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あえて言おう、ゴミであると

 さて、ここで一度、言葉を選ばずに語らせてほしい。


 あえて言おう!ゴミであると!


 このハッシュタグによって生まれる作品体験の中には、ゴミであるものが、確かに存在する。


 誤解しないでいただきたい。

 ここで言う「ゴミ」とは、

 作者そのものでも、

 創作という行為そのものでもない。



 問題にしているのは「読まれ方」と「評価の生成過程」



 本来、作品が持つ価値とは、

 読者が時間を使い、

 感情を動かし、

 思考を巡らせた末に、

 ようやく立ち上がるものだ。


 そこには必ず、

 「この作品は自分には合わなかった」という結果も含まれる。


 それすら含めて、

 作品と読者の間に生まれる、

 一対一の関係性こそが、創作体験の核である。


 だが、RT企画という枠組みの中では、

 その関係性が、最初から歪められている。


 読まなければならない。

 感想を書かなければならない。

 何か良いことを言わなければならない。


 この三点が揃った瞬間、

 そこに生まれる言葉は、

 もはや作品への反応ではなく、

 社会的潤滑油に変質する。


 当たり障りのない称賛。

 無難な褒め言葉。

 具体性のない感想。


 それらは確かに、

 「感想」という形を成している。


 だが、作品のどこにも触れていない言葉は、

 作品に対する反応ではない。


 それは、ただの儀礼だ。


 儀礼として生成された評価は、

 作者の糧にはならない。


 確かに電子上での評価ptという数字にはなるだろう。



 だがそれは()()()()の成長の材料にもならない。

 自信にもならない。



 残るのは、いつか消える数字だけだ。



 そして数字は、意味を持たないまま積み上がると、やがて作者を蝕む。


 評価されているはずなのに、

 自分の作品がどこに届いているのか分からない。


 褒められているはずなのに、

 何を評価されたのかが見えない。


 しかし、数字として結果が出てしまう。

 その数字は、他者と比べる自作の価値であり、自分自身の価値であると錯覚させる。

 

 その釣り合いの取れない実力と承認欲求は、人を狂わせるだろう。

 他者より上へ。

 自分より下の人間を心のどこかで鼻で笑い、上から()()を授ける。



 この状態を招いてしまうモノこそ

 小生が「ゴミ」と呼ぶものの正体である。




 ゴミとは、

 価値が無いものではない。


 価値の所在が、

 誰にも分からなくなったものだ。




 拾う者も、

 捨てた者も、

 それが何だったのかを説明できない。


 それでも形だけは残り、

 空間と時間を占拠し続ける。


 RT企画で量産される、

 中身の伴わない評価や感想は、

 まさにこの状態に酷似している。




 ここで強調しておきたい。



 ゴミが生まれる原因は、書き手の力量不足ではない。


 読む側の怠慢でもない。


 そうであるべきだと、無言のうちに背を押される構造が、そうさせているのだと。



 善意で始まった仕組みが、

 善意で回され、

 善意のまま、

 誰にも責任を負わせずに、

 望まれぬ結果だけを残す。


 故にコレを、あえてゴミと呼ぶ。


* * *

 


 さて、何故ここまで小生が、

 これほど執拗に「ゴミ」という言葉を繰り返してきたのか。


 それには、明確なきっかけがある。


 カクヨムで活動されている、とある創作者が書いた一本のエッセイだ。


 その作者は、こう綴っている。

 

 『#RTした人の小説を読みにいく』という企画を通して、多くの作品に触れた経験を語り、

 その中には心から素晴らしいと思えるものがあった一方で、

 率直に言って「自分にとっては価値を見出せない作品」も多数あったと述べている。


 彼はそれらを、あえて「ゴミ」と表現した。

 だが同時に、その言葉は創作行為そのものを否定するためのものではなく、

 価値とは視点によって変わりうるものであり、

 誰かにとってのゴミが、別の誰かにとっての宝物になり得るという前提の上で使われていた。


 結果として残ったものがどう評価されようとも、

 人が何かを生み出そうとする衝動そのものは尊く、

 たとえそれが失敗や蛇足に終わったとしても、

 その過程までを無価値と呼ぶべきではない――

 彼の主張は、そうした創作への愛情に根差したものだったように思う。



 そして、この作品を件のハッシュタグ

 『#RTした人の小説を読みにいく』

 『#RPした人の小説を読みにいく』

 これを付けてXにポストした。


 その思想を端的に示すものとして、

 彼は次のようなポストを投稿している。


 「なんでも読みます。ただし、感想を求める方は、ここに貼っている私のエッセイを読んでください。お世辞のような感想は一切書きません」


 ここで示されているのは、

 「読むこと」と「優しい言葉を書くこと」を切り離す姿勢だ。


 読むが、褒めるとは限らない。

 読むが、迎合はしない。

 読むが、優しい感想を保証しない。


 それでも構わない人だけ来てほしい――

 そうした明確な線引きが、この短い文章の中には込められている。


 暗黙の了解を最初から破壊し、読者側にも作品(我が子)を差し出す覚悟を求める態度。



 小生が強く引っかかったのは、

 この姿勢そのものではない。


 むしろ、このようにまで明言しなければ、

 「誠実に読む」「本音で語る」ことが成立しなくなってしまっている

 現在の創作環境そのものだ。



 ハッシュタグの拡散と共に、

 エッセイへの感想を添えたポストが次々と流れていく。


 だがその中には、

 明らかに本文を読んでいないだろう言葉や、内容と噛み合わない共感の定型文も混じっていた。


 そして皮肉なことに、この手の企画でいつも見かける()()の作者達は、コピペの挨拶文で作品を投げつけて何事もなかったかのように去っていく。

 

 

 次の話では、そんな常連について触れていきたい。


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