条件付け
無論、このハッシュタグをつけてポストを投稿する人間が全員が全員そうであるとは思っていない。
私は違うと怒っている読者もいる事でしょう。
それは百も承知であり、主語や括りを大きくしてしまい申し訳ないと、ここでお詫び申し上げます。
さて、今回は読みに行く際の条件付けについて触れていきたいと思います。
ただ漠然とハッシュタグをつけて募集をかけたら、とんでもない数のRTとURLを付けたポストが飛んでくることでしょう。
時間はかかっても必ず読みに行きます。
この言葉はその場では有効かもしれない。だが実際RTをして作品を張り付けた作者達はモヤモヤする事でしょう。
読んで欲しいのに、いつまでも読まれない。
やっと読んでくれてもやっつけな感想だけおいて去っていくポスト主に失望を覚える事でしょう。
現実問題、エピソードが50~100を超える作品は、余程時間が無い限りは読破に体力も気力も使う。
余程面白く引き込まれない限りは、何日も跨いで読み進めていく事でしょう。
そこまでして読んだ人間には、何かしら引っかかるポイントや頭に残る事があるはずです。
しかし、それすら残らない。
――とあるカクヨムのエッセイ作者の言葉を借りるのであれば、ゴミを押し付けられた場合。
最後まで読み切る余裕も義務もない、困った読者はどうするか。
当たり障りのない感想と、お気持ち程度の★を付ける。
「面白かったのでまた読みに伺います」という社交辞令を残し、二度と触れる事は無いでしょう。
それを避ける為に、ポスト主は条件を付けるのです。
5作品まで。
文字数制限。
短編限定。
最新話まで読める保証はない。
感想評価は確約できない。
これらの条件を付けたポスト主は、比較的誠実であると言えるでしょう。
実際、「全部読みます」と無責任に宣言する。
長編短編何でも読みます。
オールジャンルOK。
人生の時間は有限であり、誰しもが平等に忙しい。
言葉は悪いですが、人生からドロップアウトした人。
社会の歯車から外れた人。
病を患い、有り余る時間を持て余す人。
このような人以外は、そう他人の為に時間を割くのは難しいでしょう。
これは冷たい現実論ではありますが、
同時に、極めて誠実な認識でもあります。
創作に限らず、
誰かの成果物を「きちんと受け取る」という行為には、
相応の時間と集中力が必要です。
流し読みでは足りない。
ながら見では届かない。
片手間の感想では、書き手の核心には触れられない。
だからこそ、
条件を付けるという行為自体は、
決して責められるべきものではない。
むしろ、
自分の限界を理解している人間ほど、条件を提示する
とも言えるでしょう。
一方、とある条件付きの「読みにいく」は、
もはや純粋な読書ではありません。
これも、作者読者皆様方も目にされた事があるのでは?
『私の作品を読んでリアクションをくれた人優先します』
『私の作品に★とブクマした人優先』
ドキッとされた方、いらっしゃるのではないでしょうか。
ポストをRTし、作品を紹介したというアクションに対し、
ポスト主からの読む・感想を書く・評価というリアクションを求める。
そこに感情が乗ることもある。
真摯な出会いが生まれることも、確かにある。
だが同時に、
最初から「ポイント目的」での接触であることも忘れてはならないのです。
一時期カクヨムでもAI感想とブクマ、星をばら撒いてBANされた人がいると聞きます。
承認欲求が高い人。
ポイントを稼ぎランキング入りを目指したい人。
駆け出しで自信が欲しい人。
そういった方には、その評価ポイントが誠実であるか否よりも、手に入ったあぶく銭の方に目がくらみ、感謝の言葉を述べてしまうのでしょう。
底辺作家程、辻評価ほど嬉しく美味しい物はないですから。
* * *
短編と長編では、読みやすさや手の付けやすさでは短編に軍配が上がります。
また、テンプレではない癖の強い作品は弾かれやすい。
一話目が地味な物語は、評価される前に閉じられる。
それは作品の良し悪し以前の問題であり、
構造として起きている現象です。
ここで起こるのは、
「つまらないから読まれない」ではなく、
「読まれない構造に置かれたから、評価されない」という事。
だからこそ、読まれるきっかけを得るために、RT企画というものに応募するのでしょう。
作品そのものの力だけでは届かない。
ランキングにも載らない。
感想欄は静まり返っている。
そんな状況に置かれた作者にとって、
この手の企画は、ほとんど唯一に見える「外部からの入口」となる。
自分から売り込むのは気が引ける。
宣伝は苦手だ。
でも、誰かには読んでほしい。
その葛藤の末に、
「条件付きでもいいから、誰かに読んでもらえる場所」
として、RT企画に手を伸ばす。
その行為自体を、
小生は決して嘲笑するつもりはありません。
むしろ、とても人間的で、切実で、
創作を続けている者なら誰しもが一度は通る道だと思っています。
しかし、ここで一つ、避けて通れない問いが生まれます。
その「読まれ方」は、本当にあなたが望んでいたものなのか?
RT企画で得られる「読まれた」という事実は、
確かに数字としては残ります。
PVは増える。
★も付く。
ブクマも増える。
だがその内訳を、
作者自身はどこまで信じられるでしょうか。
どこまでが好意で、
どこまでが義務で、
どこまでが社交辞令なのか。
それを区別する術は、ほとんどありません。
結果として、作者の心に残るのは、
充足よりも、むしろ曖昧な違和感です。
「評価は付いた。でも、ちゃんと読まれた実感がない」
「感想は来た。でも、作品の核心には触れていない」
「褒められた。でも、なぜ褒められたのか分からない」
その感覚は、真綿で首を締めるように作者の自己評価を歪めていきます。
自分の作品は評価されているのか。
それとも、評価“されている体”を与えられているだけなのか。
そして、もう一つの歪みが生まれる。
「評価されやすい作品」への自己最適化です。
短く。
分かりやすく。
一話目で掴める構成に。
既視感があっても安心できる展開に。
RT企画に乗りやすい作品。
条件付き読書で拾われやすい作品。
そうした方向へと、
無意識のうちに舵を切ってしまう作者も、決して少なくない。
それは怠慢ではありません。
生き残ろうとする、極めて自然な適応行動です。
しかしその先に待っているのは、
「自分でも見分けがつかなくなる瞬間」です。
これは自分が本当に書きたかった物語なのか。
それとも、読まれるために削り、寄せ、整えた結果なのか。
RT企画は、読まれるきっかけを与えてくれる。
だが同時に、「読まれ方」を選べなくする装置でもある。
そして選べない読まれ方が積み重なるほど、
作者は次第に、自分の言葉に対する信頼を失っていく。
評価は付く。
数字も動く。
それでも、
胸の奥に残るのは、
「これで良かったのだろうか」という問いだけ。
善意のタグが生む歪みとは、
誰かを騙すことでも、
誰かを傷つけることでもありません。
それは、
書く側も、読む側も、
どこかで「本当の手応え」を失っていく構造
そのものなのです。
では、私達はどう向き合えばいいのか。
RT企画は悪なのか。
乗る側は愚か者なのか。
条件を付ける人間は冷酷なのか。
――小生は、そうは思いません。
次に考えるべきなのは、
「やる・やらない」ではなく、「何を期待し、何を期待しないか」
その線引きなのではないでしょうか。




