RT企画常連という名の「通過者」について
さて、ここで触れずにはいられない存在がある。
いわゆる「常連」さんだ。
この手のRT企画において、
不思議なほど高い確率で姿を見せる、同じ顔ぶれ。
彼らは素早い。
誰よりも早くリプライを飛ばし、
誰よりも整った定型文で作品URLを貼り付け、
そして誰よりも早く去っていく。
挨拶文は礼儀正しく、
文章は破綻しておらず、
一見すると何の問題もない。
だが――そこに「作者」と「読者」の関係は、存在しているのだろうか。
彼等は作品を「通過」しているだけだ。
次から次へとURLを開き、
あらすじを流し見し、
冒頭を斜め読みし、
どこにでも使える感想を投下する。
「世界観が魅力的でした」
「続きが気になります」
「キャラクターに惹かれました」
――便利な言葉だ。
だが、その虚ろな言葉にはどこにも作品は映っていない。
この作品でなければ生まれない感想はないのだ。
悪質なのは、AIに全てを書かせた結果、存在しないキャラクターを褒める事もある。
これが一度や二度なら、まだ理解できる。
忙しい日もあるだろう。
相性が合わないこともある。
しかし、常連は違う。
彼らは常に「読む側」ではなく「読ませる側」になっている。
そして、形式的に当たり障り無き感想を残す事で、書かれた読者からの お返しを得る。
その後はFF関係になればRTによって更に自作の宣伝をはばたかせられるのだ。
もしお返しが来ないのならば、お気持ちを表明してファンネルに叩かせれば良いのだ。
SNSというのは、実に便利な処刑場である。
企画に参加する。
名前を残す。
存在を可視化する。
目的は、読書ではない。
『常に交流の場に居続けること』だ。
ここで、役割が反転する。
本来、
作品は読まれるために存在し、
読者は作品と一対一で向き合う存在だった。
だが常連は、
作品を媒介にして、
自分自身を読ませようとする。
「私はここにいます」
「私は企画に参加しています」
「私は礼儀正しい物書きです」
その自己提示のために、
作品が使われている。
これは悪意ではないだろう。
だがしかし、誠実とも言い切れない。
なぜなら、
その通過点にされた作品の側には、
何も残らないからだ。
内容に触れられず、
問いも返されず、
ただ「参加済み」の痕跡だけが残る。
そして皮肉なことに、
この常連たちは、
企画を回している側から見れば「助かる存在」でもある。
空気を読み、
荒れず、
無難な言葉を置いてくれる。
だが、
その無難さこそが、
企画全体の言葉を薄めていく。
誰も傷つかない。
誰も深く喜ばない。
誰も、本当には残らない。
こうしてRT企画は、
次第に「読書の場」ではなく、
社交イベントへと変質していく。
小生は、
常連を責めたいわけではない。
彼らもまた、
承認を求め、
居場所を探し、
書き続けるための酸素を欲している。
さらに言えば、
フォロワーを多く抱える常連は、
界隈における便利な広告塔にもなる。
だからこそ、
この構造は温存され続ける。
だが同時に、この構造が続く限り
「読む覚悟を持った読者」
と
「本音を受け止める覚悟を持った作者」
この二者が、感想という言葉を交わす場所は、
ますます狭くなっていく。
耳心地の良い称賛と、
AIめいた全肯定の言葉が並ぶ場所で、
率直な感想を書くには――空気を壊す覚悟がいる。
なろうもカクヨムも、感想を残すと名前が残る。
そうすると、厳しい指摘を受けた作者は苛立ちと悪意を持って報復に出かけるだろう。
お前がやったのはこういう事だと、粗探しと揚げ足取りに翻弄する。
時に、逆恨みした作者とその取り巻きからのヴィラン扱いされるだろう。
今、問われているのは、
作品の価値ではない。
感想という言葉に、
誰がどこまで責任を持つのか――
その覚悟なのだ。




