそのまま中に進み、文字通りの山の『中』を己の居場所と定めたのだ。
裸の猿もかなりの数がいたが、何匹か食らうと全て姿を消した。
何故に。彼は魔石鉱山とその一帯などを領地と定めたのか。
濃密なマナが集まってくる場所を領地と定める事。ただそれだけが、己の役割であるのだと教わらずとも知っていたからだ。何の為に。誰が為に。
まだ、考える事はなかった。イグニッドは、一々瑣末な事を考えたりはしない。
彼はどうしようもない暴虐の体現者であったから。
鉱山にいる限り、彼が餓える事はない。濃密なマナの流れだけを取り込んでいればそれで足りる。しかし物足りない。だから普段は寝て過ごした。
時たまに近くまで来る、裸の猿の気配を感じた時だけは残らず平らげた。
そんな彼の心の中に澱むものがあった。
何のために、何時まで自分はこんな場所に縛られていなければならないのか。
――縛る? 誰が、何を?
マナのような形の無いものなどではなく。
食えばいいではないか。もっと、もっと。
そういえば最後に猿を食ったのは何時だったか? もう、随分と口にしていない。
肉を切り裂き骨を砕き血潮を飲み下し、恐怖を、絶望を、魂を咀嚼する。想像するだけで心が揺れた。
彼が、彼の言う所の猿の反応を結界――領地の内側に探知したのは、そんな折だった。
唐突だった。
無人の湖の真ん中に突然石が投げ込まれて、中心から波紋が広がっていくイメージ、とでも言えば良いのだろうか。
投げ込んだ者、投げ込まれた石。どこから、どうやって現れたのかが解らない。
その直前に強いブレ、違和感のようなものは覚えたが……。イグニッドはそれに頓着しなかった。
瑣末な事だ。
猿がいるのなら喰らう。ただそれだけである。
塒を抜け出し一直線に飛翔する。思えば外に出たのも久しぶりに思えた。
やがて見えてきたそれは、黒い髪と黒い瞳で、どこか変わった格好をしていた。
少し他の猿とは毛色が違ったが、それでも凡百と同じように、呆けた様な面で彼を見上げている。
喜悦に口の端が歪む。
空中から一気に掻っ攫うか、地上に降りてから追い回し、ゆっくりと引き裂くか。
後者を選んだ。久しぶりの狩りである。すぐ終わらせては勿体ない。
弄ぶように追い掛け回し、咆哮で突き転がし。
心を折って、泣き喚いている所を喰らうのが美味いのだ。
だけれど、その猿は。
そうはならならかった。
歯を食いしばって前を見据え。確固たる意思を以って、走る。走る。
何の望みがあるというのか。この領地から。己の眼前から。どこにも逃げられるものか。
だが、猿の狙いはすぐに解った。ちっぽけな穴倉の中に逃げ込むつもりらしかった。
小賢しい。
後悔する暇も与えない。喰うのは真っ二つに引き裂いてからだ。
死んだ事にも気付かず、希望を抱いたままの滑稽な魂を咀嚼するとしよう。
吐息を吐こうと胸に大きく魔力を溜め……放出する寸前に、それが振り返ったのが解った。
死ね。
破壊の光は一瞬で森を薙ぎ、しかしそれでも猿を仕留める事は叶わなかった。
取るに足らないそれ。ただ単なる晩餐。下らない肉と血の袋の癖に。
殺せなかった自分を無様と嘲笑って――穴倉に飛び込んだ。
負けた、と感じた。
何者も逆らえぬ自然における原理、原則、摂理だ。
例えそれが弱者を喰らう為だけの一方的な形の闘争であっても。
そうであるからこそ喰らえば勝ち。逃げられれば負けなのだ。だから。
――だから?
それを――彼は鼻で笑った。
だから、なんだと言うのだ?
確かにしてやられた。頭に血が昇って暴れ回りもした。
けれどこちらに痛手はないではないか。角も爪も牙もそのままだ。鱗一枚に掠り傷一つ付けられたわけではない。一度逃げおおせたなら、百度襲えば良い。自分を倒せる者や傷付けられる者など、どこにも居はしないのだから。
――ほら。今もまた。
結界の端に現れた猿どもがいる。前の生意気な猿を逃がしてから一週間ほどしか経っていない。幸先の良い事だ。
あの味を。悲鳴を。絶望を。苦鳴を。存分に味わわせてくれ。運んできてくれ。皮袋ども――。
「なあ、ニール。何処まで行くんだよ。そろそろ領地に入っちまうんじゃねえのか?」
「他の連中とはとっくに別れちまったしな……。やっぱりあの子の地図を見せてもらって、連中と一緒に行くのが正解だったんじゃねえのか?」
「ビビってんじゃねえよ馬鹿共が。逆に言えば俺らが見つけりゃ総取りって事だろうが。ゴブリン如きにあの破格の金。美味しい仕事だと思わねえのか? 一攫千金を狙わねえで、何が冒険者だ?」
「ああ。要は竜なんて言っても、でかいトカゲだ。飛竜の時だってそうだっただろ。ちょっとぐらいテリトリーに入っても問題ねえ。普段は鉱山で寝てるらしいし、見つかる奴が馬鹿なんだよ」
その冒険者達は、領地に踏み込んでいた。
彼らがそんな行動を取ったのは、それなりに経験豊富で野生のレッサー種やワイバーンなどに見える機会が過去にあったからだ。
誤算だったのは、赤晶竜の成り立ちや在り様が、普通の竜種どころか……モンスターや野生動物と比べて、まるで異質だった事だ。
彼は生きる為に狩りを行うのではなく、愉しむ為に狩りを行う。腹を満たす為でなく、味わう為に喰らう。だから、結界を越えれば即捕食に向かうための行動を始める。
領地の木々はまばらで視界は開けている。一度捕捉されてしまえば大空を舞う竜から逃げおおせる事など出来ない。
彼らが気が付いた時には、私の時と同じように、空に影が差して赤い竜が襲撃してきた。
猫が鼠を甚振るように。爪で、牙で、尾で、吐息で。一人一人丁寧に引き裂かれた。
イグニッドは笑う。冒険者達の魂を咀嚼し、その後悔と絶望の感情を喰らい、記憶を覗き見る。そして知った。
結界の外に鉱脈?
それを掘る為にこいつらが?
それを知って、見逃すわけには行かない。地脈の流れを乱させるものか。
彼の「もう一つの行動原理」の、歯車が噛み合った音がした。
そんな。そんな風にして。
惨劇は起こったらしい。
あの愚かな竜、イグニッドの心の内も。その領地に踏み込んだ冒険者の一団がいた事も。
全部全部。
後で知った事だ。あの事件の、後で――。
 




