序章
山間の静かな庵。
夜の名残をわずかにとどめる空が、ゆっくりと淡い茜色へと染まりはじめる頃、縁側にひとりの少女が座っていた。
頬を撫でる冷たい朝風が、彼女のピンク色のふわりとした癖っ毛を揺らす。
蜂蜜を煮詰めたような金色の瞳が、揺れる火鉢の炎を静かに見つめていた。
「桜子」
優しく名前を呼ばれ、少女は顔を上げる。
そこに立っていたのは、白銀の長い髪を持つ男――彼女の師匠であった。
彼はいつものように穏やかな微笑を浮かべ、ゆったりとした仕草で縁側に歩み寄る。
「荷物は、それだけですか?」
桜子はこくりと頷いた。
「はい」
師匠は彼女の小さな荷包みを見つめ、微かに目を細める。
「ずいぶんと身軽ですね……まるで、すぐに戻ってくるつもりのようです」
冗談めかした口調に、桜子はしばらく考え、それから小さく微笑んだ。
「戻ってきても、いいんですか?」
師匠は静かに微笑むと、懐から細い紐のついた鈴を取り出し、桜子の手のひらにそっと置いた。
「これは……?」
「君が『一人前』として旅立つ証です」
桜子は目を瞬かせながら、それをそっと指でなぞる。
冷たい金属の感触と、揺らせば小さく鳴る鈴の音。
「まだ未熟だった頃、私が師からいただいたものです。いつか君が一人前になったとき、お渡ししようと決めていました」
「そんな大事なものを。いいんですか?」
「ええ。どうか、持っていってください」
師匠は柔らかく頷く。
「この鈴の音が聞こえるうちは、君は鬼に呑まれることはないでしょう」
桜子は鈴を大事に握りしめ、そっと首にかける。
そのとき、庵の周囲を取り囲む木々の向こうから、一筋の光が差し込んだ。
まだ淡く、それでも確かに世界を照らし始めた朝の光。
「桜子」
再び名前を呼ばれ、彼女は己の師を見上げる。
「鬼祓いの道は、決して平坦ではありません」
彼の穏やかな声が、静かな朝に溶けていく。
「君が何を信じ、何を救うのか――それを決めるのは、君自身です。
どのような道を選ぼうとも、私はいつでも君の帰る場所であり続けますよ」
桜子は少しだけ俯き、唇を噛んだ。
「……はい」
そして顔を上げると、いつもの静かな表情のまま、小さく笑う。
「いってきます、師匠」
「――ええ。いってらっしゃい」
朝の光が山を染める中、桜子は旅立った。
小さな鈴の音を響かせながら。