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幻域の祓い手  作者: AIce*
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第二話

 



 夜の森は、静寂の中にわずかな不気味さを孕んでいた。


 枝の揺れる音、草葉を踏む小動物の足音。

 遠くで、鳥の羽ばたく気配がする。


「——来る」


 桜子が立ち止まった瞬間、木々の奥から気配が弾けた。

 息を吐く暇もなく、蠢く黒い影が風を裂くように襲いかかってくる。


 蒼葉は即座に刀の柄に手をかけ、鞘から鋭い刃を抜き放った。


「——ッ!」


 一瞬で距離を詰め、振り下ろす。


 だが——その刃は、止められた。


「駄目!」


 蒼葉の腕に抱きついてその動きを封じたのは、他でもない桜子だった。


「待って」


 桜子は短い言葉を残し、すっと前に出る。


「……待てだと?」


 蒼葉は目を細めた。


「今、斬れば済む話だろう。鬼は放っておけば村人を襲う。お前もそれを止めるためにここに来たんだろう」

「だから言ったでしょう。私は鬼狩りじゃないーー鬼祓いだよ」


 桜子は落ち着いた口調で言い、ゆっくりと地面に手をかざす。


 次の瞬間——空気が震えた。


「——幻域、展開」


 淡い光を帯びた陣が、鬼を中心に広がる。

 まるで見えない檻に閉じ込められたかのように、鬼はその場から動けなくなった。


「なっ……!?」


 驚く蒼葉を横目に、桜子はそっと目を閉じる。


「——」


 小さく何かを呟いた瞬間、桜子の身体がふっと揺らぐ。


「おい、待て!」


 蒼葉は咄嗟に桜子の腕を掴んだ。


 その瞬間——。


 視界が、一変した。





 広がるのは、血と闇ではなかった。

 そこには美しい田園風景が広がっていた。


 遠くには、夕陽に染まる家々。

 子供たちの笑い声が響き、田んぼには水が張られ、風が吹き抜ける。


「……これは」


 蒼葉が呆然と辺りを見回す。


「彼が鬼になる前の記憶」


 桜子は静かに答える。


「鬼だった彼の……最後の願い」


 その言葉を合図にしたように、目の前の景色が歪んだ。


 田園の中に異質な存在が佇んでいた。

 真っ黒な影、爛々と光る目、鋭い牙。


 現実世界で見た鬼と同じ姿をしたそれが、静かに口を開いた。


「……帰りたかった」


 巨大な異形から放たれたとは思えないほど、優しく澄んだ声。


 次の瞬間、鬼が襲いかかってくる。


「桜子!」


 蒼葉は咄嗟に刀を抜いた。

 しかし、桜子はそれを制するように、手をかざした。


「それで斬っても、意味がない」

「何?」


 二人のやり取りを待たずに、鬼の動きは止まらない。


「ッおい!」


 蒼葉は動こうとしない桜子を脇に抱えて後ろに飛び退きながら、反射でその腕を切り飛ばした。

 ボトリと地に落ちた腕。


「お前は何がしたいんだ!死ぬぞ!」

「五月蝿い。離して」


 眉を顰めた桜子は、丁寧に地面に降ろされてから、改めて鬼に対峙した。


「あーあ」


 小さく呟いた桜子の視線の先を辿ると、蒼葉は目を見開いた。


 地面に転がる鬼の腕が、意思を持って動き出していた。


「なんだ、あれ」

「だから意味ないって言ったのに」


 片腕を失った鬼がまた二人めがけて動き出した。

 二人はそれを避けながら、声を張って会話する。


「どういうことだ!」

「この幻域は鬼の精神世界なの。この空間では普通の攻撃は殆ど効かないよ。むしろ再生したり、強くなったりする。切った腕が動いただけなら、まだよかったね」

「意味わかんねぇよ!」


