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善意のタグが生む歪み

 さて、本題へ入ろう。


 『#RTした人の小説を読みにいく』

 このハッシュタグは、一見するととても善意に満ちた言葉に見える。


 読者と作者を繋ぐ。

 埋もれがちな作品に光を当てる。

 孤独になりがちな創作の場に、緩やかな横の繋がりを生む。


 その理念自体を否定するつもりは、小生には毛頭ない。

 むしろ、このタグによって救われた作者がいることも、

 新たな出会いが生まれたことも、紛れもない事実だろう。


 しかし――

 善意というものは、往々にして無垢であるがゆえに、

 構造として歪みを孕んでしまう。


 問題は、誰かが悪意を持ったから起きるのではない。

 誰もが善意のつもりで動いた結果として、起きてしまう

 そこに、このタグの一番厄介な性質がある。


 まず、このタグが成立するためには、

 一つの暗黙の了解が存在する。


 「RTしてくれたのなら、読みに行く」

 「読みに行ったのなら、何かしら反応を返す」


 これは義務ではない。

 規約にも明文化されていない。

 だが、そうすべきという()()が存在している。


 そして空気は、時として規約よりも強い拘束力を持つ。


 RTする側は、こう思う。


 「自作を読んでもらえるかもしれない」

 「この人に感想をもらえるかもしれない」

 「作品の存在を多くの人に認識してもらえるかもしれない」


 読む側は、こう思う。


 「RTされた以上、読まなければならない」

 「感想を書かないのは失礼だろう」

 「何か良いことを言わなければならない」


 この時点で、

 読むという行為は、純粋な選択ではなくなっている。


 本来、読書とは極めて個人的な行為だ。


 読みたいから読む。

 興味があるから開く。

 途中で合わなければ、静かに閉じる。


 それで良いはずだった。


 しかし善意のタグは、

 この自然な流れに、ひとつの“条件”を付け加えてしまう。


 「読むこと」「評価すること」そのものが、交流の対価になる。


 すると、何が起こるか。


 読む側は、限られた人生の時間の中で、

 「本来なら自ら選ばなかった作品」にも向き合うことになる。


 書く側は、

 「本当に読まれたのか分からない感想」を受け取ることになる。


 誰も悪くない。

 誰も騙そうとしていない。


 それでも、

 言葉と時間の重さだけが、静かに軽くなっていく。


 ここで生まれるのが、


 ・あらすじだけ読んだ感想

 ・一話だけ読んだ万能コメント

 ・AIに要約させたような当たり障りのない称賛


 といった、「読んだ形跡のある言葉」だ。


 書かれる側は、しっかり読んでいないと気付いている。

 読む側も、気付かれるだろうと薄々分かっている。


 それでも、このやり取りは続く。


 なぜなら、

 善意で始まった企画だからこそ、

 違和感を口に出しづらいからだ。




 小生は、ここに一つの歪みを見る。


 それは、

 「誰も損をしたくない」という気遣いが、

 結果として、

 誰の心にも深く届かない言葉を量産してしまう構造である。



 善意は尊い。

 だが、善意がシステムになった瞬間、

 それは時に、人の時間と感情を摩耗させる。


 このタグが悪いのではない。

 使う人が悪いのでもない。


 ただ――

 『善意だけでは、その後の関係は設計できない』という事実を、

 私達は一度、冷静に見つめ直す必要があるのではないだろうか。



* * *



 では、この歪みが最も顕著に表れるのは、どの地点なのか。


 小生は、それを

 「読む側の時間が、等価に扱われなくなる瞬間」

 だと考えています。


 本来、誰かの作品を読むという行為は、

 その人の人生の一部を差し出すことに他なりません。


 十数分。

 あるいは数時間。

 長編であれば、数日、数週間という時間を要することもある。


 読書とは、決して軽い行為ではないのです。


 にもかかわらず、

 善意のタグが介在した途端、

 その時間はいつしか「交流のコスト」として扱われ始める。


 RT一つで、読む責任が生まれる。

 感想一つで、誠意を果たしたことになる。


 そこでは、

 どれだけ深く読んだかよりも、

 反応を返したかどうかの方が重要になってしまう。


 すると当然、読む側の行動は変質する。


 最後まで読む時間がなければ、あらすじで済ませる。

 一話だけ読んで、全体を褒めた形にまとめる。

 あるいは、AIに要約させた文章を少し整えて貼り付ける。



 それは悪意のない、怠慢である。


 時間が足りない中で、善意を成立させようとした結果なのです。

 だが、逆に失われるものがある。

 それは、「正面からこの物語と向き合った」という感覚。



 作者は、案外こうした違いに敏感です。


 物語のどこに触れ、

 どの登場人物に言及し、

 どの一文を拾っているか。


 そこから、

 読者がどれだけ深く潜ってきたのかは、

 不思議なほど伝わってくる。



 だからこそ、

 心にもない称賛は、

 怒りより先に、虚しさを連れてくる。


 「あぁ、この人は“読んだ役”を演じているだけなのだな」


 そう気付いてしまった瞬間、

 その感想はどれだけ丁寧な言葉で飾られていようと、

 作者の胸を温めることはない。




 そして皮肉なことに、本当に丁寧に読み、考え、言葉を選び、正直な感想を書こうとした人ほど、

 沈黙しがちになる。



 なぜなら、


 ・場の空気を壊したくない

 ・水を差したくない

 ・求められているのは賛辞だと分かっている


 そう感じてしまうからだ。


 結果として、

 真剣に読んだ人ほど声を失い、

 軽く読んだ言葉だけが残っていく。


 これは、あまりにも歪な逆転現象ではないでしょうか。


 善意で始まったタグが、

 善意ゆえに、「誠実さの居場所」を奪ってしまう。


 小生がこのタグに感じる違和感の正体は、

 まさにこの一点にあります。


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