第三話
蒼葉は、静かに夜空を見上げた。
満月が雲間にぽっかりと浮かんでいる。
白銀の光が、宿の屋根を淡く照らしていた。
蒼葉は縁側に腰掛け、夜風を受けながら、ぼんやりとその光を眺めていた。
(——桜子)
思い出すのは、数日前のこと。
彼女の戦い、そしてその後——
鬼から人間に戻った男を、二人で森に埋葬したこと。
村人たちに任務完了を報告し、宴に招かれたこと。
剣の手入れをしていたら、村の子供たちに囲まれたこと。
酒を勧められ、適当にあしらっていたこと。
そして——桜子が、何も言わずに村を去っていたこと。
健闘を讃える言葉も、別れの言葉もなしに。
蒼葉が気づいたとき、彼女の姿はどこにもなかった。
(……去るのが早すぎるだろ)
本当に、風みたいなやつだ。
ふと、蒼葉の口から、無意識に言葉が漏れた。
「……綺麗だったな」
「何が?」
不意に、横から軽い声がかかった。
蒼葉が首だけで振り向くと、同期の鬼狩り——柊が立っていた。
長身で、赤茶けた髪を後ろでひとつに束ねた男。
ゆるく帯を締めた隊服に、着崩した羽織。
顔は整っているが、その目元には軽薄な笑みが浮かんでいる。
「まさか……女の話か?」
柊はニヤリと笑い、蒼葉の肩を軽く叩いた。
「珍しいな、お前がそんなこと言うなんて。どっかの村娘にでも惚れたか?」
「違う」
蒼葉は軽くため息をつき、月を仰ぐ。
「……鬼祓いに会った」
「鬼祓い?」
柊が目を瞬かせる。
「噂には聞いたことあるな。非公認の鬼狩りみたいなもんだろ? でも俺らと違うのは——鬼を殺すんじゃなくて、祓って元の人間に戻す……とかいう話だ」
記憶を辿るように言葉を紡いだ後、柊は月を見上げる蒼葉の横顔に視線を戻した。
「へぇ〜、実際にやってるやつがいるんだな。そんなん本当に出来るのかよって感じだけど」
柊は面白そうに口元を緩めた。
「一回くらい、見てみたいかもな」
だがそこに、別の声が冷ややかに割り込んだ。
「そんなの胡散臭い詐欺師連中よ」
宿の柱に寄りかかっていたのは、気の強そうな一人の女だった。
鬼狩りの女剣士——楓も二人の同期だ。
背は蒼葉よりは低いが、女性にしては高い。鋭い眼差しに、高い位置でひとつに結ばれた黒髪。
彼女は柊とは対照的に、きっちりと帯を締め、刃の手入れをしていた。
「国がもっとちゃんと取り締まればいいのに」
「おいおい、そんな言い方しなくても」
「実際、非公認の鬼狩りなんて、信用できるわけないでしょう」
楓は冷ややかに言い放つ。
「噂で聞いたことがあるわ。『鬼を祓う』なんて聞こえはいいけど、結局何をしているのかも分からない。偽の術で村人を騙して、金を巻き上げている連中もいるらしいじゃない」
柊が苦笑する。
「まぁ、そういうやつもいるかもな。でも、それだけじゃないんじゃねぇの?」
「根本的な問題よ。鬼は人を喰らう。それは紛れもない事実。だったら、一匹残らずこの手で討ち取るのが、私たちの役目でしょう?」
楓は静かに刀を撫でる。鈍い光を放つそれは、持ち主の心を反映するように一点の曇りもなかった。
「鬼が人間に戻るなんて」
そこで言葉を切り、彼女は一瞬、視線を蒼葉に向けた。
「ありえないわね」
冷たく言い捨て、反論は聞かないとばかりに立ち上がって去っていく。
蒼葉は、黙って彼女の背を見送った。
(報告書に、桜子のことを書かなくて正解だったな)
蒼葉は静かに目を閉じた。
初めは、自分も「鬼祓い」なんて胡散臭いと思っていた。
だが、実際に見た。
あの美しい光景を。
鬼の精神世界——幻域の中で、桜子が舞うように刀を振るい、鬼を浄化する姿。
——光を纏う刃。
——穏やかに消えていく鬼の魂。
——「おかえりなさい」と告げた、桜子の優しい声。
蒼葉は、もう一度空を見上げた。
満月の光が、静かに降り注いでいた。
時を同じくして、同じように満月を見上げる姿があった。
背に広がる白銀の髪に、同色の瞳。
彼の表情は、いつものように穏やかだった。
弟子が旅立って、幾日が過ぎた。
そして彼女が初めて、一人で鬼を祓った。
静かな夜風が、木々を揺らす。
(よく頑張りましたね)
心の中で、弟子を讃える。
桜子の刀は、鬼を殺すものではない。
穢れを祓い、魂を解き放つもの。
だが、それは決して優しい道ではない。
斬られた鬼が必ずしも人に戻れるわけではないし、戻ったとしても、すぐに息絶えることもある。
桜子は、その現実を受け止めることができただろうか。
「……きっと、大丈夫ですね」
師匠は微笑んだ。
あの子は、泣かない。
感傷に浸ることもない。
ただ、静かに受け入れて、祈るのだ。家族を亡くしたあの夜と、同じように。
彼女の心の内に、迷いがないことを願う。
雲間から、月の光がひときわ強く輝いた。
まるで、遠く離れた弟子を祝福するかのように——。
師匠はそっと目を閉じ、静かに笑んだ。
「桜子……今宵の月は、美しいですね」
彼女の行く末に、幸多からんことを。