 鬼の攻撃を避けると、今度は右腕が頭蓋目掛けて飛んでくる。これでは敵が増えたようなものだ。


 普通の刀で斬っても意味がないなら、どうすればいいのか。

 優秀な頭をどれだけ回転させても、蒼葉の経験にも鬼狩りの試験にも、こんな事態に対処する方法はなかった。


「大丈夫」


 不意に、蒼葉の前に桜子が舞い降りた。

 その手には、先ほどまでなかったはずの、刀が握られている。


 淡い光を放つその刀は鞘も見当たらず、勿論鬼狩りに支給される刀ともまるで違う。


 前方からは突撃してくる鬼、後方には蒼葉が切り落とした鬼の腕が襲いかかってくる。


「一緒に帰ろう」


 桜子はそう言って、鬼の本体へ駆け出した。

 それは蒼葉に向けられたものではなく、目の前の鬼に告げられたものなのだろう。


 蒼葉は後ろから迫る腕に対処しつつ、桜子から目が離せなかった。


 まるで月明かりを纏うかのように、幽玄な輝きを放つ刃。それによく映える、桜色の髪。


 鬼の爪が振り下ろされる瞬間、桜子は一歩踏み出した。


 そして——舞う。


 風に溶けるような軽やかな動き。

 一切の無駄がなく、それでいて柔らかい流れの中にある、鋭い切っ先。


 桜子の刀が閃くたび、光が舞う。


 一閃。


 残されていた鬼の左腕が、白い光となって霧散する。


 鬼は苦しげに叫びながら後退するが、桜子はすでに次の動きへ移っていた。

 右へ跳び、軽やかに回転しながら、さらに二閃。


 その動きはまるで、夜風とともに舞う桜の花弁のよう。


「……すげぇ」


 戦闘中にも関わらず、蒼葉は思わず息を呑んだ。


 彼が知る剣術とは違う。

 荒々しく斬り伏せるものではない。

 流れるような剣さばき——まるで踊るような刃の軌跡。


 ——最後の一閃。


 桜子は静かに跳び上がり、宙を舞った。

 淡い光を帯びた刀が綺麗な弧を描く。


 それは、桜の花びらが舞い落ちる瞬間のように、美しく。


 鬼の首筋に、すっと刃が滑り込んだ。

 鬼の瞳が一瞬だけ揺れる。


 斬られた瞬間——鬼の身体は、黒い霧となって消えた。


 苦痛もなく、穏やかに。

 あたかも、この世界に最初から存在しなかったかのように。


 鬼が消えた跡に残ったのは、ただ静かな風だけだった。


 桜子は、ゆっくりと刀を下ろした。

 すると刀は、幻だったかのように、解けるように消えた。


 見惚れる蒼葉は、自身が戦っていた鬼の腕が消失したことにも気付かず呆然としていた。


 満月のような金の瞳は強い意志と儚い優しさを滲ませ、真っ直ぐに自分を見つめている。

 白くか細い手が、徐に蒼葉の腕を掴む。


「急いで出るよ」


 その言葉で我に返った蒼葉は、世界が崩れ始めていることにやっと気付いた。


 桜子はここに来た時のように、また小さく何かを呟く。





 次の瞬間、広がるのはあの森だった。


 目の前には、鬼だったはずの男が倒れていた。

 しかし、その姿はもう鬼ではない。


 元の姿に、人間に戻ったのだ。


 男は息も絶え絶えだった。

 鬼になっていた時間が長すぎたのだ。きっともう、長くはない。


 それでも——。


 男は、弱々しく微笑んだ。


「……ありがとう」


 それはあの幻域で聞いた、澄んだ声と同じだった。

 帰りたい、と切なさを滲ませていた声は、今はもうその影も見えない。柔らかく、二人に届いた。


 そのまま、男は静かに目を閉じる。


 桜子は黙っていた。


 そして、そっと両手を組み——静かに呟いた。


「おかえりなさい」


 風が吹く。

 桜子の言葉が、夜の静寂に溶けていった。






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